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中国の「寝そべり主義」と日本の「低欲望社会」

中国では「躺平主義」という言葉が物議を呼んでいます。
これは、日本でも「寝そべり主義」などと訳されて話題になっていますが、「無理して頑張らない主義」とでもいう意味で使われています。

今回は、こうした「躺平」をめぐる新しい動きについて考えてみたいと思います。

1. 躺平(タンピン)こそが正義

「躺(タン)」という中国語は、「横になる」という意味の言葉です。「平(ピン)」は「平らになる」ということですので、横たわって平らになる、つまり「寝そべっている状態」ということになります。

この言葉は、2021年4月、中国の引きこもりが集うネット掲示板で投稿された「躺平こそが正義だ」という内容が発端になりました。投稿主は、2年あまり仕事をしておらず、1ヶ月200元(3,500円)程度の生活費で暮らしているようです。そして、投稿主は投稿の中で、自分は何をして遊んでいても少しも悪いと感じない。プレッシャーというのは、周りの人との比較の結果として感じる自分のポジショニングや、上の世代の伝統的な感覚から引き起こされるものであって、人間はそうある必要はないのだ、と説いたのです。

ところが、この文章が、広州のメディア「南方日報」において「躺平は恥ずべき事だ」と批判されたことから、こうした若者の主張に注目が集まり、ネットやS N Sで様々な意見が出される事態になりました。

この背景には、現在の中国の若者が抱えている息苦しさがあると言われています。

現在の20代の親の世代は、1960〜70年代に誕生した世代になります。彼らは70年代末から進められた改革開放の流れの中で成長しており、経済的に遅れていた中国が、それぞれの努力により急速な発展を遂げたという時代と重なります。必死で学び、必死で働き、少しでも良い暮らしを、と奮闘してきました。その結果、収入を得て、家族を得て、家を得て、車を得て、子供に十分な教育を施してきた世代になるのです。

そして、その教育を受けた子供の世代にとっては、このような親世代の奮闘は、一つの成功のロールモデルとして刷り込まれてきました。「一生懸命に勉強して、働いて、成功すべし」という価値観です。

しかし、必死で勉強して良い大学に入り、必死で働いたとしても、高収入を手にいられるチャンスは数十年前ほど多くありません。会社内の競争は激化し、高いノルマが課せられ、残業が常態化していきます。

家を買いたくても、低収入のままでは、不動産が高騰していて手が出せません。収入や家などの生活基盤がなければ結婚相手を見つけるのも大変になります。恋人の親から高額な結納金や豪華な挙式を迫られて、別れを選ぶこともあります。無理して結婚しても、高額な教育費の前に、十分な教育を子供に施してやれるのかどうかも不安です。

親の期待には応えたい。でも、成功のためには、以前より高い壁が阻んでいます。それに対するプレッシャーと不安、その狭間で疲弊していく若者の姿が垣間見えるようです。

2.日本の低欲望社会

このような話を聞いたら、日本人には、多少の既視感があるのではないでしょうか?

日本はバブル崩壊後、「失われた30年」を経験しました。この間、G D Pや所得や物価に大きな成長がないまま時間が過ぎました。この「失われた」という表現の裏には、「本来は大きく成長するべきところを成長することなく過ごしてしまった」という気持ちが込められているでしょう。

しかし、現在、労働力人口(15歳〜65歳)において、過半数を超える55%を占める15歳〜44歳の層にとって、30年以上前の話は、もはや、口頭伝承で伝えられる昔話と化しています。ひと世代前の人たちが経験した「経済成長」とそれにまつわるバブルなエピソードは、身近で耳にしても、それを実際に体験することがないまま過ごしてきました。

経済成長する時には、「リスクを承知で成長分野に飛び込み、それにより大きな収益を手にした」という成功譚が多く見られます。全体のパイが大きくなっていくので、増えたパイをどう奪いに行ったかという勇ましい話が増えます。今の中国も、正にそのような時代の中にいます。

しかし、経済が成長を止めると、その後は限られたパイの奪い合いに移行します。その時、リスクを取って誰かの色がついたパイを果敢に奪いに行くよりも、まずは自分のパイを奪わられないように守りを固めることが重要になります。

こうなってくると、組織内では、無茶をして会社を危機に晒す社員よりも、組織の指示を忠実に実行し、堅実に収入を確保する生き方が生存率を高めます。バリバリ働いて社内でトップを目指すよりも、働き方改革で仕事とプライベートの時間を明確に分け、ライフワークバランスで自己実現をはかった方がいいのではないか、と考えるようになるのです。これは、バブル前に「エコノミックアニマル」とまで評されたひと世代前の日本人とは全く異なる生き方でしょう。

大前研一は2015年に発行した著書の中で、このように少子高齢化で人口減少が進み、経済の停滞と将来の不安の中で、欲のない若者が増えた日本の状態を「低欲望社会」と呼び、警鐘を鳴らしました。

とはいえ、私を含め、多くの日本人にとって、今再び「エコノミックアニマル」になり、朝から夜遅くまで働き続けるような生活に戻りたいか、と問われると躊躇してしまうでしょう。「失われた30年」は、国としての経済成長という「成功」は失われたのかもしれませんが、それが「不幸」な時代だったのかと言われると、必ずしもそうとは言えないと思うのです。

3. 日本の今が、中国の未来なのか?

中国で流れている「躺平」に関する記事の中には、こうした今の日本の「低欲望社会」を引き合いに、未来の中国の若者の姿と重なるのではないかと不安視するものもあります。

では、こうした状況を広州の若者自身はどう感じているのか?
広州市内の大学生など、数名の若者に意見を聞いてみました。

まず、こうした「躺平」は、一部の人の話であって、「若者=躺平」ではないという点は強調していました。その通りだと思います。都会の若者、田舎の若者、裕福な家庭、貧しい家庭、高学歴、低学歴、そして個人の性格。それぞれの状況に大きな開きがある中国の若者を一括りにできません。

更に、原因の一つとして、「娯楽」の発達に伴い、お金をかけなくても楽しく過ごせるゲームや動画などの娯楽が出てきていることも、「躺平」の後押しをしているのではないかという声もありました。

ただ、大学などの友人の中には、やはり将来に目標を持って、真面目に努力をしている人も多く、あまり「躺平」したいという意見は身近ではないと言います。恐らく、現状に不満がある方がS N Sなどで、書き込んでいるだけの話ではないか…ということでした。

このように、中国の「躺平」は、新しい言葉であるが故に、まだ「共感」というよりは、一歩引いてみているという感じに思えます。

ただ、私は、こうした一連の話は、急速成長から安定成長に移行している中国経済の中で「成功」という価値観が揺らいでいる証のように見えます。「成功」のハードルが上がった時、成功を諦めて寝そべってしまうのが「躺平」です。

しかし、「失われた30年」で実際に日本に起こったのは、「成功」の放棄ではなく、「成功」というゴールを多様化させることでした。がむしゃらにお金を稼ぐことに夢中になっていた時代から、自分だけのライフスタイルを楽しみたいという時代へと移行してきたのです。

この新しいライフスタイルは、時に消費で彩られた伝統的で画一的な価値観と衝突します。日本ではそれを「低欲望社会」と名付けられました。確かに、バブル時代の消費がベースなら、今の日本の若者は低欲望でしょう。

中国も、これからは、かつてのように経済の急拡大は見込めません。すると、中国の若者も、これからは自分の時間をしっかりと確保し、そこで自己実現をはかる方向へと進んでいくのではないかと思うのです。

また、そこに焦点をあてれば、日本と中国で生まれる交流やビジネスも、更に多様化していけるのではないかと思います。そこには、日本の30年で一日の長があるはずですから…。

《 ライチ局長の勝手にチャイナ!vol.14 》

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