タワマンパワマン緩慢散漫 side.E|ショートショート
――タワーマンションなんて、どこがいいんかさっぱり分からん。
と、29歳になった榮子は思う。23歳の頃は、きっともっと歳がいけば良さがわかるよ、なんて言われていたけれど未だに分からないままだ。
まるで遠い世界か幻のように、現実感も乏しく眼下で波打つ光の海。戻りたくても戻れない家のように、どこか郷愁を誘う光景。じっとそれを見つめていると、足元が揺れるような感覚を得る。次いで軽い眩暈。その不安定さすら懐かしくて、酔うように身を任せた。
「何見てんの」
掛けられた声に、緩慢な動作で振り向く。声の主である和希は、濡れた髪をタオルで拭きながら冷蔵庫に向かうところだった。その背中に答えを投げようとしてやめる。どうせ不要だと捨てられるだろうから。代わりに窓辺を離れ、丸テーブルの前のソファに移動した。
動作音で気づいたのだろう。和希は缶ビールをふたつ持って戻ってきて、ひとつを榮子の前に置いた。ありがと、と言ってプルタブを引く。プシュッと小さな音がふたつ分して、流れのまま缶を合わせる。ビールは僅かな苦みと共に労りを運んでくる。はああっと大きく息を吐いて身体を緩めた和希を横目に見て、榮子はくすりと笑んだ。
「なんだよ」
笑った声で和希が問う。だから榮子も笑って、別にーと返した。気の抜けた顔も、Tシャツの裾から覗くお腹も、もう見慣れたものなのにこんなに遠い。
「見て。俺また表彰された」
ぱっと目の前に突き付けられた画面に、榮子は視点を移す。そして、営業成績を称える賞の横に和希のフルネームを認めた。
「おお。すごいやん」
笑顔で小さな拍手を送る。いっそ傲慢に見えるほど得意げな顔で、和希は口角を上げた。
「すごいやろ。これで5年連続」
営業部のエース。パワーマン。スーパーマン。そんな揶揄するような単語を連想しつつ、榮子は素直に和希をすごいと思う。30歳手前でタワーマンションに住んでいるのは伊達じゃないな、とも。和希の繰り広げる仕事話に相槌を打ち、差し出がましくない程度に意見を言う。こんなことをもう1年近く続けているのだから、ペースはばっちりだ。
ここに来る途中のコンビニで買ってきたさきいかをつまみながら、空気がどんどん弛緩していくのを榮子は感じる。固まっていた空気がほぐれていくような、緩慢な変化。
ベッドに入った和希はあくびをした。あくびをしたくせに、ちゃっかりやることはやった。穏やかに寝息を立てる和希の顔を間近に見つめながら、ぼんやりと榮子は思う。
――どこがいいんかさっぱり分からん。
整った顔か、フィットする腕枕か、経済力か、仕事力か。思い当たるポイントはいくつかあれど、どれもぴんと来ない。ぴんと来ないから、ずっとこうなのだろう。
バレンタイン、ホワイトデー、誕生日、クリスマス。贈り合ったプレゼントたちが脳裏に浮かぶ。どれも未だにお気に入りである。思い出がなくとも気に入る品々である。
少し眠って、それから目を覚ました和希に見送られ、榮子はその部屋を出た。風が冷たい。少し振り返って、高く聳え立つマンションを見上げる。
――この光景も、今日が最後かな。
そう考えると、もう少し眼下の景色を眺めていなかったのが惜しく感じられた。ノスタルジックな光の絵。あの感覚を得ることは、もうないのかもしれない。
けれどそれはそれでまあいいか、と榮子は考えなおす。あの感覚が生々しいうちに最後を迎えることで、いつの間にか薄れていた、なんてことはなくなる。その方がいい。境界がはっきりしているくらいが。
イヤホンを耳に押し込み、ヒールを鳴らして榮子は街を行く。ひとつの始まりと終わりをその身に宿して。
【完】
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もうひとつの視点はこちら。