【エッセイ】#19 太ったブタより痩せたソクラテス
ちょっと今回の内容はなんだか難しい言い回しが多くなります。
しかも、ちょっと哲学的な話なので、読まなくても構いません。
最近読んだ本で印象に残った言葉がある「満足な愚者より不満足なソクラテス」という言葉だ。この原点は哲学者であるJ・S・ミルの「太った豚より痩せたソクラテス」であろう。
ここでは「愚者=豚」を意味しておりで、侮蔑を込めたのだろう。家畜のように学ばず、豊かな食や無駄な知識で肥えているという皮肉も込めて豚と称したのだろう。それにしてもこのような結構キツイコトバを投げつけるとは、ミルも相当、怒りを抱いていたのだろうと憐憫の思いを持たずにはいられない。
ミルは、どんな者たちに対して「豚」と言い放ったかをもう少し詳しく見ていこう。
ミルはベンサムの論ずる功利主義の「幸福に不平等はない」という部分の反論の一部として、この一文を例として用いたのだ。
功利主義とはいってみれば「人間の行動は、何かしらの利益を与えるものである行動こそが尊い」とするもの。それは、自己や周囲に利益を与えるものであれば、なんでもよい(=すべて幸福)と唱えている。それは、肉体的快楽主義や精神的快楽主義であれ、「幸福には優劣はない」といったものだった。
これに対して、ミルはいう。
それら肉体的快楽主義と精神的快楽主義の間には深い隔たりがあり、精神的快楽主義は肉体的快楽主義に質的に勝ると説いたのだ。
例を挙げると、即物的な幸福を得る肉体的快楽主義に対して、物事の本質を問い続け、真理を得ようと欲する精神的快楽主義は、「より良く生きている」といえる。と。
正直、この例でもなにをいいたいかが、わかりにくい。もっとわかりやすい例を紹介します。ここで最初の例を持ってこよう。
肉体的快楽主義とは、豊かな食などの目前の快楽におぼれ、一時的な学びしかせず、無駄な知識で満たされた刹那的な生き方。
一方、精神的快楽主義では、物事の本質を問い、学び続け、心理を得ようと欲すること。
この2つの考え方、生き方には大きな人生の質的な差がある。
年齢の高低だけで論じたくはないが、体外に若者は肉体的快楽主義に傾倒し、年齢を経るほど精神的快楽主義へと移行していくことが多い。
これは即物的、場当たり的な考えから、長期的な考え方に触れ、しっかりと人生に考えるようになるためだと考えられる。
肉体的快楽主義の例として用いられる「太った豚」
精神的快楽主義の例として用いられる「痩せたソクラテス」
コトバ面だけを見て「痩せたソクラテス」を良いとし、「私はそう生きている!」と主張する人が多いが、その実、彼の行動が「太った豚」であることの方が極めて多い。このコトバに表される本質を理解していない時点でその人は「太った豚」なのである。
なによりも私は、「太った豚」が溢れ、大きな声で主張し、「痩せたソクラテス」のフリをし、本当の「痩せたソクラテス」を糾弾する現状を見ていて情けなく思う。
生き方や思考はその人が決めればいいので、どうでもいいけど、私は「太った豚」ではなく、「痩せたソクラテス」であり続けたい。
あの赤い豚のようにいうのであれば、「フリをする豚は、ただの豚以下だ」
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