海底狂詩曲
「海の底の古は、詩人によって語り継がれる」
漁師の老人は器用な手つきで網の破れを補修していく。幼い頃から何十年と毎日のように重ねてきた見に染みついた日常の所作なのだろう。心地よいリズムで針を通し、指で結び、余分な紐は歯で噛み切り吐き捨てていく。
「だが、語り継ぐべき詩人はもういない。儂らが生まれる遥か昔に絶滅しおった。だから海の底の古がどんなものでどうなっているのかを、知る者はもうどこにもおらんのだよ」
煙草の脂で黄ばんだ歯をにっこりと見せる。人懐こい笑顔だった。ただ目の前の現実を生きる老人にとって、中身のよくわからない言い伝えなど世間話の種のひとつにすぎないのだろう。
わたしは途方に暮れた。
伝説によればこの漁師町の沖合の海底にあの「竜宮城」が眠っていると聞いてやってきたのだ。
けれど徒労に終わってしまった。
伝説は伝説なのだろう。
確かにこの町には多くの言い伝えが残っていた。浦島太郎が住んでいたという集落。太郎が近所の子供たちに苛められている亀を助けた砂浜。竜宮城に向かう亀とその背に跨がる太郎の姿を思い起こさせる太郎岩。太郎が竜宮城より持ち帰ったとされる玉手箱を保管する古刹。そして、この町の生き字引きである漁師の老人。
全ては言い伝えどおりだった。だが所詮それは言い伝えにすぎなかった。嘘か真かなど町の住人は誰も期待しておらず、最初から興味もないようだった。
わたしは詩人と呼ばれる者たちの末裔だった。遥か昔、この海の底の古を伝えたとされる一族の出身だった。だが、我が家には伝えられた話も知識も経験も何もなかった。
証拠はなかった。だが確かに詩人たちの血を引くことは間違いがないらしい。だがそれでは先祖が有名な戦国大名だと言ってきかない人間たちと変わりがなかった。
これは証拠を探す旅だった。けれど何も見つからないまま徒に時だけが過ぎていく。この漁師町は最後の賭けだった。誰もが最初に思いつき、そして誰もが最初に候補から外すほど有名な観光地だったからだ。
そんな場所に誰も知らない真実など眠っているはずがないのだ。
「お前さんと話をしていると昔を思い出せて懐かしかったよ」
ありがとうな。そう言って老人は笑顔を絶やさぬままわたしを見送ってくれた。
老人のいる浜辺をの向こう側。西の水平線に茜色の太陽が今にも飛び込まんとしていた。
早く帰ろう。
駅へと向かう道すがら、玉手箱を伝える古刹の和尚と出くわした。
「何か見つかりましたかな」
決して厭味ではないのだろうが、和尚の言葉にわたしはうんざりと首を横に振った。浜辺で漁師の老人と出会って話を聞けただけ。何も収穫も期待できないので今から帰るところだと。
「はて、そんな老人はこの町には住んでおったかのう」
和尚が首を傾げる。
わたしはハッとして踵を返した。
先ほどまで老人と話していた浜辺。沈み行く夕闇に薄っすらと照らされた其処にもう老人の姿はなかった。
「懐かしかったよ」
老人が修繕していたはずの網も何もなかった。まるで煙のように跡形もなく消えてしまっていたのだ。
「ありがとうな」
老人の声が脳裡に蘇る。
ああ、彼は浦島太郎だったのだ。
そして、詩人の末裔であるわたしの為に姿を現してくれたのだろう。
「海の底の古は…………」
だからわたしは
「………詩人によって語り継がれる」
これからもこの話を語り継ごうと心に誓った。