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Lutraが始まるまで〜自分のことその5 (アメリカ留学編)

みなさんこんにちは!Lutraのまなみです。今日はなんでLutraしてるの?についての話ということで、引き続きまなみの生い立ちについてお話ししていきます☺️今日は大学休学→アメリカ留学編です!
先日お話ししていたニューヨークのお話がここに。。よろしければお付き合いいただければと!

前回はこちらから!

卓球も勉強もどっちも自分らしく頑張れるかな、と期待して大学に入ったものの、勉強も楽しめず、体育会でも自分の限界を感じて楽しめない、なんか生きている意味もよくわからない。。。という状態になり、自信も生きる意味もなくした私は藁にもすがる気持ちでアメリカ行きを決めました。
英語も全然喋れないので、留学斡旋会社を自分で探して、お金も自分で借りて足りないところはアルバイトして工面して捻出しました。
全ては、自分の次の「生きる意味」「生きる資格」を見つけるためだった気がします。自分が頑張れる場所を探すのに必死でした。

そして3年生が終わる頃、身体一つで少しばかりのお金を持って、アメリカのリバーサイドというところに向かいました。
初めて関西を出た日、初めて日本を出た日、LAの空港(LAX!)に降り立った時の震えと感動を今でも覚えています。
何もかもが日本より大きくて、ちゃんと生きて日本に帰れるだろうか、そもそも英語喋れないのにどうやって生きるのか、頼れる人はほとんどいないけど、ちゃんと生きていけるのだろうか。。。新天地のワクワクより生きることへの不安が死ぬほど募ったのを覚えています笑
(ちなみにこの癖は今でも変わらなくて、いまだに海外に行く時や新しいことを始める時は同じ不安な気持ちになります笑)

最初の3ヶ月は本当に地獄で、ただ自分は英語を勉強してコミュニケーションができないと何にもできない😇という状況に追い込まれて、ひたすら朝から晩まで勉強していました。家は3万円の3人が一部屋に押し込まれたような部屋で、中国人に発音の勉強がうるさいと言われるまで勉強してました笑

当時は(結構もしかしたら最近まで)とにかく自分の生きる意味とか、絶対的な生きる自信が欲しかった。今まで全身全霊で卓球と勉強を両立させようと我慢していた自分に、何か報いたいと無意識に思っていたように思います。

本当に全力で勉強して、4ヶ月後から何とか当時のプログラムで当時通っていた大学のプログラムに参加できることができて、アメリカの大学生と一緒に過ごすことができた。そしてそれをさらに超えて、私は理系の学問が好きだった(得意かは別)だから大学院も見てみたいと思って、拙い英語で大学院の授業と研究室も見せてもらって端っこで聴講させてもらった。

本当に必死だったんだなーと思う。

結論、私がめちゃめちゃ英語ができてたとしても、大学院の学生の頭のレベルが本当に根本から全然違っていて、このまま中途半端に研究者になっても、卓球と同じ未来が待っていると体感した。どこかで自分の才能のなさに挫折すると確信した。

だからまたアメリカで自分にがっかりしたし、どうしたらいいのか本当にわからなくなった。

そんな時、私の高校時代の友人がNYにいることを知り、彼女を尋ねることにした。アメリカですごい孤独を感じていたこともあったので、当時私が心を許せる友人に会いたかったのもある。正直NYのことは全然知らなかったし、友達がいる場所、くらいの気持ちだった。

アメリカでの長期休みを活かして、一番やすい航空券を買ってNYに行った。
NYで私の友達は周りに素敵な友人がたくさんいて、みんなダンサーやファッション、写真家やミュージシャンなど、それぞれの興味を突き抜けて生きていきたいという気持ちが溢れていて、生き生き生きていたことにすごく衝撃を受けた。

私は何をしているんだろうーー。何ができるんだろうーー。
NYで楽しそうに生きている私の友人とその周りの素敵な友人たちをみて、またぐるぐる頭の中がぐらついた。


思い出のブルックリン橋

その時、たまたま私の友人の彼氏の友人でNYにきていた韓国人のお医者さんがいて、その方と4人でブルックリン橋に行った時に自然と、自分の今思っている不安や将来について話してみた。
「自分は日本からきて、自分に何の才能があるのか、何が自分の頑張れるエネルギーになるのかわからないんです。科学は好きだし研究者も考えたけど、多分また壁にぶち当たって上手くいかない可能性がある。どうしたらいいかわからないんです。」
彼がそのままその言葉を言ったかわからないけど、私にはこう言ってくれたように聞こえた言葉があった。
「確かに、まなみが研究者になるのは難しいかもしれない。でも、そんな研究者とかが出したアイデアを世の中に出すビジネス側のプロフェッショナルなら、まなみはコミュ力もあるし行動力もあるから、きっと世の中に求められるはずだよ」

これかな、と思った。というより、これしかない、と思った。

この言葉を持って日本へ帰って行った。

(次回へ続く)

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