星野源『Continues』雲田はるこ『昭和元禄落語心中』
生きることとはどんなことなのか、自分の中に漠然と定義がある。
何かを受け取り、それを誰かに渡すこと。
自分で編み出した言葉ではない自覚がある。影響として明確に覚えているのは2つ。
1つはドレスコーズのフロントマン志磨遼平。
テレビで1問1頭形式のショートインタビューをされていて、その中に「生きることとは?」「死ぬこととは?」という質問があった。その時に、誰かから受け取った何かを誰かに伝え残していくこと、というようなことを答えていた。(もしかすると毛皮のマリーズ時代のインタビューかも)
もう1つはクロマニヨンズのフロントマン甲本ヒロト。
雑誌か何かのインタビューで、自分達は自ら光っているんじゃなくてロックンロールの光を反射させているだけだと、そしてその光はまた誰かが反射させて続いていくんだと言っていた。(これに関しては記憶もかなり曖昧で出典を確認できなかった。自分が光っているんじゃなくて、反射していると言うのは大筋あっているはず)
どちらも、我が意を得たりだった。
「その考え方良いな」ではなくて、「その通り!」という感じ。
新しい考えではなくて、自分の考えに適切な表現が与えられたという感じ。
文章を作るにあたり、小学校では「真似してはいけない」と言われ、中高では「剽窃はいけません」と言われ、大学では「引用する場合は文字数を守り出典を明らかに」と言われた。
なかなかこれが自分には感覚的な理解が難しかった(理屈では理解できる)。
文章なんて©️がついているわけでもなく、基本的にはパブリックドメインみたいなものだと思う。文章を作るとき、人はそれまで摂取してきた文字の羅列や会話なんかを基にしている。それは全体の構成かもしれないし。てにをはかも知れないし、リズムかも知れない。そんなこれまでの人生で取り込んできた文章の中から、良いとこどりをして文章を作るのだと思っている。
だから、自分にとって自分の作り出す文章というのは歪なキメラのようなもので、先人たちの寄せ集めだと認識している。サンプリングだらけ、オマージュだらけ、平たく言えば真似だらけだ。
真似の仕方が細かいから罪には問われないが、自分の文章は「全部出典のない引用、剽窃の集まり」だと言えると思っているので、これまで学校で文章を書く時には引っかかりがずっとあった。
話が少しズレた。
人から何かを受け取って、それをまた誰かに渡すという事が、生きるということなのではないか。
そう思ったのは文章を書く事について考え詰めるようになってからだ。
文章の場合わかりやすいけど(いや、わかりにくかったかもしれないけど)、世の中の表現って存在ってみんなそうだ。
音楽を聴いて、絵を見て、人と会って、生き物を見て、自然に触れて、そうやって受け取った何かの集積が立ち居振る舞いや表現となる。
そしてそれはまた何かに影響を与える。
ある程度、この考え方がまとまってから見聞きした作品で、我が意を得たりまくった作品が2作ある。
星野源「Continues」と雲田はるこ「昭和元禄落語心中」だ。
前者は言わずと知れた星野源の言わずと知れた「恋」のカップリングである。「恋」があれだけ売れたのだから、それなりに「Continues」も聴かれているはずなのに世の中全然盛り上がっていないな、と思っていた記憶がある。(ちなみに「恋」リリース後のツアー名は「恋」の方ではなく「Continues」だった。だよね。)正直、「Continues」に関してはいう事がほとんどない。これまで書いてきたような考え方をする人間がこれを聴いたら衝撃で動けなくなったということは書いておく。死生観を問われたら「星野源の「Continues」みたいな感じですね」と言って概ね間違いない。
「昭和元禄落語心中」も言う事がほとんどないんだけど、落語という口伝の芸術が人の想いを表現するのにこんなに合うのかとびっくりした。師匠から教わった噺を自ら磨き続け、そしていつの日か弟子に教える。修行の世界なので外野が勝手なことを言えないけれど、恐ろしく美しいと思った。
最近、大切な人が「人は死ぬ時まで死ねないんだよ」と言っていた時に思い出した話。
ちなみに、自分を鼓舞する時に聴く音楽はRHYMESTERの「K.U.F.U」です。
「Continues」と「昭和元禄落語心中」とほとんど同じ理由で。
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