見出し画像

「安心」と「安全」は両立しない

こんにちは、ヨウです。

今回は、「安心・安全」について、私見を書いていきたいと思います。


まず、この記事のトップの画像を見てみましょう。「安全第一」と書かれた看板です。これを見て、「ああ、安心だなあ」と思いましたか?

おそらく、あなたは「安全第一って書いてあることは、何か危険なものが近くにあるのでは?」と感じ、少し不安になってしまったのではないでしょうか?


そんな、「安心・安全」について、記事にしていきたいと思います。



よく耳にする「安心・安全」

あなたは、「安心・安全」という言葉を見たことがありますか?

私は、消費をする場面でよく見かけます。スーパーで食品を買うとき、ホームセンターで小型家電を買うとき、洗剤やその他生活消耗品を買うとき。多くの商品が「安心・安全」を謳っています。


しかし、それは本当に「安心・安全」なのでしょうか?

私は、「安心」と「安全」は両立しないと考えています。その理由について、以下で解説していきます。



「安心」「安全」の言葉の意味

あん‐しん【安心】 
[名・形動](スル)
1 気にかかることがなく心が落ち着いていること。また、そのさま。「列車で行くほうが安心だ」「安心して任せられる」
あん‐ぜん【安全】 の解説
[名・形動]《中世は「あんせん」とも》危険がなく安心なこと。傷病などの生命にかかわる心配、物の盗難・破損などの心配のないこと。また、そのさま。「家内の安全を祈る」「安全な隠れ家」「荷物の安全な輸送」⇔危険。

※goo国語辞典より引用


つまり、安心は「心が落ち着く状態」、安全は「状況的に危険がない状態」と言えます。安心は心の問題、安全は状態の問題と言えます。



「安心」を求めると「安全」ではなくなる ~無農薬野菜~

例えば、『安心・安全の無農薬キャベツ』が売っていたとしましょう。


無農薬であるということは、それだけ自然に近い状態で栽培されているということです。化学肥料は使っていないでしょうから、人間が自然に摂取する食物の状態です。「体に害のある可能性を持つ人工物は、入っていない」という「安心」が得られるわけです。

しかし、「安全」についてはどうでしょう。たしかに、農薬を使っていないということは、化学薬品は使われていないということです。しかし、裏を返せば、農薬を使っていないことによる害虫等の影響を受ける可能性は上がるということです。土の中に、どんな虫がいるか分かりません。キャベツは、モンシロチョウが卵を産み付ける植物として有名です。どんな虫が飛んできて、葉を食ってキャベツに影響を与えるか分かりません。農薬を使っていないことによって、人体に影響のある自然物が付着する可能性は高くなります。

また、自然に近いということは、自然に近い土壌、気候、環境で育っているわけですから、ものによって個体差が生じることもあります。果たして、そういう環境で育ったキャベツが、必ずしも「安全」と言えるでしょうか? 気持ちとしては「安心」と言えても、「安全」だとは言い切れないでしょう。


これは、安心を求めることによって、安全が確保されない典型例と言えるでしょう。



「安全」にすると「安心」ではなくなる ~一時保護所~

野菜の記事を書きたかったわけではないので、本題に入ります。笑


私が児童相談所で働いていた時、一時保護所の機能の大前提は「安全確保する場所である」ということを学びました。

かなり簡単に言えば、一時保護は「親子がこのままの状態で生活してしまうと、子どもが危険に晒される」という状態を改善するための一つの手段です。ですから、基本的には「安全確保」が中心になってきます。


虐待した親が怒り狂って子どもを取り返しに来てしまう状態では「安全」とは言えないでしょう。子どもの安全を確保するとなれば、外部からのアクセス(住所や電話番号、ネットによるコミュニケーション等)は遮断しなければなりません。外を出歩いたり、誰かと連絡を取ることで居場所が特定され、それが他の誰かに伝わることで、子どもが危険に晒される可能性は上がります。それを、限りなくゼロにしなければならないのです。

しかし、そういった閉塞的な環境の中では、「安心」は得られません。外部からのアクセスができないということは、子どもの側からも外部の情報を入手する術がないのです。外でどのようなことが行われ、親と児相がどのような話し合いをしているか、子どもの目で確認することはできません。その状況で「安心」は得られないでしょう。いくら児相側が配慮をしても、見えないところで自分の今後が決まっていくことは、不安しかありません。



「安心・安全」は、両方必要だが、両立しない

逆に、子どもの安心感を中心にしてしまうと、今度は安全が脅かされます。

一時保護された子どもが自由に外を出歩くことができ、友達や親と自由に連絡を取ることができたとします。そうなると、子どもの居場所が特定されやすくなり、安心できる場所を求めて保護所を脱走することだって考えられます。子ども自身が考えて行動できる反面、自分で正しい判断をするほどの材料を持たずに、自分の感覚で行動してしまうことを助長しかねないため、「安全」とは言えません。


このように、「安心・安全」は両立しません。一般的に並列で扱われている「安心・安全」は、実は相反するものだったのです。どちらも、子どもにとって必要なものでありながら、実は同じステージで扱うことができないものなのです。「安心・安全」の両立を目指すと、どちらも中途半端になってしまうのです。



終わりに 〜役割分担が大切~

私は、このnoteで「児童福祉」や「教育」について記事を投稿することが多いのですが、その中で「子どもの安心・安全」が語られることが多くあります。その中で、私は「そもそも両立しないものを、どうにか両立しようとするから話がややこしくなるのではないか?」と感じてしまいます。


児童福祉に関して言えば、行政の動きは、基本的に安全確保が優先です。子どもを命の危険から守ることが、その役目になります。警察や消防だって、基本的には「緊急時の安全確保」が優先されるはずです。

しかし、児童養護施設や養育里親には、その両面が求められます。安心できて且つ、安全な居場所にしていくことが理想ではありますが、それは無理難題なのです。そうなると、子どもを一時的に預かっている福祉施設は、「安全」に比重が傾くことは致し方ないことでしょう。


そうなると、おのずと「子どものニーズ」がどこにあるかが見えてくるかもしれません。行政の多くが「安全」を提供するような動きをしているのですから、その逆側のことをしてあげることが必要なのかもしれませんね。



↓併せて読みたい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?