三島芳治『児玉まりあ文学集成』
2019年に1巻が出た漫画で『児玉まりあ文学集成』と言うものがある。現段階で既刊は3巻。
ここ数年、それまでの人生と比べると幾らか漫画を読むようになったので、他にも気に入った漫画は幾らかあるんだけど、この本はとびきりお気に入りだ。
この漫画は言葉というものに対してとても誠実に取り組んでいる。1巻収録の全7話は勝手にまとめると以下のようなテーマになっている
1話目は「喩え」
2話目は「しりとりと語彙量」
3話目は「褒め言葉」
4話目は「記号」
5話目は「文章の機能」
6話目は「聖書とフォーマット」
7話目は「会話」
どれもこれも言葉について考えるには、うってつけのテーマだ。読みながらこんなにワクワクする漫画も珍しい。登場人物に混じりたくなるようなフィクションに久しぶりに出会った。
常々「言葉が全てを定義する」と思っているのだけど、その自分の考え方を説明してくれている様ですらあった。言葉というものが如何に大事で、面倒で、尊いのか。
言葉には引力があると思っている。
それでもって、言葉は器だと思っている。
そして、言葉には意味がある。
考えだとか感情だとかそういった頭の中の諸々には形がない。本当はそのまま共有出来たらいいのに、人の頭は覗けない。だから、言葉という器に入れて交換する。
だけど、言葉というものは莫大な数があって、似たような言葉も沢山ある。その中からどれを選び取るかは言葉を使う人次第。それでもって、感情や考えといった不定形の概念は言葉に仕舞われた途端に、まるでさも最初からそのように存在していたかのように振る舞い始める。もし本当は少し違うことを考えていたとしても。
そうして人は、器となった言葉の意味に引っ張られて考え始める。
これが私の言うところの「言葉の引力」。
だから語彙はあるに越したことはないと思っている。色々な器の中から適切なものを選べるに越した事はない。贈り物には良い包装を、といった具合に。
仮にジャストな言葉を選べないにしても、良い引力が働く言葉を選びたい。良い引力というのは例えば、自分が思いもしていなかったことに気づけたりとか、考えが一つ次の段階へ進められたりとかそういうことだ。
そもそも「ジャストな言葉」と表現したものの、不定形のものにジャストな形なんてないので、事実上言葉を選ぶときはいつでも最も良い引力を探しているといっても間違いじゃない気がする。
こんな風に「言葉を扱う」ということを言葉で定義したがるような人間にとって「児玉まりあ文学集成」はとても好みです。
1話で文学部入学希望者である笛田君が文学部の児玉さんに出された課題「私(=児玉さん)を喩えてみて」と同様に、「あの人は風が吹いているみたいに歩くな」と好きな人に思うことが日常の中であった。そんな言葉遊びをしていたからこそハマったのかもしれない。