浴室で秘かに髪を染めるいくつかの理由(1)
――人は暗いところでは天使に会わない――
山尾悠子「アンヌンツィアツィオーネ」より
一
過ぎ去ったものはすべて美しいと、誰かが詩に書いていた。
この言葉にはいくばくかの真理が含まれていよう。過ぎ去ったものちは、たいてい甘美によそおい、油断をついて身近にすり寄ってくる。
だが真実はこの言葉の肯定と否定の両極のあいだに無数にあるのだと、判るくらいの世才がつく年齢には既になったと思っている。だから過ぎ去ったすべてのものたちを、標本箱の昆虫標本のようにそれぞれが相応しい箇所に正しく体系的に納め、すべてを俯瞰できると自負していた。
高校時代の同窓会の案内状を、机上に出してあらためて見てみた。五日後に故郷にあるRホテルで開かれる。
卒業後、二十年以上のあいだ同窓会が一度も開かれれなかったのは、幹事に恵まれなかったのか、卒業生が多忙なその後の人生を送ってきたからかは定かではないが、はじめての学年単位の同窓会になることは間違いない。
もちろん、わたしは参加する旨を返信した。
だから、いまこのように小さな書斎に閉じこもって、卒業アルバムや当時に撮った写真をひっぱりだして、あの頃を追憶している。わたしが撮った写真のピントのあまい写真や、アルバムの学年全体を写した集合写真が出てきた。わたしは今よりも随分細く、色白で、躰に合わない学生服を着て、カメラに向かって笑いかけている。今見ると気恥ずかしいくらいに笑っている。
顕子ももちろん写っている。彼女は集合写真の端の方で、光源が眩しいのかやや目を細めてぎこちない笑いを、カメラに投げかけている。制服に小柄な躰をつつみ、怒り肩の右側を幾分上げている。
この写真を眺めるにつれて、当時の情景が流れていった。
些細な原因で、豊かに変化する顕子の表情が蘇る。うれしい時、気分が落ち込んだ時、わけもなく怒り、何かを夢見る際などに、彼女の表情は頻繁に変じ、心の些細な動きをすべて表情に顕した。わたしの何気ないからかいのことばで、軽い怒りから、少し気落ちした表情へ移っていく際の変化を、懐かしくありありと思い出す。
また鬢のほつれ毛を耳の後ろにかき上げる無意識の所作や、このときの薬指の白さが写真から鮮やかに蘇る。
やがて熱帯の密林が秘める温気に似た顕子の唇の熱さに触れたくて、写真の唇の部分にそっと指を当ててみた。しかし印画紙は、冷ややかでザラザラとした感触しか残していない。
恋人だったといえるかもしれない。……彼女とは何事も起こらなかった。大昔の高校生の、プラトニックな恋人同士と類型化される関係であった。
顕子とは久しく遭っていない。
卒業する際は、何も考えずに互いに自分の進路へ進んだ。卒業後も何となく出会って、これからも高校時代と同じようにふざけあうのだと、二人は当たり前のように考えていた。だから、進学先が別れたことも深く考えなかった。
わたしが受験に失敗して東京で予備校通いをはじめ、彼女は京都の短大へ進学しても、何度か手紙のやりとりをしていた。わたしが一浪ののち東京の大学へ進学してから、五月の連休や夏休みに帰省すると、ほかの友達を交えてさんざめきながら遊びまわっていた。
このころ、顕子を恋人と意識して二人きりになる機会を幾度もつくってみたこともあった。だが彼女は、わたしといると心が落ち着き、それだけで満足していたようだった。
一度あるとき、目を遭わせながら不意に会話が途絶えたことがあった。
顕子の瞳から目をはなさずに、彼女の手の甲に指をおき、腕から上へゆっくりと導いていった。白い皮膚が柔らかく沈んで移っていった。
無言の誘いのつもりだった。これまで以上の関係を求めていた。だが二の腕の半ばまで達したとき彼女は、わたしの人差し指をしっかりと握りしめて腕から乱暴に引きはがし、大きな瞳で怒りをこめて睨めつけた。
顕子のこのときの気持ちは後々まで理解できずにいる。このことがあった後は、あまり口をきかなくなっていった。
顕子の記憶が残るのは、これが最後である。その後、わたしは大学一年生の秋ごろ、狂おしくて、そのくせ悔恨ばかりの未熟な恋をした。
他学部の同級生が相手だった。結末は、わたしの自殺未遂でついえた。だから顕子のことは、久しく忘れてしまった。
以降も顕子の消息は、共通の友人からそれとなく耳に入った。短大を卒業して地元から離れた金融機関に就職し、五年後に見合結婚をしたこと。T市で二人の子をもうけて、落ち着いた生活をしていることなどである。だが三十歳を過ぎてからは、もう高校時代の同級生の消息は途絶えがちになってきた。同世代の者は、仕事や家庭の些事に追いつかれてしまう年齢になってきたのだ。だから、彼女の近況は詳しくは知らないでいる。
同窓会に彼女も出席することは、幹事の稲次からそれとなく聞き出している。
同窓会で彼女と顔を会わすのは、昔の関係をいまさらどうこうしようとするものでも、感傷に涙しようとするものではない。
ただあの頃、十八歳の頃に還って、無邪気に笑いたいだけである。高校卒業後に過ぎ去った無慈悲な歳月を、いっとき忘れ去りたいだけなのだ。わたしのような、娘二人の子持ちの冴えない五十路手前の中年に、華やかさやスポットライトは似合わないことは充分わかっている。顕子に同窓会で出会うのは、懐かしさ以外になにもない。
二
……さきほどから妻が階下からわたしを大声で呼んでいる。長女の服を妹がかってに着て外出したことで、姉妹が諍をしているらしい。この諍いを止めてくれと、言っている。上の娘は激高していて、ずいぶん聞き取りにくい。こらえきれず、いいかげんにしろ、静かにしろと、階下へどなった。
卒業アルバムの音をたてて閉じた。追憶を中断されたので顕子の昔の面影を追うことは止めたが、彼女に約二十年数年ぶりに顔を合わせる際には、わたしはなるべく昔のままでありたかった。これはわたしの小さな矜持であり見栄でもある。
ためしに前腹をつまむと、脂肪の厚さが五センチ以上あった。次に脇腹をさすってみると、ここはまだ脂肪の厚みが少ない。この脂肪の付きかたから、同窓会当日はウェストを少し絞ったダブルのブレザーを着ていくことに決めた。このブレザーなら、正面から眺めると胸郭から腰への流れが強調されている。脇腹の脂肪が隠されて、前腹の脂肪の高まりも目に付きにくい。腹がでていることを幾分なりとも隠せると思った。
階下から次女が歔くのが耳にとどく。夜分に近所への体裁もあるから、降りていって諫めようかと思ったが、妻と二人の娘の間にはいって話を最初から聴き、仲裁するのは億劫だった。それに高校時代の思い出を中断し、四十四歳の現実に引き戻されるのは御免だ。
四十四歳……そう、わたしや顕子が高校生だった頃の親の年代だ。上の娘も、あの頃のわたしの世代である。つまりわたしたちの高校時代から一世代経っている。これは決して短い時間ではない。とりもなおさず顕子も、当時のわたしが見た親の世代になっているのである。
あの頃、親の世代をどう見ていただろうか。
高校二年生の父兄参観の日に、級友が参観にくる母親たちをさしてどう言ったかを思い出した。
『男も人生も、恐いものが何一つなくなった女たち』だった。あの時ほかの級友もこの言葉に共感し、笑って受け容れた。
実際はこの歳になってみても、は世の中には恐いものばかりであふれているのだが、高校時代には四十歳過ぎの世代の女性を、このように考えていたのである。昔の級友のこの言葉に当てはめれば、『顕子も恐いものがなくなってしまった世代の女』である。だが、久々に出会う顕子は、さっきひらいたアルバムの中でこちらを見つめて微笑んでいたままであって欲しかった。
……階下の諍いはどうやら治まったようである。母娘たちでテレビを見ているのか、妻がたてる胴間声のだらしない笑いが響いている。やがて「おとうさん、お風呂にはやく入ってよ」と、妻が声をかけた。用件は内線電話を使い大声を上げて二階と一階で話すなと、妻に長年くどくど注意してきたが、一向に改まっていない。
こんな妻にため息をついて、卒業アルバムを書棚の奥に仕舞った。
ふと書棚の横に掛かっている鏡をのぞき込むと、中年のわたしの顔があった。顎の肉と瞼が垂れ下がっている。瞳には往年の輝きは失せてしまっていた。耳の上からモミアゲにかけて白髪が少し目に付く。せめて白髪だけは黒く染めて同窓会に出ようと考えた。