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 スペインとアメリカによる長い植民地時代を経て、キューバが革命により独立を果たしたのは一九五九年のことである。有名なチェ・ゲバラとフィデロ・カストロらの指導による革命であった。この革命は、現在のキューバで布かれている社会主義国家体制を目指したものではなかった。単に親米派のバティスタ政権を打倒して、その政権、アメリカ企業、そしてアメリカンマフィアが独占していたキューバの富をキューバ国民に取り戻そうという若者の熱い、血の煮えたぎるような想いだけで成立した革命だった。思想が行動を定義するのではなく、行動が思想を定義した良い例かもしれない。

 現在のキューバは従来の砂糖産業をはじめ、主に有機栽培に力を入れた農業中心の国家として食料の自給自足体制をつくろうとしているらしい。確かに貧しい国ではあるが、現在の世界状況を鑑みると、目の付け所が鋭く、行動に移すスピードが速いと言わざるを得ない。革命戦士の意志が生きている感じがする。

 私にとって初めてのキューバ体験は一九九八年のことであった。いや、未だにキューバに行ったことはないのだが、初めてキューバという国を意識したのがその年だったということだが、それは一枚のCDを通しての体験だった。

 『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』と題されたそのCDは、映画のサウンドトラックという形式をとって紹介された。正直言って、ヴィム・ヴェンダースによるその映画にはあまり興味を持てず、世界的大ブームとなり、日本でも大々的な宣伝がなされている中も、いま現在も未だ観ていない。しかし、その音楽には、TVやラジオ、街頭で耳にするたびに思わず身震いしたものだ。それは、いままでに耳にしたことのない音楽だった。ルンバ(ソン)のリズムにのせたグルーブ感溢れるベースとギター、そして少し外した老獪なピアノにトランペットが絡むその音楽は、一瞬で私の身体を金縛りにした。アフリカの貧しい青年が二十年間生きてきて初めてアイスクリームを食べたらこんな感じなのかな、と思うような体験であった。そこには世界の現代音楽のエッセンスがミックスして存在しているかのような雰囲気が感じられた。複雑なミックスすぎて最後には結局シンプルになった音と、やはり複雑な演奏があった。アフリカのリズムにスパニッシュギター、そこにアメリカのジャズを通過したピアノとトランペットが老練な素晴らしい演奏をし、ブルースミュージシャンであるライ・クーダーの素晴らしいプロデュースでまとめ上げた素晴らしいCDだった。

 音楽の魅力は、一言で言うと、音のずらし方、雑味の妙だ。すべての楽器が奏でる音は、雑味の混ざった音であり、和音は少しずつ周波のずれた響きである。雑味のない音はつまらないし、完璧な和音のハーモニーはひとつの音に聞こえてしまう。オーケストラにあれだけたくさんのバイオリン奏者が必要なのは、その音のずれによる厚み、奥行きを期待してのことだ。平均律によって調律されたピアノは、完璧な和音が生まれる周波数比からはずれる。そして、更に、ピアノ調律師による微妙な音のずらし方、腕ひとつでその和音は大きな膨らみを持つこととなる。

 グルーヴという言葉がある。グルーヴィング、グルーヴィーということもあるが、本来は溝を彫るという意味で、音楽用語では、音なりリズムなりが少しずれて気持ちよく鳴ったときのことを表現する言葉だ。ずれ過ぎては気持ち悪い。少しだけずらすことが肝心で、たとえば、素晴らしく熟練した演奏技術を持つ何人かが、とても難解な演奏をしたりするときに生まれやすい。逆は絶対に駄目だ。あくまでも完璧を目指して自然に滑っていくくらいでないとグルーヴは生まれない。そして、この完璧から離れそうで離れない、粘り強い演奏の果てに、何とも言えない浮遊感を誘う音楽が待っているのだ。この浮遊感は譜面上だけの作曲・編曲でも生まれ得る。基本のコードで鳴らすべき音の半音低い音を使ったり、基音(その小節で鳴っている一番低い音)とすべき音以外の音をベース楽器(最も低い音を鳴らす楽器)が演奏したりすると、そこに我々の脳を刺激する違和感が生まれるのだ。そしてそのノート(譜面)を完璧な調和を目指しながら演奏していくとそこにグルーヴが生じる。

 これは、ファッションの世界にも存在する。例えばジャケットやパンツで言えば、ナポリの素晴らしい職人たちは敢えてまっすぐ縫わない。ハンガーに吊るしたり平面に置いたときには、それらの服はどこかヨレヨレとしてみすぼらしく見えるが、それらを身に着けたときにピシッと極まる。木を見ずして森を見るというところか。また、アメリカンカジュアルウェアの世界で言えば、縫い糸の最後の処理をせずにただ垂らしておいたり、ジーンズの縫い糸の色を場所によって微妙に変えてみたり。(クラシックなものでは十色以上の縫い糸を使い分けている。)ブルックス・ブラザーズのボタンダウンシャツの襟のボタン位置は決して測らない。熟練した職人の勘に頼っているが、どの襟も美しいロールを描く。(特にアイロンをかけずに、第一ボタンを開けたときが美しい。)

 イタリアの靴職人もそうだ。型紙に合わせてパターンを切っては行くが、結構いい加減なものだ。特に木型が複雑な起伏を持っていたり、全体がねじれた、また内側に大きく振ってあったりした場合には、多少の遊びが最後に利いてくる。釣り込みといわれる、靴の立体化の工程で全体を見て微調整をするのだ。残念ながら日本の靴づくりにはこの感性がまだ未成熟なように見受けられる。熟考に熟考を重ねて、きれいに線を引き、一分の狂いもなく丁寧に裁断する。これ自体はどれも素晴らしいことなのだが、問題は出来上がった靴が発する美しさだ。よく一流の芸術には鍛錬の積み重ねはないという。科学の天才的な発明もそうだ。A=B、B=C、C=D、ゆえにA=Dではなく、ただA=Dなのだ。大切な最後の結果に辿り着くための工程を細分化して、効率的なものづくりをする日本人気質の良さはもちろん認めるが、最終完成品でみてどちらが魅力的かという問題とは別の話だ。

 この「遊びが大事」という考えは、結局は完璧なパターンなど存在しないというところから来ているのではないかと思う。大切なのはあくまでも森を見ることで、木々の細部に捕らわれ過ぎて全体の魅力を創造することに疎かになってしまうことを戒める考え方だと思う。本質を見ること。いつ何時でも本質を見据え続けること。これにより所謂「味」といわれるものが醸造されるのであろう。

 『ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』には「味」と「グルーヴ」が溢れている。全員が必死に全体の美を追求して演奏し、零れ落ちそうになるいくつもの音を皆で必死に紡いでいるのが感じられる最高の一枚だ。是非体感してみて欲しい。

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