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浴室で秘かに髪を染めるいくつかの理由(4)

    五
 
「いじわる。昔もそうだった」
 彼女は大袈裟にわたしの太股をつねった。
 似た情景が思い出された。確か高校二年生の時だった。何かの授業であったグループ討議の真面目な討論で、わたしが彼女の隣で場違いなとぼけた発言をしたことがあった。そこで彼女が、今のようにわたしの太股をつねって「いじわる」と、言った筈だった。このささやかな追憶がはっきりと蘇ってきていた。
 
 彼女のこの可愛らしい非難に、弱々しく微笑してみせた。これに応じて顕子は、左手で頬杖をつき、半身をわたしに傾けた。
 顕子がカウンターの上に出した右手の甲に、視線が自然と移る。
 薄暗い照明のもとでも、顕子の手の甲に木の根の拡がりのような静脈が走り、皮膚が乾ききってそれを覆っているのが、まざまざと分かる。瀟洒で小粋な腕時計も彼女の腕先を飾らず、やたらと手の甲の加齢を引きたたせているばかりだった。そこにはもう、高校時代にみた白い大理石のような繊細な手はない。この小さな事実がわたしの心に、喪失の悲しみの薄い皮膜をさらに重ねた。
 
 視線を顕子の顔に向けると、横目がちに見ている彼女の目とかちあった。目尻に皺がよって重く垂れ下がっているのに気づく。その近くの鬢の生え際に、白い箇所がわずかに目につき、髪を黒く染めていることを見つける。

 客が数少ないラウンジは、ピアノ演奏音だけが甲高く響いている。窓の外は風雨になっていて、窓硝子に斜め向きの雨滴が張りついているのが目に入るが、外の騒がしい音は伝わってこなかった。
 窓硝子にあいまいに映っている顕子の姿に見入っていた。反射した姿だけを見ていると、高校時代の顕子のようだった。右肩を心持ち上げた怒り肩で、今は正面を向いている。ときおり神経質に耳朶にからまった橫髪を、指で梳くように何度も掻きあげる。この昔の癖が、今でも変わっていないと知り、好ましかった。
 
 わたしはいま発見したことを振り払うように、
「今日の同窓会に来ていたみんなは、男は仕事のことばかり、女性は結婚生活のことばかりを喋っていたね、多分、それが男女の最大の関心事じゃないかって、考えていたところ。そしてそれぞれの関心事の成功が、幸せじゃないのかなとも……」と、太股をつねった彼女の可愛い非難に応じてみた。
 
「そうかもね……。そう言われると、そういう気もする。……でも、そんなことを考えなかったあの頃は良かったわ」
「そうだね」
 これ以上に“今”を語るのに言葉はいらないようだった。互いの配偶者の話はわざと意識してか、まったく出なかった。
 今の心境についての会話は、ここで尽きた。ただ昔の懐古に話がまた移った。

「ほら憶えてる? 二年生の修学旅行……」
「ああ……憶えてる」
 九州を周遊した修学旅行についてしばらく語り合ったが、記憶をすべてはき出すと、やがて話題は尽きた。
 この話題のあいだじゅう、わたしたちは互いの顔ではなく、硝子に映った陰影に向かって話し込んでいた。横にいるのはどちらも四十四歳の昔の恋人だが、硝子に映っているのは高校時代のままの自分と顕子のようだった。
 
 ふと顕子の掌に、左手を重ねてみた。
 それは見かけどおりに乾いていて、幾分荒れ、冷たさが伝わってきた。この冷たさが痛ましい。力を込めて彼女の手を包み込んでみた。 だが冷たいままである。いたたまれなくなった。顕子をこのように変えてしまった歳月の非情さを恨んだ。
 
 顕子は黙って、ゆっくりと掌をかえした。
 互いに指先を絡めあう。彼女の指先の指紋のかすかな起伏が、さざ波のように伝わってくる。もういちど力を込めると、顕子の掌は汗ばんできて、密やかな熱気をおびてきた。頬は化粧をとおして赤らんだように見えた。
 顕子が肩をわたしに寄せてきた。ついで緞子の着物のような華やいだ重みが肩口に雪崩かかった。
 髪につけた香料の香りがわき起こった。それにカルバンクラインの沈鬱な香水の薫りが、かすかに融け合って鼻腔をついた。
 
 このままじっとしていると、十八歳の頃に還ってゆくようだった。羞恥と荒々しさと、未熟と焦燥と、不安と悔恨が、撹拌の坩堝へ投じられたような年頃を再び体感した。
 こう思いながら互いに実を寄りそっていると、中空に躰を投じたような放恣に絡めとられる。
「……もう行こうか?」とわたしがささやき、彼女はわたしの肩の上でゆっくり頭を垂れた。
 
 ……そとは霧のような雨に変わっていたので、わたしたちは傘をささずに身を寄せ合ったまま、行人を避けて繁華街のはずれを目ざしていた。ふたりとも行き先を口にはしなかったが、互いに熟知していたつもりだった。
 寄せあった肩をとおして、顕子の熱を封じ込めた躰のこわばりが伝わってくる。二人の歩みによってときおり触れる衣擦きぬずれのかすかなざわめきが、耳につく。顕子は顔をこころもち下げて寄りかかってくる。わたしは彼女の歩みに合せてゆっくりと進んだ。
 
 このあたりは駅前の区画整理のあとで、わたしたちが知っていた頃とはずいぶん街並みが変貌していた。角を曲がると国道の車の流れにゆきあたり、横道に逸れると行き止まりだったりして、散々に歩き廻った。
 わたしは先を焦る気持ちと同時に、心のどこか隅でこの道行きがふとした原因で、突然途絶えることを願っていたかもしれない。それは家にだらしなく居る妻のことを心に泛べたからではない。今になって思い返しても妻のことはまったく考えていなかった。

 当然、妻への裏切りに心を乱すこともなかった。顕子とラブホテルへ入り込むことに道徳的な後ろめたさなどなかったと、断言できる。
 だが、未知のためらいが密やかに忍び込んでいた。それははじめての曙光が射す前に、東の空を染める茜色に混じった淡い水色のようにかすかなものだった。だからこのかすかなためらいが何なのか分からなかった。
 
 もとより顕子の肉躰を翹望していた。
 だが、熟れた熱帯の果実がたわわな芳香を放って盛られたような肉躰への憧憬だけではない。ただの肉躰だけではない。肉欲だけではない。顕子との昔のつながりを取り戻せると信じていた。昔を呼び起こせると信じた。少なくともわたしの場合はそうだった。
 
 それは社会人になって以降の永い人生とその成果を肯定するための儀式として、必要だったのかも知れないと、いま考え直している。わたしの原点の一つを構成するのが、昔の顕子であると考えた。そしてその当時に欠けていた何かを、この時補完できるのではないかと思い込んでいたのかも知れない。
 
 一方の顕子は、このときどう思っていたのか分からない。久しい年月を経た昔の恋人と再会した情熱からくるものか、わたしと同様に可能性に満ちあふれていた十八歳の自分への懐旧を誤飲した結果だったかも知れない。