知識が増えていく世界では、新しいイノベーションを起こすことが難しくなる?
ポール・ローマーは「昔よりも今の経済学者のほうが新しいアイデアを生み出すことが難しいが」とどこかで前置きするように語っていた。
経済学者に限らず、弁護士にとって判例は増える一方だし、医師にとって病気や薬の名前が減ることはない。毎日のように新しい発見があり、新しい技術が生み出され、知識は増え続ける。
一方で、人間が知識を学ぶには時間がかかる。重積分や偏微分をするまえに微分や積分を勉強する必要があるし、微分や積分を勉強する前に方程式や分数の計算ができなくてはならない。
これほど勉強してもなかなか最先端までたどり着かないという事実が、それほどまでに知識が増えているという証拠なのだが、こうも考えられないだろうか?
「人間にとって昔よりたくさんの知識が必要とされていることが、新しい知識創造の負担になっているのではないか?」
今日は「知識の重荷」という概念を実証的に研究した論文を紹介する。
巨人の肩の上に乗る
この論文はノースウェスタン大学のベンジャミン・ジョーンズ教授がReview of Economic Studiesという経済学のトップジャーナルに2009年に発表したものである。
最先端に行くまでの労力が大きすぎるということは、経済学のコストの問題を生じさせる。
「研究テーマは博士課程で終わらせることのできる課題を選ぶべきだ」なんてことが普通に言われるくらいに、時間内に終わるものをやらなければ、一生博士号すら取れず、収入は絶たれ、人生をいたずらに費やしてしまう。
これらの事実はアカデミアでほぼすべての博士課程の学生の間で共有されていると思うが、彼は果たしてどのように「知識の重荷」があるという仮説を検証したのか?
彼が用いたのは特許データセットである。このデータセットには個人の詳細な特許履歴が含まれる。このデータを分析したところ、(i)学歴の代理指標となる発明開始年齢、(ii)専門性の指標、(iii)チームの規模のいずれもが、時間の経過とともにかなりの割合で増加していることがわかった。
また、個人の選択問題となるキャリアについてのモデル化を試みている。
各個人は生まれたときに、生産労働者になるか、知識を生み出すイノベーターになるかを選択する。イノベーターは学ぶべき特定の知識を選択しなければならない。この選択は、部分的には専門性の選択であり、イノベーターは幅広い教育のコストと利益を交換することになる。
より多くの知識を得ることは、革新的なアイデアを生み出す可能性を高めることにつながるが、同時により多くの知識を得るためのコストもかかる。キャリアの選択は、どの分野に参入するかという選択でもある。
この決断をする際、イノベーターは必要な知識が比較的少なく、かつより良い機会を持つ分野を好むが、同時に競争を避けようとする。他の条件が同じであれば、同じ分野でイノベーターが重複すればするほど得られる収入は少なくなるためである。
彼が発見した事実は以下の2つである。①人口増加はイノベーションの市場規模を拡大し、教育の限界利益を増大させる。②経済が発展するにつれて、技術的機会は増加することもあれば減少することもある。
この結論はイノベーションはますます容易になるという楽観的な議論(Romer 1990、Aghion & Howitt 1992)などに反する。成長における知識の影響は、ある程度まで増加するが、その後は成長に対する影響が鈍化する可能性があるということである。
分野越境型イノベーターは生まれるのか?
かつて知の巨人たちは、ジョン・フォン・ノイマンのように数学者であり、物理学者であり、情報科学者であったり、ハーバート・サイモンのように政治学者であり、経済学者であり、心理学者であったりした。
彼らは「迅速なイノベーター」(Fast Innovatiors)であり、新しい分野や技術への飛躍を行い、その分野で先駆的な役割を果たすような存在である。
彼らの分野越境は「フィールドジャンプ(Field Jump)」であり、 本研究ではイノベーターが連続した特許出願の間に技術分野を切り替える確率を指している。
ノイマンが経済学のゲーム理論に与えた影響は計り知れないし、サイモンが経営学に与えた影響もまた計り知れない。彼らは他の分野に大きな影響を与えた、迅速なイノベーターであり、フィールドジャンプによってイノベーションを生み出した学者であろう。
フィールドジャンプの確率というのは、イノベーターの専門性の代理指標となる。専門性が高ければ高いほど、分野を切り替える能力は低い。
特許データにおいてフィールドジャンプしているイノベーターは年々低下傾向にある。上のグラフは新しいアイデアや技術を素早く採用し、実装する確率が低下していることをを示している。
また、迅速なイノベーションを発明した年齢について分析したところ、近年になるにつれて発明したときの年齢が上昇していることが分かった。
これらの事実から、ジョーンズは20世紀の様々な研究努力にもかかわらず、経済において生産性の伸び率が加速しなかった理由を「知識の重荷」が要因であると結論づける。
また、特許の平均グループ人数、学術共同研究の増加傾向や博士号取得期間の長期化も、より多くの知識が必要とされ続けるがゆえ、そうした傾向が現れているのだと述べる。
知識の重荷というメカニズムによって、現代ではイノベーションの性質が変化しつつあり、これは長期的な経済成長にはマイナスの影響を与えると主張している。