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麗子のことなど(1) -再掲-

某氏の「玲子」という女性にまつわる連詩に触発され、同名の女性を追憶した残滓である。

 大学一年生の夏、文芸部に入部した。
 一ヶ月前に新築の建物に移転したものの、部屋は建材見本のように真新しいはずだった壁はすでに汚れ、黒鉛筆と赤インクで落書きされていた。かつての部室から運んだものらしい木造の傷だらけの歪んだ長机、まともに座れそうにもない椅子が散らばっていた。ページが開かれたまま、あるいは表紙がちぎり取られた雑誌が、あちこちに崩れかけた堆積になっている。まるで遺跡発掘直後の散在する遺物のように乱雑だった。つまり文芸という名称が醸し出す文化的なものはほとんどなかった。

 部員は年齢不詳、正体不明の胡乱な先輩たちがほとんどで、同級生が四人。そのうちの一人が文学部の女性Kで、唯一まっとうに思えた。経済学部のH氏もいた。
 先輩には妻帯している学生もいて、夫婦間のささいな不和をしょっちゅう嘆いたりしていた。のちに知ったのだが、学生でもない三十過ぎの無職男性が学生F、部員のような顔をして大手をふって出入りもしていた。

 体育系や学術系サークルのように、毎月、あるいは週一度は必ず顔をのぞかせるとか、定例的に会議をするとかという規則や義務は一切なかった。肝心の創作活動も作品集の発行は不定期で、部員に執筆掲載するしばりもなく、気が向いて作品ができれば出稿するといったいい加減なものであった。部費も喫茶店のコーヒー数杯程度で、大学からの補助ですべてまかなっていたようだ。不思議な話なのだが、まあ支出することはほとんどないのだからあたりまえのことだろう。

 だから、創作活動をして、互いに批評するようなことはない。ただ毎日、部屋に集まり雑談をし、ときたま野球用具を学生部から借りだして、グラウンドでソフトボールをするくらいだった。もちろんこの雑談もけっして文芸的なものではない。スポーツ新聞を広げて前夜のプロ野球でさるバッターのスイングがいかに流麗だったか、新しく見つけた飲み屋の値段などが主である。もっとも文芸的な話題としては、純文学作家をなんら根拠なしに批判、または称賛し、備え付けのノートに、ペンネームで殴り書きするくらいのものであった。

 先輩連中も威張ることもなく、和気藹々としていた。わたしにとってもHら同級生にとっても居心地がよかったから、授業の合間などに用事もないのに顔を出し馬鹿話を交わした。

 こんな猥雑な中に、麗子という女性がいた。三年生だった。世間一般でいえば美人である。だが掃き溜めに鶴、と言いたいわけではない。当時のわたしにとっては、年上の単に美人ていどの存在だった。
 わたしたちは親近度合いによって彼女のことを、レイ子さんかレイと呼んだ。だから苗字をわたしは知らなかった。わたしは、彼女と詩や小説について意見を交わした記憶がまったくない、二人だけで雑談をした憶えもない。ただただ、挨拶と用事などについての言葉を交わしたくらいだった。これを会話とは言わないだろう。わたしの同級生たちとも同様で、二歳違いなのに大きな年齢差を感じていた。さらに、彼女が馬鹿話に加わらない点では、他の上級生たちと違っていた。
 彼女は化粧気がまったくなかったことは明瞭に憶えている。だが化粧に勝る色白で、面長に目鼻立ちの比較的はっきりした容貌。やや背高い細身の躰に、ストレートジーンズにトレーナーかTシャツという質素な装いで、華美な服装やブランド物を着ていた憶えはない。
 美人だからといって、先輩たちからちやほやされていたわけでもない。むしろ、彼女の気紛れとわがまま、予期せぬ感情の振幅に辟易していたように思う。

 REIのペンネームでもっぱら詩だけを書いていた。
 彼女の詩は、まことにありふれたもので、単語を並べただけのもののように思えた。詩というもの善し悪しを本質的に理解できないわたしにとっても、彼女のそれが詩なのかどうか分からなかった。まただれ一人、彼女の作品に言及しなかった。(まあ誰一人批評をしないのはわたしの駄作に対しても同様であったが)

 ある日、何人か集まって文学部四年生Nの就職最終面接の様子を聞いていた。彼は浪人と留年を繰り返し、拘置所も体験したという人物だった。
 わたしたちが、面接の応答内容を質問していると、部屋の端に一人でいた彼女が不意に立ち上がり出ていった。ドアを、当てつけにことさら甲高く閉めて……。わたしや同級生Hは麗子のこの振る舞いが何事なのか分からなかったが、妻帯している三十まじかの上級生が訊ねた。
「昨日なにかあったのか」
「一緒に飲みに行ったが……ちょっと……」
「ほっておいていいのか」
「しかたがないなぁ」とNは小声で言い、身重な妊婦のしぐさで立ち上がり、長い間をおいてから彼女の後を追った。

 わたしとH は黙って顔を見合わせた。Hもわたしも彼女がNの恋人だとはまったく知らなかった。Nは麗子にあまりにも不釣り合いだった。外貌だけでなく、その性格も。また日頃から、二人はそんな素振りは寸毫も顕わにしていない。だが、Nの同級生には今の口ぶりから、二人の関係をすべて承知のようだった。
 わたしはすこし嫉妬した。Nと一緒に並んで外を歩くだけで、男女とも振り返り小首を傾げるだろう。
 太宰好きのHは翌日、備え付けのノートに、可憐な月見草は富士山に不釣り合い云々、の雑感を殴り書きしていたが、これが麗子とNの関係を仄めかしたものだと、わたしは察した。
 わたしといえば少しばかり嫉妬はしたものの、Hほどではなかった。
 わたしは、そのころ学内で時折見かける女性に狂ったような片想いをして、麗子にまで関心を寄せる余裕などなかった。彼女は相変わらず年上の美人にやや奇矯な、という一言がつけ加わるだけだった。
 
 そんな想いが少し崩れたのが、秋に文芸部でコンパをしたあとのことだった。

 コンパそのものはまったく憶えていない。ただ、コンパがひけてみんなで、ほろ酔いのまま騒ぎながら郊外の川縁へ出た。
 対岸のぎらついた照明の反映を宿した川面が、ざわめき輝いている。わたしたちは、河川敷へ降りて、取っ組み合いをしてお互いに川に投げ入れようとしてふざけあっていた。

「川にはいろう」と、彼女が叫ぶ。
 麗子は、靴を石敷の河川敷に投げ捨てズボンの裾をまくりあげ、独りで真っ直ぐに川水に向かう。
「風邪ひくぞ」、「硝子の破片があったらケガする」などと、先輩たちは口々に引き止めたが振り返ろうともしない。まるで水泳の飛び込み競技者が飛込台先端の危険へすすんでゆくような歩みだった。
 くるぶしまでの水深は、川中までゆくとふくらはぎまでになった。

「……わっ、冷たい! みんなこっちに来て!」こう叫んで、わたしたちを振り返り、水を掬って大仰に振りまいた。
 彼女が振りまいた水を避けていた二、三人が靴をはいたまま川にむかう。Hも靴を投げ捨てて、川に踏み入れる。お互いに嬌声をあげながら水をかけあっている。一癖も二癖もある人間ばかりなのに、無邪気にはしゃいでいた。

 わたしは、岸辺でただ彼女を眺めた。その姿は暗闇のために詳らかにならなかったが、ときおり、対岸の灯光を受けた川面が彼女の面貌を幻影のように浮かびあげた。
 見上げると、対岸の山端に巨きな十六夜月がかかっていた。彼女は決して可憐な月見草なんかじゃない、と少し酔った頭で思った。
 
 麗子の大学時代の記憶は、これだけである。
 というのは、わたしの片想いなどで詩や小説どころではなく、部室には久しく顔を出さなかった。風変わりな四年生たちが無事卒業し、翌年、おおぜいの新入生が入部したことは、Hから伝え聞いていた。

 蒸し暑い六月の午後、ひさびさに部室に入ると、見知らぬ男たちがが不審顔で見上げた。Hも見知った先輩も見当たらぬ。訊ねると今年の新入部員たちだった。
 かって気ままなことを書き散らした備え付けのノートも見当たらない。小ぶりな真新しい本棚が壁を覆っている。彼らもこぎれいな身なりをしている。

 しばらく当たり障りのない雑談をしたあとで、細面の小柄な新入部員が話柄を転じて、こう言った。
「ぼくたちは文芸部をまともなものにします」
 彼の説明によれば、今までの部はまったくなっていない、創作活動はしていない、会計も無茶苦茶である、と前置きをした。
 本題は、作品集の月一回の定期発行と相互批評の活発化、会費の値上げと役員の改選だった。このうち役員はすでに改選し、彼らがその役員である、と。会費は驚くような値上げになっている。
 たしかに、昨年は会費の払いが遅れても督促などはなかった。作品集も刊行は一度だけだった。もっとも、ただ一人まともだった同級生文学部の女性に会計も、原稿集め、校正・編集から印刷、配布まで押しつけていたのだが……。
 彼らはわたしに、この改革に賛同するか、退部するかまで迫った。これで部室に先輩たちがいないことが理解できた。要するに新入生たちによる民主的簒奪である。

 わたしは即答せず、値上がりした会費一ヶ月分だけを支払った。そうして彼らが刊行した「新しい」作品集一冊をもらい受けた。
 よくできた生真面目な作品ばかりだった。とりわけ、『めまい』という長詩作者の感性は、特に優れていた。

 持病の『めまい』を抱えた作者が、前兆もなしに訪れる『めまい』の恐怖と、『めまい』が導く非日常への蠱惑、『めまい』が降臨しないことへの不条理な不満。『めまい』患者からのぞきみした日常と非日常や社会への疑問など……。 彼が紡ぎ出した情景は、今までに夢想すらしたこともなかった。彼の感性は、鋭利すぎる刃物の正しい使い方が分からず、不用心から他人や周りの物を傷つけ、自身をも傷つけてしまう類いのもののように思えた。わたしは彼の感受性と表現能力を羨望した。彼の生来の能力に、わたしはどうあがいても及ばない。そうして、もう小説を書くことはないだろう、と確信した。

 麗子もほかの先輩たちも、Hもこの部室にはもう立ち寄らないことは間違いない。
  1/n(つづく)