麗子のことなど (3)
麗子と邂逅したこの日、仕事を終えて会社の通用門を出るとすでに午後十一時をまわっていた。プライベートのスマートホンをきぜわげに起動すると、麗子からのショートメッセージが何件も届いている。
その大まかな内容は、”Signal”というメッセンジャー・アプリの利用をうながし、このアプリで連絡を取り合うという指示で始まり、返信の再三の催促だった。
わたしは、通用門脇の乏しい街灯の明かりのもとで、”Signal”アプリをダウンロード、インストールして、さっそく返信した。くだくだと謝り、仕事が予想以上に多忙だっと、と言い訳ばかりをしていた。
しばらくして、麗子から質問が届く。
<それで、いつ、どこで出会う? >
この問いに即答できなかった。
この日の帰社後、運悪く急な仕事が舞い込んできて、この先一月ほどは多忙が確定し、残業、休日出勤、出張などが続くはずだった。麗子と笑談することが待ち遠しかったが、仕事ではどうすることもできない。
だが、彼女と会ったあとどうするのかはまったく考えていなかった。
彼女にすこしばかり魅せられたには違いないが、それ以上に懐かしさがまさっていた。それは、青春時代の脆さ、未熟さ、不安、蛮勇などが混じり合った、ある種の眩しさを冷凍保存しているように見えた麗子に接することで、わたしが早くも失ってしまったこれらを、取り戻せるかもしれない。いっとき、そんなおろかな幻想を抱いていたのはまちがいない。
再会したのは二十日ほどあとになった。
九月上旬の土曜の午後。彼女が指定した、R市唯一の繁華街にある喫茶店「タリーズ」だった。
わたしは約束の刻限よりずっと前に着いて、店内から大きな窓越しに街路を眺めながら待った。初夏の新鮮な朝の訪れのように、彼女がかがやいて姿を現すのを期待していた。
待ちくたびれたころになってようやく、せわしない雑踏のただなかに麗子があった。さいしょは、街の奔流に混じったモノトーンの点描だった。しだいに、色彩をおびて彼女は輪郭を形づくる。ついで、秩序のない群像のただ中に際立ってくる。麗子はついに、博物館の中央に展示された古代の立像のように、群像を従えて立ち現れた。
季節外れの風花がただようように近づいてくる。象牙色をした麻のワンピースを緩やかに身にまとい、大きな帽子のつばで日陰を編み出している。裾が歩みに合わせて軽やかにひるがえり、形のよい脚をかいま見せる。
「九月なのに、この暑さなって何なの。中山くん、なんとかしなさい」
またも理不尽なことを口にしながら、麗子は倒れ込むように椅子に腰をおろした。スカートの裾が羽毛をまねてひととき舞う。暑いというわりには、汗一つかていない。
いそいで、ハンドバッグからスマホを取り出して電源を切り、バックに戻した。
「これで苛々する邪魔がなくて、ゆっくりできる。中山くんも電源を切りなさい。……呼び出し電子音が大嫌いなの……。飲み物は、モカマイアートをトールでお願い。もちろんホットでね」わたしが、挨拶をきりだすいとまもなく彼女がしゃべった。
……
正面に座ってから彼女に目を合わせる。太いが伸びやかな形のよい眉、やや眠たげな瞼だが黒目がちの大きな瞳。細く通った鼻筋……。フランス十九世紀のある小説家のように、麗子の美しさだけを執拗に書き連ねたくなっていた。
「あれからどうなったの」とだけ、また麗子がいきなり尋ねる。
いつを起点にした質問なのか不明なうえに、学生時代に彼女にあった最後がいつだったかも憶えていない。しかたなく、新入部員に文芸部を乗っ取られた経験を口にした。
「レイもキャンパスが変わってサークルに顔を出さなくなったけど、それは耳にしたわ。でも、あのころが一番楽しかった。今から思うと、先のことは何も考えていなくって、日々がすぎていく感じだったな」
「近ごろ僕も、おんなじように思ってます。まるで自分が不老不死の英雄と信じてましたからね。でも本当は、ほんの一瞬の、しかも偽物の執行猶予だったのだと……。若かったというより、馬鹿だった」
「そうねぇ、だけどもう一度あの頃に戻れたらって、何度も思うの」
「実際のところ、いいことばかりじゃなかったはずです。苦い記憶を都合よく、すっかり忘れただけだと思います」
わたしは彼女を挑発するように、小さく反論してみた。
「幻想だったかもしれないし、美化した過去だと分かっているけど、これからの永い永い人生には、なにか一つか二つ幻想がいるんじゃないかしら。……なんか初っぱなからこんな堅い話になって……」
こう言って彼女は気恥ずかしさを逸らすためか、モカ・マイアートを必要以上に長く口にしていた。
わたしが、こんなに自分の感情と考えを馬鹿正直に口にできるのは、大学で同じサークルだったのと、互いの創作物を目にしていたからだろう。就職してからは、同期の社員とは馬鹿なことやふざけたことを言い合うが、互いに心情を吐露しあうことはない。同僚とは、ある意味仮装の友情しかなかった。
「で、中山くん。結婚してるの?」
わたしが話柄を転じる先手をうって、麗子が尋ねた。
「まだです」
「で、彼女は?」
「……」
「それって寂しいね」
麗子さんはNとはどうなった、と問い返したかったが、ようよう踏みとどまる。
「学生時代はどうだったの?」
「片想いの人はいました」
わたしは、おずおずと当時の失恋を語りだした。会社の同期には語れなくても、大学時代の知り合いにはあからさまになれる。麗子に心を開いたとうばかりではない。このわたしの恋は、文芸部で同級生だったHやAも知っていた。知っているどころか、わたしは助けを求めて、相談もしていた。つまり、この打ち明け話は、わたしとHやAの周辺にいた麗子にとっては、本来ならばある意味秘密でもなかったはずだった。
「そうだったんだ。ちっとも中山くんはそんな素振りがなかったけど……」
「で、今は?」
「また、片想いなんです。会社の技術職の同期。彼女と絶対に結婚したいんですが……。彼女は、……大学時代の同級生とすでに婚約していて……」
「それってもう無理ね。可哀想だけど」麗子は容赦なく断言する。
わたしは黙ったまま、アイスコーヒーをかき混ぜて、溶け残った氷の音をことさら高くたててみた。
「大丈夫よ。ヒロくんなら、いい人にきっと会えるよ。顔は、……そうねぇ……顔面偏差値52くらいで、真面目な性格だから。ちょっと硬いかんじもするけど……」
「それって褒め言葉になってませんよ。顔面偏差値52って」ふくれっ面をわざとよそおって抗議した。麗子が学生時代に、わりとぶっきらぼうなところがあったのと、わたしを苗字でなく初めてあだ名で呼んでくれたのに、温かみを感じたからだ。
「レイが保証するから、間違いないって」こう彼女は言い放つと、朗らかに口元を崩した。
(続きます)