見出し画像

社会復帰に向けて考えたこと 第一段階

こんばんは
あいわらずバタバタです。

今日は社会復帰までの過程を書こうとおもったんですが、社会復帰はしてますが
実際に復帰していくまでに大きく3つの段階がありました。軽症なのと身体も麻痺の中では
軽いかも知れません。

劇的なこともなく感動もないわけじゃないけど
自分の中だけの話になるかもです。

私にはとても辛くとても長い道のりでした
人生の中で脳出血で片麻痺になったのはかなり大きな挫折でした。

とにかく倒れた時はあまりにも状況判断できていなかったと思います。脳の病気でもあるし
とにかく具合悪くてそれどころじゃないのと
誰も何もいつ退院できるとか
歩けるようになるだとか教えてくれなかったのです(そもそも質問してませんが w

集中治療室から一般病棟にうつって
点滴していたけど経口食もでて
おむつもしてたけどカテーテルは抜けて
まあ諸々センサーはついてましたが
リクライニングベットで寝ててもずり落ちて
自分一人では治せないのに

実はこの段階で勝手な社会復帰を考えてました
とりあえずリクライニングベットがあればPC操作はできるだろう

時給なんぼの仕事は職場首になってもできるはず。などと考えていたのです。甘いよと思う方たくさんいるでしよう、今なら私もそう思いますがこの時点で生意気に働くことだけは考えていました

とにかくリクライニングベットでも失敗してズルッと落ちてくるので定期的に看護師さんに助けてもらっていて、おしっこはカテーテル
すぐに外れておむつになりましたが
車椅子にも載せてもらって

なんとか乗ってられる(怪我無しで一度落下したけど)
そもそも自分一人で車椅子に乗れもしてなかったのに社会復帰を考えてました。

第一段階の社会復帰で想像したのは
障害者のまま社会復帰する自分の姿を想像しました。

これは仕方ないとも言えます
実際にこの時点では一人では何もできていなかった、いなかったけど
介助あればなんとかなると、
ものすごい上から目線で物事考えていて

ただこの頃はたまに熱出て気持ち悪くなったりして
食事もこれすら半分食べるのがやっとで

点滴外れるためには食事もと聞いてから
必死でたべました。
点滴は私の中で社会復帰できないものだったのですーモニターセンサーはこれならつけっぱなしでも社会復帰は可能だらうと謎の根拠ない何かありました



ものすごい前向きと言うかわかってないのがすごいおかしくてー仕事の事しか考えていなかったのですね

夫が赤子を褒めるように褒めてくれました。
ご飯半分食べた
エライ
何した
ナイス
ずっと褒めてくれましたが

それくらい何もできてなかったのにそれもわかっていなくて
社会復帰する気満タンで順番が違うなぁといまたら思うのですが頭も働いてないし

普段ならたくさん情報探しまくるのですが
まず失敗したのがネット

目についたのは再発率10年52 %
平均余命10年
この瞬間携帯で調べるのをやめました

この平均余命にはマジックがあるんですが
わかってたんですがそれでも見たくなかったのと祖母がどちらも脳出血で亡くなっていて
血のつながりのない祖母が
絵に書いたような再発で出血して2回目に亡くなっていた記憶が出てきたんですね

その瞬間調べるのをやめました。

そして夫は人体の身体のことを調べたりするのが大好きなのに何も言わない
それもわかってなくてとにかく寂しくて辛くて不透明で

唯一の希望が動くことよりも仕事

自分の思考回路が馬鹿好きで今振り返るとおバカでこれが他人なら可愛く思うし
身内なら悲しく思うでしょう

そして2週間目には体調が落ち着いてきます。
片麻痺は変わらずと本格的に
痺れとのたたかいになりました。
この時点では3ヶ月もしないうちに
痺れは消えるだろうと思ってました

一番障害受動はしてた不思議さ
そしてリハビリがだんだんわかった来て
たった瞬間に
私は歩くとまたまたスーバーポジティブに

脳の検査もあり
脳出血自体は2週間で治りました。

そしてこの時期は
障害者のまま社会復帰を考えた
第一段階

妄想マンの世界です。


いいなと思ったら応援しよう!