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【エッセイ】#21 みんな一緒でみんないい。という呪い

 みんな頑張っているから。みんながいうから。みんな無理しているから。みんな普通にやっているから。みんなそう思っているから。
 その、みんなって誰よ? 普通ってなによ? じゃあ、なんであなたは発信しているの?
 
 最近、相談を受けたことだ。
 みんなが頑張っているから、私も頑張らなければならない。みんな無理しているから、私も無理しなければならない。みんな普通にやっているから、私もやらなければいけない。みんなそう思っているから、私もそう思わなければならない。

 この相談者。実は、私の妻だ。

 平均、平凡、平静に。
 誰かの前に立つなど目立つことを極端に嫌がり、周囲とのトラブルを避け、波風を立てず、ただ平穏な毎日を過ごしたいと考えて生活しているのが私の妻だ。私の生活スタイルとは真逆であるため、この点でも何度衝突したかわからない。

 元来、人間はその進化の中で「みんなと一緒」であることで、安全と安心を手に入れ、生存してきた。特にこの傾向は女性に強い。太古の昔、狩りに出奔したのは男性。集団内でのきょうどう生活において家族(子ども)を守っていたのは女性である。男性が狩りに出ている間、女性は集団内での関係性を良好に保たなければ、家族の居場所はなくなり、生存すら難しくなる。

 そのため、周りに合わせるということが最大の生存手段になっていた。これは、近現代においても長く続く。
 男性が稼ぎ、女性が家を守るという慣習があれば、男性が稼ぎに出ている間は、世間というコミュニティ内での交流は女性が主になる。

 こういった慣習が長い間なされてきた私たちの世界では、この「みんな一緒」という考えが長く「善」とされてきた。このコミュニティ内にいれば、安全が保障される。それは、より生存本能に近いモノになっていった。

 これがより大きく、拡張されていった考え方が全体主義、社会主義と呼ばれるものだが、今回の論点ではないので割愛をする。
 
 この「みんな一緒」という考えは抑圧を生む。とくに自らの意志や独自性を求めるものは、排除の対象となるのだ。
 排除されないために、自らの考えや行動を抑圧し、みんなに合わせる。それは自分が、家族が生存していくために。そうすることにより、個人として、生きるのではなく、「コミュニティ(や集団)として生きる」ことになる。
 
 そこには個人の意思など必要がないのだ。自らの人生や思想、行動をしっかりと考え、行動し、判断しなくていいのはとても楽なのだ。「安全・安心が確保され、決断の必要がなく、責任がない」これは、多くの人にとっては心地よい場所になるのだ。

 しかし、ここに疑問を持ちはじめるモノもいる。
 
 そのきっかけは往々にしてコミュニティ内の「声の大きな人」の判断が、コミュニティの判断として扱われるなどの一部の人間のコミュニティの専有化によるところが多い。
 そうすると意見を異にするするものはコミュニティから排除され、安全は剥奪されるのだ。

 コミュニティから排除されないようにするためには、先述した通り、自らの思考や行動を抑えることになる。自らの思考と世間との軋轢によって多くの人たちは、ココロを失うのだ。人生もココロも集団にコントロールされていきるというのは、本当に安全なのであろうか?

 この歪に気づいた人は、属することに、社会に、自らの生き方に疑問を持ちはじめるのだ。それは、日本や社会、世間に、会社に、コミュニティに依存した人生ではなく、自らの足で立ち、考え、行動し、判断をはじめるということなのだと私は思う。

 まさに社会や世間からの独立と再生。自らの人生を生きるということ。多くの人にしっかりと考え、再生してほしい。

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