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「呪いの言葉の解きかた」における湧き水の言葉とセルフコンプリメント

先日、上西充子さんの『呪いの言葉の解きかた』(2019 晶文社)を読んだ。その感想は別記事に書いた。

「呪いの言葉」は、相手の思考の枠組みを縛り、相手を心理的な葛藤の中に押し込め、問題のある状況に閉じ込めておくために、悪意を持って発せられる言葉だ。(p.16)

この本は、労働、ジェンダー、社会という社会の中で、気づけば知らず知らずのうちに自分を縛り付けて押し込めて閉じ込めるような呪いがあることを見出していっており、そこにはしばしば悪意も伴っていた。
その後、上西さんはTwitterで、悪意を伴っていなくても言葉が「呪いの言葉」として機能する可能性を指摘した。

これはとても大事な指摘であり、私の臨床の感覚とも近くなる。臨床で出会う「呪いの言葉」は、必ずしも呪ってやろう、苦しめてやろうとして吐き出されているとは限らない。
よかれと思い、願い、祈りをこめた言葉が、相手の中で呪いと転じてしまうこともある。
ただただ当たり前に伝えたはずの言葉が、相手との立ち位置や背景、文脈の違いのなかで当たり前さを失い、呪いになっていることもある。
もしくは、呪ってしまう本人も気づかぬうちに、善意や良識でコーティングした、きわめてたちの悪い呪いもある。
親子やそれに近しい保護者・養育者から受け取った「呪い」のようなものに臨床場面で出会うとき、家族間の秘密や儀式や歴史が横たわっていることがある。
それは、その家族の中では「当たり前」の文化で、少なくとも親世代までは「当たり前」の文化で、その呪いは背負うことが伝統となっている場合もあって、必ずしもそこに悪意があるとは限らない。

たとえば、歌舞伎役者の家に生まれた少年に、将来は歌舞伎役者になることを周囲が望むこと。
これは、周囲にとっては当たり前の心情であろう。待望の跡継ぎと言われるのかもしれない。
本人もそれに順応すれば早期アイデンティティを形成して、順調にトレーニングとキャリアを積むことになる。
もしかしたら、本人に迷いや悩みが生じて、周囲の期待が圧力となり、家業が呪いに転じる可能性もある。

また、たとえば、「総領娘は両親が死ぬまで家を出ないものだ」という言説をとってみよう。
これは私の母方の家系で実際に言われてきた言葉であるが、祖父母にとっても、その他親族にとっても、長女が両親を死ぬまで面倒を見るのは、「当たり前」だった。長女なのだから、という理由で。
その長女が結婚して家の外に出ることを、長男や妹達は支持しなかった。そこに損得勘定はあったと思うが、悪意はなかった。
その長女が、個人的な幸福を求める権利を現代の民法は保証しているはずであるが、地域柄、旧民法のような世界観や考え方がそこかしこに残存している。
同様に、その文化を持つ母のもとに生まれ育った私にとっては、十分に呪いであった。いくら、母に悪意がなくとも。
その世界に住む人たちは、それが当たり前であって、悪意はない。

こういった家族や社会から求められるものと、本人が学び慣れ親しんだものとの間に乖離が生じていくことで呪いが発生する仕組みは、ジェイン・ローランド・マーティン『女性にとって教育とはなんであったか:教育思想家たちの会話』(1987 東洋館出版社)を想起する。
公教育が登場し、女性に与えられる教育内容は男性化したが、社会で望まれるのは家父長制度下の女性役割のままであることが、近現代における女性の生きにくさを引き起こすことを説明する良書だった。
学校にいる間は男女区別のなく学業上の成功(現実には、男子は理系、女子は文系といった迷信のような男女差はいくらでも学校の中にある)を求めていればよいが、学校を出た途端に女性はどれだけ専門教育を受けていても、「よき社会人、よき妻、よき母、よき娘」の全部盛りを要求されるとしたら、そりゃあ、呪いを感じても仕方がないのではないか。そこに「よき女」まで加われば、息も絶え絶えになるというものだ。
ここにあげた「よき〇〇」はすべて、呪いとして実効を持つ。

繰り返しになるが、これらの呪いを発している側の人は、必ずしも悪意を有しているとは限らない。
心から、彼らの文脈に従って、よかれと思ってくりだしている言葉であることも多々ある。
それが彼らの限界である。
彼らにしてみれば、自らはよかれと思ってつむいだ言葉が、大事に思っているはずの娘や息子の中で呪いに転じられてしまうことに、悲しみすら感じていることもあるだろう。
それは職場でも同様で、団塊世代や氷河期世代にとっては当たり前だったことが、現在の20代の人に言っても通じないもどかしさに、ますます声を荒げてしまうような場合だって、ない訳ではないだろう。
ただし、呪いと感じて苦しんでいる真っ最中に、その呪いに苦しんでいる人が、相手の心情や背景まで思いを馳せようとすると呪いがより強化されることが懸念される。
他者は安易に「相手のこともわかってあげなよ」などと言ってはいけない。

臨床心理学のなかで、この「呪い」と重複するものを挙げるとすれば、前回の記事では、認知のゆがみや非合理的な信念をあげたが、より、「呪い」に近い概念としては、交流分析のなかの「禁止令」があると思う。
すべての心理援助職が用いるようなツールではないが、呪いの言葉のバリエーションとして参考になるかと思う。
ここで部屋をひっくり返してみたが、どうやら書籍は職場に置いてきたらしいので、ネットからの引用になるが、禁止令は「存在するな」「自分自身であるな」「自分の性であるな」「子供であるな」「成長するな」「成功するな」「重要であるな」「所属するな」「近づくな」「健康であるな」「考えるな」「感じるな」「(なにかを)するな」は13種類に分類される。
これらは、子どもの頃に家族や養育的な保護者から受け取った言語的・非言語的なメッセージであるとされる。
親の理想通りにふるまわないと存在してはいけないように感じていたり、恋人ができたなんて言うと親が潔癖に拒否反応を示すことがあったり、いつまで経っても子ども扱いで自立させてもらえない気がしたり、そんな体験の中にこれらの禁止令が隠されていると考えるわけだ。
どうしても自分自身の感情や思考や行動を縛り付けるいつものパターンのようなものに心当たりがある人は、専門家の力を借りることも選択肢として視野に入れてほしいと思う。

自分がどのような呪いに縛られているのか、知ることは大事である。その呪いを、呪いと気づいていない人もいるだろう。自分自身を支える楔として握りしめる人もいるだろう。
だが、自分自身を苦しめるものであり、それを手放したいと思った時には手放してほしい。
その時のヒントとなることが、上西さんの言う「灯火の言葉」であり、「湧き水の言葉」だ。
「灯火の言葉」はempowermentであり、誰かが自分に届けてくれる言葉である。「相手に力を与え、力を引き出し、主体的な言動を促す言葉」(p.194)である。
「湧き水の言葉」は誰かがその人自身に向けて発した言葉や自分たち自身の中から湧き出てくる言葉である。「みずからの身体から湧き出てきて、みずからの生き方を肯定する言葉」(p.236)である。

自分自身の専門に引き寄せて置き換えて考えると、私が一番慣れ親しんできた解決志向アプローチ(SFA: Solution Focused Approach)に重なる。
SFAでは、empowermentではなく、complimentという言葉を使う。これも日本語に訳しづらいのであるが、ほめる、たたえる、ねぎらう、いたわる、うやまうなどのさまざまの意味合いを込めて、クライアントに投げかける言葉である。
それは、シンプルに「すごいですね」「すばらしい」といった感嘆の言葉を含む直接的な伝え方や、「どうやってそんなことを成し遂げられたのですか?」という質問の形をとる間接的な伝え方がある。さらに、自分自身で自分をコンプリメントするself-complimentもある。
「灯火の言葉」はcompliment、「湧き水の言葉」はself-complimentに相当すると考えると、私にとっては腑に落ちやすかった。
なお、どんな誉め言葉も相手にフィットしなければ意味がない。単なるお世辞になってしまうこともあれば、呪いの言葉の押し付けにもなりうる。
コンプリメントは対人援助の技法のひとつであるが、専門職といえども、100%の確率ではできるものではないことも付記しておく。

前回の記事で、私は「心理職は、灯火の言葉をなんとか送ろうと差し出したり、湧き水の言葉が湧き出てくるのを手伝い見守るような仕事だと思う」と書いた。
上西さんもまた、『呪いの言葉の解きかた』のなかで、

問題を「開く」こと、ひとりではできないことは「できない」と言い、適切な助けを求めることこそが大切なのだ。(p.117)

とおっしゃっている通り、ひとりで取り組まずに、信頼できる他者の力をどんどん借りることが、心に灯火をもらい、湧き水を呼び寄せることにつながると思う。
どうしても、今ここで、すぐには助けを求めることができないという場合には、先ほどの間接的なコンプリメントを自分自身に投げかけてみてはもらえないだろうか。

どうやって、自分はこれまで生き延びることができたのだろう?
どうやって嫌な言葉に押し殺されずに、自分の心を保つことができたのだろう?
どうやって、「結婚は?」「出産は?」と問われても、自分の生き方を曲げずにこられたのだろうか?
しんどいこともいっぱいあったけど、この一週間をふりかえれば、美味しいものを美味しいと思ったり、ぐっすりと眠れたり、好きなことを楽しむこともあった。どうやって、そんなことができるようになったんだろう?
少なくとも、今、あなたは、生きている。呼吸をし、食事をし、睡眠をとり、排せつをし、生きることができている。苦しい毎日であっても、なんとか切り抜けて、やり過ごすことができている。生きているだけでも大仕事なのだ。それをできているではないか。もしかしたら、その上に、家事をしたり、育児をしたり、労働をしたり、介護をしたり、学業をしたり、+αで頑張っていたりするのではないだろうか。どうやって。

コツは、Why?ではなく、How?であることだ。
その問いの先に、自分だってまあまあがんばっているじゃないか、無力ではないようだ、そこそこやれている、そんな感じをかけらでも自分で見つけてもらえると嬉しい。
その感覚が湧き水を引き寄せる呼び水になってくれるだろうとお勧めしたい。


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