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人生はゲーム ~私の「バトルロワイヤル」論~


人生はゲームです
必死になって戦って価値のある大人になりましょう

深作欣二(監督)(脚本)『バトルロワイヤル』[映画]東映.
キタノのセリフより

 人生はゲーム。そういうと痺れる。確かにこの作品は人生そのものであった。
 中学生といえば、幼稚でふざけあって分別も知らず、無邪気で愚かだ。
 私も中学ではその一人の学生だった。
 世の中に反抗してみたり大人ぶってみたりと痛さ全快だった人生のなかで、自由を謳歌しているつもりだった。
 私の中学時代の回想についてはここまでにしておく。ともかく中学生時代の私はそんな何も知らない学生だったのだ。


 私は最初、バトルロワイヤルを見て思った。この「厳正なる抽選の結果選ばれた中学生たち」は人生の先取りのゲームをしているのだと。かなり理不尽なゲームではあるが人生ゲームという点では勝てればあとは国家補償によって一生涯ゆったり暮らせてしまう。
 友達というのが大学生までの社会のモラトリアムの中でしかありえない幻想であったように、社会に出れば資本主義競争の同じ敵同士になってしまうということがバトルロワイヤルでは繰り広げられる。
 だが資本主義では人は死なないし殺し合いゲームに無理やり参加させられることはない。なのでここからは資本主義のシステムを称賛していく文章になってしまうかもしれないがバトルロワイヤルと現実の資本主義競争を比較する。

 資本主義は「バトルロワイヤル」だ。肉体的な闘争ではなく知を使った闘争を繰り広げているが、資本主義において敗者はバトルロワイヤルのように命を奪われない。ここが資本主義の最大の発明なのである。プレイヤーは何度もプレイをやり直すことができる。背負っても借金くらいだ。
 バトルロワイヤルはやり直しが効かない。さながらカイジと一緒で、一回きりのゲームである。自分に得意なゲームも選択することはできない。
 「バトルロワイヤル」は原始的な競争である。殺人をし合う様はさながら自然界の動物である。
 では現代に私たちがしている競争は多種多様であるが、なぜ殺し合い奪い合いという原始的な競争が繰り返していないのかというと、それは、人間が幻想を作り出す動物であるからだ。国家という体制も金も法律も人間が作り上げた幻想であるし様々なビジネスもその人間が作りだした様々な幻想によって生まれたものである。
 なので様々な「夢」にできそうなことが存在する。欲望が人それぞれに多様に開かれているのである。多様に開かれているので様々な自分に向いたゲーム(業界)を選択できる。資本主義とはどこでプレイングするかというゲーム場所を選べるというその一点で自由なのである。
 「死なない」「やり直せる」競争こそが資本主義最大の発明である。
 

 バトルロワイヤルのような強制的にさせられるゼロサム競争では人類は発展しない。

 それぞれが様々な欲望を持ち実現していくからこそ国家は発展するのである。殺し合いではなにも産みやしないのである。儲かるのは武器商人くらいだろう。なので、このバトルロワイヤルとは戦争に対する批判も含んでいるのである。殺し合いではなにも生まないという意味で。

 人類は永遠に拡大変容する資本主義ソフトウェアをうまく使って今後も発展していくだろう。

 資本主義ソフトウェアはバージョンを変更するので、今までの強者が必ずしも生き残るわけでもなくなる。恐竜化して自滅していくものもいれば変化を受け入れて変わっていくものもあるが。

 人間の闘争形式の変化、言い換えると戦争による競争から経済競争への変化こそが人類の最大の発明だったのである。

 だから、最後、バトルロワイヤルの主人公とヒロインが資本主義の巣窟である自由で開かれたアメリカを求めて亡命するのである。

 資本主義は実は自由だったのである。

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