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MIMMIのサーガあるいは年代記 ―25―

―ビルの場合―

 狒々ひひジジイの片方アメリカ人投資家のビル・フォン・バージニアは、伝説上の「隠れ簔」が無いのなら、最先端科学技術と有り余る資産を投じて創り出せばよいと、考えました。つまり、光学的に対象を透明化して観察者から見えないようにしてしまえば善いのです。そうして開発した光学迷彩素材を本物の古い簔に貼り付ければ、「隠れ簔」は完成します。彼にはあてがありました。
 彼の投資先の一つの更にその系列子会社に光学迷彩技術を研究している会社がありました。投資収益がほとんどないので、損切りをして投資を引き上げようかと近ごろ考えたことがあったから、数多い投資先の中でも記憶に残っていました。

 ヒューストンの個性の乏しい高層ビル群を眼下に収める投資会社のCEO室の中を、ビルはいらいら歩き回りながらその会社――ファースト・エイド・テック(F.A.T)――のCTO(最高技術責任者)からの連絡を待っていました。至急電話を寄越すように連絡してから一時間も経っていたのが苛々の原因です。彼を待たされることにまったく慣れていません。
 高層ビルに遮られた東の空がようやく紫水晶のように染められるころになって、やっと電話がかかってきました。

 光学迷彩を三日で実用化できるか、と彼は性急に問いただしました。
 F.A.TのCTOはこの唐突なオファーに戸惑いながら、現時点の技術的問題を説明しかけ、相手が素人だと思い返すと、光学迷彩の基礎概念をわかりやすく喋り始めました。
「そんな細かいことはどうでもいい! 三日でできるかどうかを知りたい。最長三十分間だけでも機能すればいいのだ! 出来ないなら資金はすべて引き上げる。それに、お前を世界中の産業界からはじき出してやる! 配管工か煉瓦積職人にでもなるんだな」と怒鳴りました。もちろん、資金は無制限、社員への莫大なボーナス支給を付け加えることも忘れませんでしたが。
 その哀れなCTOは、この歳になってから配管工か煉瓦積職人に転職するのは無理だと思い、莫大なボーナスも魅力的でシアトル郊外の住宅のローン残額を完済しても有り余るほどでしたから、思わず承諾してしまいます。
「できあがった完成品もしくは試作品は、日本西部の俺のクルーザーまで運ぶんだ。壊れないようにな。この搬送を含めて三日間だ。急げ!」

 CTOは、電話を切るとすぐに後悔しました。
 実質二日余りしか余裕がないのです。

「さあ、クルーザーに戻るぞ! ジェットの用意はできてるだろうな?」ビルは、電話を切るのももどかしく、秘書に大声で訊ねながら部屋を急ぎ足で出ました。
 ビルは日本へ戻る機上で、慌てふためいたF.A.Tの経営者からの電話を受け、もうすこし時間をくれと哀願され、光学迷彩の基本的な方法を聞かされました。

 それによると、光学迷彩を実現するには基本的に二つの方法が考えられ、一つは隠す対象者の背後の光景を撮影し対象者と観察者の間に置いたディスプレーのようなものに投影して対象者があたかも存在しないよう見せる方法。もう一つは、対象者背後の光景を歪めて観測者の方へ投影する方法、つまり観測者背後の光を歪曲させる力業です。この哀れな経営者が泣訴するには、自分の会社は後者の方法を研究しているとのことでした。そして彼の会社ですぐにこの光学迷彩を実現するには、光を曲げるのは膨大なエネルギーが必要で、原発三基分のエネルギーでは足らずメガトン級の水爆のエネルギーが必要だと言いました。
 もちろんビルは聴く耳を持ちません。ヒューストンでCTOに言ったのと同じように、資金は無制限、完成のあかつきには膨大なボーナス、ただし三日以内に完成品を日本西部に仮泊している彼のクルーザーに届けること、以外にはありません。

 彼はたったいま説明を受けた内容の断片を咀嚼すると、こう付け加えました。
「第一の方法で研究開発している企業か研究所はあるだろう。一番有望なところをすぐに買収してお前のところの子会社にしろ。資金は無制限、買収交渉の権限はお前に全権委任する。……これで問題はないだろう。急げ……三日の期限を言い渡した時からもう四時間が過ぎてるぞ!」
 F.A.Tの経営者が企業買収のことや買収権限委譲のことで、顧問弁護士との相談やただ今の約束を文書化したものが欲しいなどと長々と言いつのるのに我慢ができなくなって、こう言い放って衛星電話を切りました。
「俺を誰だか知らないのか? 世界のビル・フォン・バージニアだぞ! この名前にかけて二言はない。とにかく急げ。それだけだ。お前のまちまちとした小言は後で聞いてやる」
 ですが、たった今メガトン級水爆のエネルギーが必要だということを思い出して、すこし怖ろしくなりました。水爆の危険性を怖れたのではなく、資金の多額におののいたのです。彼は、自分の全資産の一割までは桃子のために散財してもいいと、心づもりをしていましたので、F.A.Tの経営者やCTOに資金無制限と約束したのを後悔しました。彼は意外にも吝嗇です。むしろケチと言ってもいいかもしれません。桃子への想いもどうせその程度ということです。

 数時間後、ビルのプライベートジェットが太平洋西部にさしかかるまでに、彼はこの全資産の一割という呪縛を、テレビで視た桃子の容姿を思いうかべて心の中でなんとか丸め込むと、思考を切り替えます。
「古い簔のありかは分かったか?」アメリカと日本に散らばる自身のスタッフとコンサル会社や調査専門会社に予め指示していた結果を問いただしました。
 もちろん、間にあわせに開発した光学迷彩素材を貼り付ける古びた簔です。簔自体はごく一部で製造販売されていて入手可能ですが、消耗品である簔の古いものが「隠れ簔」に必要なのです。ただ、あとで述べることになりますが李戦念のように製造年を古く見せる、いわば偽造という手法をビルは思いつかなかったのです。
 機が日本近郊に近づくころになって、よいうやくあるコンサル会社から有望な情報が寄せられました。日本中部の山岳地域に雨ざらしになった古い簔があるということでした。
 彼は、事前の飛行計画やら羽田の着陸許可がどうのこうのと、ビルのあずかり知らぬことで煮え切らないパイロットに、羽田空港に降りるように命じました。
 その古い簔のありかは、岐阜県北部の山中でほそぼそと営業している民宿の壁に掛かっているとのことです。
(つづく)