「掃除は始業前に済ませる」という同調圧力を正して変わったこと
ヘッダーのような当番表、誰しも一度は見たことがあるのではないでしょうか。これは以前、側島製罐で使っていた事務所の掃除の当番表です。くるくる回して当番変えるやつですね。
側島製罐では以前まで、「掃除は始業前に終わらせるもの」という暗黙の了解がありました。少なくとも始業の10分前くらいには机を拭いたりごみを捨てたりし始めて、朝礼が始まるまでには掃除を終わらせていないといけない、という仕組みですね。昔からやっているということで何となくそのまま続けていましたが、「これはサビ残の無償労働なのでは…?」と今更ながら改めて気付き、掃除はすべて業務時間内にやる仕組みに変えてみました。結果、色んな歪みが正されて良くなった、という感想を今回は書いていこうと思います。
始業前の掃除はそもそも労働なのか
掃除の時間は労働時間に当たるかどうかは散々議論が尽くされているので割愛しますが、結論的には「指示命令に基づくものかどうか」という点に帰結するものだと思っています。つまり企業側の言い分としては「指示命令をしていなくて社員が自発的にやっていることなのであれば労働時間にはあたらない」という整理ですね。
この点については法律的に明確にされているわけでもなく各企業の思想や労使の関係に委ねられているものであるので一般的な議論はするつもりはありませんが、側島製罐では新しく入社した若いメンバーを中心に「これって労働時間にやることじゃないんですか?」という問題提起がありました。「指示命令があったかどうか」という論点に関する問題提起は以前にも「出張の移動時間は労働時間に含まれるのかどうか」という点で仕組みを見直したこともあり、側島製罐では今回もその違和感と向き合ってみました。
「始業前の掃除」で生まれていた歪み
「始業前に掃除を終わらせる」という暗黙の了解は色んな歪みを生んでいたと分析しています。「これは無償労働なのか?」とモヤモヤ考えながら掃除しなければいけなかったり、家事や子育てなどの関係で定時ギリギリにしか出勤できない人は掃除の時間を確保していないことに罪悪感を感じることもあったでしょうし、”自発的なボランティアで完遂すべきもの”という負の同調圧力は労働意欲や良心を毀損していた面が少なからずありました。
この構造の重大な欠陥は、「企業活動のシワ寄せを社員の良心に押し付けている」という点にあると僕は思っています。経営視点の心理としては「今までみんなが自発的にやってくれていた(ということにしている)ことを労働時間にしてしまったら労働生産性が下がるんじゃないか」という懸念があるわけです。そしてもっと深掘りしてみると、経営的な心理の奥底にはパンドラの箱を開くような恐怖が盤踞していて、こうして企業活動の利益に資する社員からの奉仕サービスを正すことで全体の収益構造や社員の権利意識等のバランスが大きく乱れてマネジメントに支障をきたすのではないか、ということだと思います。しかし、それは個人的には経営都合の欺瞞であると考えています。そもそも無償労働に頼らないと労働生産性が水準に達しないという問題を棚上げにしたまま同調圧力による”無償奉仕”という形で補完するのは搾取的であり行間からも指示命令色が滲み出ているもので、ティール組織を目指す側島製罐のカラーとは相反するものであるという認識に至りました。
”仕事”の定義を拡張させる仕組みが人間性を解放する
そんな歪みを正すべく、側島製罐では事務所の掃除は週3回朝礼後の”業務時間内”にやることになりました。結果、”掃除は仕事”という認識のもと、どうしたら掃除が楽で簡単になるかとか楽しくみんなで分担できるかとか、そういう視点に立って、新しい道具を調達したり、くじ引きで掃除担当を決めたり、掃除の様子を社内でシェアしたりすることが増えて、掃除の質も量も大幅に良くなったと思っています。明確に分別をつけることは難しい領域ではありますが、少なくとも働く人が「これは仕事!」と胸を張って言えることに対しては報酬を惜しみなく支払うことができる仕組みを作ることで”仕事”の定義を拡張していくことができますし、その人間性に立脚した裁量の大きさが各自の良心にドライブをかけて、日々の仕事の潤いや人生の豊かさに繋がっていくのではないかと確信しています。
やっぱり、労働時間に含まれない自発的な無償奉仕では限界があって「どうせサビ残だし」という心理状況では良い掃除にはなりませんし、極論的ではありますがそもそも掃除を軽視するような企業からいいモノは生まれないだろうという正論も忘れてはいけません。業務時間はその分減るし残業時間の労力やコストは増えるのかもしれませんが、それはその時向き合って解決すればいいことで、まずは真っ直ぐ正しくやってみて歪みと向き合っていくことが大事じゃないでしょうか。そういう経営の不完全さの容疑を認めて白日の下で歪みを正していくことは大きな痛みを伴いますが、そのスタート地点に立たない限りは根本的な問題解決や組織の信頼関係は生まれないんじゃないかと、個人的には思っています。