よくある夜
やりたいことをやってみせるために。
どうせ失くす命なら
そのためにくらいは使ってやらなければ。
そう思ってから、僕は程なく生きることを当然として居られている。
無気力で何も欲しくなくて全てを手離して消えてしまいたかった日々は、去った、ことになっている。一応。
しかし、別に大きくなにか変わったりはしていない。
状況は以前厳しいし、やりたいことなんてのも、行き先の目処のたて方が半端なまま、何一つ大きくは踏み出せないままだし、決まったことなんて何一つない、大学をなんとか卒業しなければいけないことを言い訳に、未来の話を止めたままにしている。
音楽についてまでも、非常に全てが中途半端。生きたいと言ってみたはいいものの、なんとも言えない気ままさだ。
今、間違いなくこのモラトリアムに甘えきった時間。お金を稼がなければならないことを盾にバイト、ストレート卒業の目標を盾に単位や論文でいっぱいいっぱい。
恐らく、全てが段落を迎えた頃には選択肢はもはや潰えてなくなっているだろう。
そんな中で。胸を張れるなにかをしても始めてもいない事実だけが首を絞める。
今この時に再び思い直す「死にたい」とは一体なんなのか。
死んだら楽になれるとでも思っているのだろうか、死ぬことが怖かったから辞めたくせに?
生きることは到底人間業ではない。本当にいかれていると今でも感じる。こんなもん誰でもできるわけないだろ、ふざけるなと思う。
でも死んでまでやめる勇気もなかった。そこに尽きてしまうのだ。
本当にそこに救いがあると思えもしない癖に、死にたがるなんて。
せめてやりたいと思っていること何もかもすべて手を出して、希望もこの先への魅力も感じられなくなってから辞めたいなど吐いておけ。
しかしながらそういったことを、結局理性で刷り込もうとする程度な感じがある。だがさすがにこれだけ面倒な生涯、そうでもしなければきっと保てはしないだろう、だから何とかしてこういった生を保つ強い意志を、死の志願も満足にできない自分の弱さを、理解させ、呑み込ませ、こんなデタラメで脆弱な「死にたい」意志は溶かしてしまわねばならない。
今再び感じ始めたそんなもの、相手にしている場合ではないのだ。そんなもの、なんだ。
戦国BASARAにおける豪腕おじいちゃんキャラの島津義弘が、
「今日死ぬか、明日死ぬか、それだけの違いだ」
そんな敗北台詞を言っていた。キャラ自体はそこそこ好きな程度だけどやけに覚えている。
それは特に関係ないが、でもそんな風にこそ生きなければ、使ってみせなければ、せめて。
こんな命と思うならば、なおのこと。
決めたんだから、と思うばかりで、強くあれない、本当に情けない。情けなく思うくらいならなんかやってみせろよ、本当に。
こんな風な夜に何度でも思う「消えたい」「死にたい」は、不要だ。
今夜も、早く寝てしまわなきゃな。
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