病歴⑬:味覚障害
初回の抗がん剤治療の時は入院したが、前週の手術のために入院していた時に食べられていた食事の半分も食べられず、退院した時にはげっそりとなっていた。
その時は、味覚の問題ではなく、吐き気や食欲不振が問題だった。
少しでも食べやすくてカロリーが高いものを選ぶとなると、プリンやバスチーが私の最初の救い主だった。
食事が喉を通らなくて、睡眠から目覚めてすぐに空腹というよりも飢餓に襲われて、冷蔵庫をごそごそとさぐる朝が続いた。
桃の味のトロピカーナエッセンシャルズや、ウィダーインゼリー、ミニッツメイドの朝バナナなど、手軽に急速にカロリーをチャージできて、かつ、果物の味のものは冷蔵庫の必需品となった。
夜中に空腹にかられたときは、ポテトチップスや揚げせんべいをばりばりと食べてしまうこともあった。固い歯触りは、ストレス発散にもなる。
気づくと、ずいぶんと体重が増えてしまった。がんになると痩せるものだと思っていたが…。
年末年始にかけての第2クールの頃、口の中の薬品臭さは気になっていた。
抗がん剤の点滴のみならず、CT時の造影剤でも、使い始めてすぐに口の中で薬品のにおいを感じ始める瞬間がくる。
甘ったるいような、とげとげしいような、喉の奥から舌の上に広がる人工的な風味。
鼻血のひどい頃だったので、血のにおいが口にのなかにも広がっていることがあった。鼻の中に塗布したメンソレータムやクロマイP軟膏が、口のほうに降りてきて苦みとなって広がっていることもあった。
だから、口の中の気持ち悪さは、そういう薬の味が消えないことであると認知していた。
第3クールに入っていただろうか。おそらく、1月の下旬頃。
バレンタインに向けて、ミスタードーナツがピエール・ド・エルメとコラボしたラインナップを販売していた。
少し高めであるが、美味しそうなドーナツが数種類。
こういう期間限定ものに弱い私は、濃い色合いのチョコレートのふわふわの生地にクリームを挟んだものを二種類、買ってみた。
午前中だけ働いての昼食代わりだっただろうか。駐車場に泊めた車のなかでひとつを食べてみて、驚いた。
ただただ、塩味しか感じることができなかった。
味違いのもう一つを食べたときも、やっぱりしょっぱかった。
通常のラインナップよりも大人向けに甘さ控えめに作ってあったとしても、クリームを挟んであるようなドーナツがしょっぱい、ということに、衝撃を受けた。ほかの風味がわからなかった。
自分の味覚がおかしくなっていると、はっきりと自覚した瞬間だった。
一番おかしく感じているのが、塩味。
塩味を強く感じ、えぐさとか、苦さとして認知する。
口の中が常に薬品くさく、塩味よりも、甘味や酸味のほうが、その薬品臭さに負けずに感じることができる。
バナナやりんご、いちご、桃、柑橘といったフルーツの味は、香りとともにイメージした通りの味が感じられて、食べやすかった。
それが、醤油や塩などの料理やしょっぱい系おやつになると、香りはいつもと同じように美味しそうに感じるのに、香りからイメージした味が感じられなくて困るようになった。
香りは美味しそうなのに、口にすると苦かったり、味がしなかったり。美味しいはずのものが美味しく感じられない。食べたかったものを食べても、期待した味がしない。
濃い味のものは口の中の薬品臭さとけんかして、実にひどい味にしか感じられないこともある。だから、水や米飯のような淡い味のもののほうが、実は食べやすい。
油っぽいにおいは気持ち悪く感じることがあり、熱いものよりも冷めているほうが食べやすいことが多い。
飲み物は、水か麦茶、薄くいれたアールグレイが飲みやすい。コーヒーや紅茶は、ミルクを入れると、口にした瞬間はいいが後味がひどくなるので、なるべくストレートで飲んでいる。
意外とミントのタブレットが口をさっぱりとさせてくれる。モンダミンもまあまあ役立つことがある。
そんな状態が、現在も続いている。
料理をしようとしても、自分では味付けができないようになった。味がわからないから仕方がない。
私がだるくて寝込むことも多いので、家族があれこれと気を遣って食事を用意してくれるのも申し訳ない。
私に食べたいものを尋ねてくれるが、自分でさえ何が食べたいか、何なら食べられるか、正解がどんどんわからなくなっていく。
申し訳ないから食べよう、食べようと努力して、許容量を超えて吐き気がひどくなってしまったり、体重が増えたことで更に苛立ってしまったり。
食べることが楽しくなくて、ストレスになっていく。
特に抗がん剤投与後から3日ぐらいは、食欲不振や吐き気が強い。買い置きしておいたプリンなどでしのぐうちに、急に空腹が強くなって夜中にポテトチップスをばりばりと食べる。味がわからなくても、歯ざわりがよかった。
体重が増えれば増えるほど、これはもう昔からだから仕方がないけれども、食べるという行為が苦行に感じられる時さえあった。
ありがたかったのは、やはりTwitterである。
食べる食べない食べたくないの愚痴を吐く場があったこと。
それについて、様々な体験談やアイデアを教えてもらえた。
また、緩和ケアに携わってきた人たちから、様々な情報源をシェアしてもらえたことは、私にとって大きなアドバンテージだったと思う。
教えていただいた情報源は、食事についてのものから、がんと闘病する間の生活にかかわるもの全般まで広がった。
国立がん研究センターの生活の工夫カードは、一つずつのトピックについてぎゅっと情報が集約してあるため、非常に見やすい。
だが、一番ありがたかったのは、多くの方が励ましや慰めの気持ちを寄せてくださったことだ。
何度も何度も支えられてきた。
心優しい、落ち着いた、大人な方たちが多くて、ありがたい。
数多くのプロの心理職のみなさんに支えていただいているとは、なんと贅沢なことだろう。
今も味はよくわからない。
よくわからないなりに、時々は家事をしたりする。
料理の写真をアップするだけで誉めてくださる方たちがいらっしゃるから、続いているのだと思う。
私がもとの自分に近づいているという印象を与えるのではないだろうか。
卵巣腫瘍の再々発の前は、料理と、猫と、本とが、私のつぶやいていたことのほとんどだったように思うから。それと、花かな。時々は旅。
鳥は好きだけど自分で撮影するのは難しいので、写真を撮る人のつぶやきを見るほうが楽しい。
来週で抗がん剤治療が終わったら、一か月の休憩を経て、今度は維持療法と呼ばれる再発予防の服薬による治療が始まる予定になっている。
そのお薬のパンフレットをもらったので見てみたら、副作用に、吐き気とか食欲不振とか味覚障害とか…。
普通に考えてみれば現在の治療の延長線上にあるのだから、副作用も似たようなものになりそうだ。
私は今度こそ痩せるのか? それとも、ついに、ごはんを美味しく食べられるようになるのだろうか??
体重のことは気にはなるが横におき、とりあえず、もとの味覚を取り戻したい。
頼むから、お願いだから。
結構、もう、うんざりしているのだ。
ご飯を普通に美味しく食べたい。
おりしも、Covid-19の流行にともない、緊急事態宣言が出された。
私の住む場所も、パートナーの住む場所も、それぞれが対象であり、抗がん剤治療終了の打ち上げを二人ですることが難しくなった。
こういう時に行きたいお店も休みになっているから、味覚が戻るまでおとなしくしておけ、と天に言われているのだとでも思うしかない。
久しぶりに、刺身や寿司といった生魚も食べたいものであるが、いつのことになるのか。
何もないというのもあきらめきれず、維持療法で服薬することになる薬はグレープフルーツが禁忌になるとのことであるので、よく行くケーキ屋さんにグレープフルーツのケーキを作ってほしいとお願いした。
レアチーズのムースの上に、二色のグレープフルーツを飾ったケーキが、私のグレープフルーツの食べ納めその1であり、自分用の抗がん剤治療お疲れさまの御褒美になる予定である。
それは、きっと、美味しいだろう。