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Lycaons ができるまで~序~

2月に始めたnoteもこの年度末の3月に入って既に滞りがちになってしまっておりますが…。


今回はピンチヒッター?ピンチライター?ということでまたまた代表スガワラが書いてみたいと思います。


現在Lycaonsは長野県伊那市を拠点にしているわけですが、秋田出身の私スガワラがなぜこんなチームを作って、なぜここで生きて行こうということになったのか、多分結構「???」だと思うんですよ。


そもそも私は選手としての実績がないどころか、陸上に関わり続けながらも選手としてやってきた期間が無い (!) ので、多分私のことをご存じ無い方も多い、というよりそういう方がほとんどなんじゃないかと思うので、改めて自己紹介も兼ねた投稿とさせて頂ければと思います。


後日紹介する某新加入選手にも「2万文字は書かくんですよね?(笑)」なんて言われたので、スガワラの真骨頂を発揮してクソ長い文章にしたったろうかと思ってます(笑)


ということで、これから何度かに分けて

シリーズ
「Lycaonsができるまで」

として、半分はまぁスガワラの半生を綴る感じにはなると思いますが、Lycaonsの生い立ちとこれからを語って行きたいと思います。


ちなみにヘッダー画像はエンブレムマスコットのデザインをしてくれた友人が描いたリカオン。


愛しすぎるリカオン!!





スガワラと陸上

小学生時代

1987年3月4日、秋田県仙北郡角館町(現:仙北市)に生まれ、1歳を迎える前に同県横手市に引越して、そこで11年を過ごしました。

現在実家があるのは秋田市ですが、生まれ故郷は角館、育ちの故郷は横手だと思っています。

かまくら祭りの母校の校庭のミニかまくら
出典:横手南小学校ブログ(http://yokoteminamisho.blog.fc2.com/)


その横手市で、父が学童野球の指導者をしていたこともあり小4から野球を始めました。

が、小5で「踵が痛いぞ」となり、たまに整骨院に通いながら続けていたものの、小6での秋田市への転校もきっかけとなって、以後小6~中1はスポーツはせず、ウルトラマンに夢中になって円谷プロ入社を夢見て過ごしていました(笑)

ちなみにその「踵の痛み」の正体を知ったのは大学で学び始めてからのことでしたが、「シーバー病」という成長傷害のひとつだったようです。

こういうルーツがあるので、成長傷害の分野に関しては特に強いメッセージを教え子たちには伝えていたりします。



中学時代①(陸上との出会いと戸惑い)

そんなこんなで踵が痛いので常につま先立ちで生活をする日々を中1まで送り(これが後々の災いに繋がるとは誰も教えてくれませんでした)、ウルトラマンのソフビを眺めたりウルトラセブンのVHSを借りて来ては見漁るだけのただのヲタでした(今でもそんな変わらないですが笑)


それがこともあろうに中学2年の時、別に足が速かったわけでもないのに仲の良かった友人Oくんに誘われるがままに陸上部へ入部し、短距離選手として右も左も分からずとりあえず走ったりしてみました。


が、入部から約1ヶ月後、何となく前足部が痛いなぁなんて思いながら練習を続けていたところ、八橋(やばせ)陸上競技場のコーナーを走っている時だったと思います。

激痛で走れなくなり、わけもわからず外旭川病院へ。

すると診断名もよく分からないまま「すぐに大学病院へ行って下さい」と紹介状を渡され、秋田大学附属病院へ。


結局そこで言い渡されたのが「第二ケーラー病(フライバーグ病)」なる、人生二度目のわけわからん病名。


第二中足骨頭の無腐壊死という、当時聞いた時にはゾッとするような病名を言い渡された上に、これからしばらく松葉杖で生活して下さいということで、期間が長くなるので貸し出しではなく購入し、My松葉杖をゲットしたのでした(笑)

結局そこから中学を卒業するまでの2年弱の松葉杖生活となり、体育はALL見学、修学旅行のディズニーランドも松葉杖で闊歩するような、松葉杖マスターに成長しました(笑)


で、肝心な陸上部の方はどうしたかと言うと、1ヶ月で退部はさすがに草だと思ったので、マネージャー転向宣言をしたところ、当時の顧問のH先生(柔道黒帯)が「俺長距離興味ないからお前見てくれ」とのことで、入部わずか1ヶ月でマネージャー兼コーチになるという笑い話的状況となりました(笑)


当時の私は今よりかなり真面目、というかバカ真面目だったので、とりあえず

『中・高校生の中長距離走トレーニング』ラリー・グリーン


なんてものを購入し、せっせと勉強してはメニューを組み、真面目に練習しない後輩たちを叱咤し、その中でそれなりに真面目にやってくれた女子メンバーについてはそこそこ結果にも繋げることができ、「コーチ」というものの難しさと喜びをその頃から味わったりしていました。


その後テキストは

『中長距離ランナーの科学的トレーニング』ピーター・コー


へとレベルアップしましたが、これは中学の私にはちょっと難しく、高校時代をかけて理解できるようになりました。



中学時代②(陸上の感動)

そんなこんなでウルトラマンからは少し距離を置きながら陸上を学ぶ毎日を過ごし、あれよあれよと中3の県総体が終わり、特に強豪でもなかった我々はそこで早々に引退をしました。


でも何だかんだ部活ばかり(たまに釣り)の生活をしてきたので、特に行きたい高校があるわけでもなく、何とな~く受験勉強に身が入らないまま夏休みを迎え、何とな~く塾に行って数学が出来な過ぎて泣き(ホントに泣きました笑)、みたいな夏、大きな転機が訪れました。


うちの父は新しい家電好きだったので、当時出始めたBSデジタルの導入も早く、TBS系列が映らない秋田県でBS-i(現BS-TBS)を見ることが出来たのが僥倖。

2001年エドモントン世界陸上に感動し過ぎて、勉強そっちのけで朝晩関係なく放映される全ての種目を舐めるように見て、全てに感動しっぱなしでした。

銀メダルを獲得した室伏さん
出典:MODE PRESS(https://www.afpbb.com/articles/modepress/2818148?pid=7597815)



そこで決めたのです。

「陸上の指導者になろう」

と。


それからは勉強も頑張りました。

スポーツを学べるのは筑波大学だと知り、筑波に入るには秋田高校に入らないとイカンということになり、あんまり覚えてませんが多分そこそこ勉強も頑張ったんだと思います。


そして何とかギリギリ(謙遜じゃなく本当にギリギリ)秋田高校に合格し、またその頃にはほぼ病気の進行も止まっていたので、高校では中距離がやりたいと思って期待に胸を膨らませてうぐいす坂(秋田高校の構内の名物坂)を上ったわけです。



高校時代(選手から、、、)

少し脱線しますが、Lycaonsを運営するABCR(スガワラの個人事業の屋号)では

「走るための身体の準備」

をキーワードにしてトレーナーとして活動をしています。


走るというのもスポーツなわけで、そのための身体の準備が出来ていなければもちろん怪我をするし、だから練習を継続出来ないのでパフォーマンスも高まらないのは当たり前ですよね。


それは中学から高校にかけて、自分自身が嫌というほど思い知らされてきた経験そのまんまなんです。


中学時代に体育すら出来なかった私が高校陸上部の練習強度について行けるわけもなく、ほとんど文字通り「走る毎に怪我をして」いました(笑)

でも誰も「休め」とか「補強してろ」以外言ってくれないし教えてくれないんです。


だから私はそこで、マネージャー兼トレーナーに転向しました。

ただただ走れない苦しい日々で、結構死にたいような気持ちも多々味わってた気がします。

それでも自分の存在価値を見出すための選択でもあったような気もします。


ストップウォッチを7~8個首からぶら下げて競技場を駆け回り、テーピングやマッサージをして、動画の撮影をして、毎日ノート見開き1~2ページくらいビッシリと練習日誌を書き、授業中は解剖の勉強をして(ダメなやつ笑)、補習に呼ばれても行かずに部活に行き(もっとダメなやつ笑)、とにかく仲間と陸上に関する議論ばかりして過ごした濃密な時間でした。


あの頃の自分の目の前に今の自分が現れたら、多分文字通り2時間体制でつきまとって教えを乞おうとしたんじゃないかと思います。


それだけ陸上を学ぶことに飢えてたし、考えて表現する(いや、選手に表現させる)ことが楽しくて仕方なかったです。


部活しかやってなかったので、学ランとジャージ以外私服というものを1着も持って無かったのも、今考えると微笑ましいですね。


そんでもって選手じゃなかったのでその頃の自分の写真というものは1枚もなくて、集合写真すら私が撮ったものだったので、高校時代に陸上部にいた証拠写真が1枚も無いという完全に影の人間でした(笑)


また部活以外、進路に関しても1年の時にちょっとした挫折を味わいました。

「筑波って、実技あるんじゃん…」


選手を辞めた私は実技なんてムリだろということで結構絶望しましたが、何とタイミングのよろしいことで、ちょうどその年から早稲田大学にスポーツ科学部が新設され、「ここなら数学使わなくても行けるじゃん!!!」と、つかの間の絶望を味わった後に逆に希望が持てました(笑)


高校時代はとにかく良き仲間に恵まれ、陸上の本当の楽しさを高校で知ることが出来たと感じています。



大学時代(そして暗黒へ)

ここまででもそれなりにネタ性は豊富だったと思いますが、ここからが本番だったりします(笑)


多分皆さんもう読み疲れてるかと思いますし、ここまでたどり着けただけでも褒めてやろうという感じですが(笑)、せっかくなので大学卒業くらいまでお付き合いください。


ということで2005年、早稲田大学スポーツ科学部に入学し、競走部にも学生トレーナーとして入部しました。


入部初日の光景は今でも忘れられません。


肩書は省略させて頂きますが、土江さんをはじめ、小島さん、大前さん、相川さん、故・野田さん、同期の楊井なんかがみんなでSDをやってる光景は、もう衝撃でしかありませんでした…。


そんな夢のような環境に入部したものの、、、1年後に私は、競走部をクビになりました。


理由に関してはオープンに出来る部分と出来ない部分があるので、知りたい方はインスタか何かにDM下さい(笑)


ちなみに数年前に書いた個人のnoteにもその辺りの表事情につては書いてあるので、ご興味がありましたらご一読ください。


夢に見た環境をクビになるって結構しんどいもので、その後私は強烈なうつになり、大学2年生以降は精神科に通ってクスリ漬け(笑)の日々を送りました。


ドッグスノーズ(ジンをビールで割ったカクテル)で抗うつ薬をオーバードーズして記憶を飛ばしてやっと眠れるようなかなりの暗黒期も、今となっては大切なMyストーリーの一部です(笑)



そんな感じで大学にも通えたり通えなかったりしていたので、教職も捨て、AT(アスレティックトレーナー)のコースも捨て、結局半年延ばして4年半で2009年の9月に何とか大学を卒業、地元でニート生活をスタートさせるのでした。


さすがに書いててもだいぶ飽きてきたので読者の方はもっと飽きてるだろうということで、「序」はここまで。


次の機会に「第一章」を書いてみたいと思います(笑)


ちなみにLycaonsはまだ始まったばかりなので、この4月から第二章に突入するので、次回で一旦このシリーズは完結します(笑)


2023.06 追記

次章、書きました!笑


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