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においの記憶 おとの記憶

マスクをはずして、空気をかいでみた。
ほんのりとかすかな甘い香り。トーンの高いにおいが、かすめるように漂って流れて行く。
たとえるならば、カソナード。火を通したお砂糖の、焦げる手前の甘いにおい。
ブッシュミルズのウィスキーの、軽やかで華やかな香り。
バニラのように甘く、でも、そこまで重たくはない。
枯れて落ちる桂の葉のにおいが一番似ていると、母が言う。
その意味がようやくわかった。

映画『鬼滅の刃 無限列車編』とJRとのコラボで、肥薩線が災害で断線しているために出番を失くしていたSL人吉が、熊本駅から博多駅まで走ると知った。
指定券840円。乗車券2170円かかるので、合計3010円。
840円という数字に最初は冗談かと思ったが、今思うとこの倍とか5倍とか10倍にして沿線復興の寄付とか線路の回復に使っても誰も文句を言わなかったのではないか…。
SL人吉に乗り損ねたことがある私としては、いいなぁ乗りたいなぁと思ったし、鬼滅の刃のマンガを読んでいた母親も面白がった。
父が入院中で、気苦労の絶えないであろう母親の気晴らしに840円ぐらい出したいとは思ったが、チケットは瞬間で消えるように売れたらしい。当たり前である。

運行は、11月1日(日)、3日(火)、15日(日)、21日(土)、23日(月)の5回だけ。
初日の11月1日、せめて観に行こうよと母親を誘ってみた。母親も観に行くだけならと興味を持った。
直前までは。
復職してから時間が経ったもののいまだフルタイムで働けずにいる私は、非常に疲れやすい。
ちょっとした作業でも疲れ果てるし、週末は寝てばかりいることも多々ある。
そういう私に遠慮した母は、やはりやめておこうと言い出したのが前夜だった。
母自身も、けして万全な体調ではないし、Covid-19の心配があるなかで、混雑するような場所は避けたい気持ちも、当たり前でまっとうだ。
残念だけど。

それでも興味だけはあったので、初日はTwitterを見ていたところ、目撃した人たちが次々と画像や動画をアップしていった。
停車駅は、熊本→久留米→鳥栖→博多とされていたが、途中のいくつかの駅でも追い越しなどのために停車していたらしい。それをまた、前もってキャッチしていた人たちもいたようだ。
とても見栄えのいい背景、角度、日差しまで計算しつくしたかのような、選りすぐりの一枚をアップする人。
あるいは、興奮した声を禁じえない人の、その声の熱気まで伝わるような動画。
どこどこで撮影して、先回りして次はどこどこで…と追いかけている人。
SLが進むと同時に、沿線の様々な場所の画像が追加されていく。
一緒に旅をしていくような、不思議な感覚があった。

と同時に、カーブや踏切、駅を通過する時の汽笛の音が印象的だった。
いくつもの動画を一緒に見ているうちに、母がこの汽笛の音が懐かしいと言い出した。
生で汽笛を聞きたいというのなら、3日(火)の日にやっぱり観に行こうと誘ってみた。
私自身も見てみたいという気持ちがあったが、母に見せてあげたいとも思った。
自分はいつか肥薩線が復活したときに、きっとSL人吉は復活してくれると信じているし、その時に乗ればいいやと思ったりするけれど、あそこまで母を連れていくのは至難の業だもの。

いつ、どこを通り、どこで見るのがよいのか。
Covid-19の流行下であるから混雑する場所はなるべく避ける意味で、通過駅で、あまり人が多くなさそうな小さな駅に行ってみようと母とは話し合った。
適切な場所を検索しているうちに、撮り鉄さんと呼ばれる人たちの熱量を感じて、それがすごく素敵で楽しかった。
なかには、JR九州の各線路でのお勧めポイントが紹介されているサイトがあり、久大本線に肥薩線、日田彦山線と、どこも今は寸断されて使われていない路線ばかりではないかと気づいて、かつての美しい渓谷や紅葉を背景に走る数々の電車の写真に泣きそうになったこともあった。JR九州はどこまで路線を復活させることができるのか。その時、沿線はどこまで復興していることだろうか。
そんなサイトで鹿児島本線で必ずと言ってお勧めされるポイントとして、「テンハル」という言葉を憶えた。それが「天拝山駅」と「原田駅」の間という意味がわかった。ほうほうふむふむ。
せっかくなら一番よい景色を母に見せたい。目指すならここかなぁ?と思いながら、母には原田駅を目指そうと伝えて11月3日、家を出た。

スマホで経路をナビしながら3号線を南下していると、右手にJRの線路がある。
土手の上に線路が走り、奥には山が見える景色がぱっと視界に入った。
そこには既に多くの人が集まっており、そこがテンハルだと一見してわかった。
すぐ近くの交差点を曲がって近寄ってみようとしたが、どうやって近づいていいのか、どこに車を停めていいのか、初めての場所が苦手な私は大混乱。
母にここでなくていいからとなだめられて、やっぱり原田駅へと向かうことにした。

原田駅はこじんまりとしたたたずまいで、昔、最寄りの駅もこんな風だったと思い出させてくれて、懐かしくなった。
入場券を買って、プラットホームに向かうと、既に何人かの人たちが待ち構えていた。
この後も思うことだけれども、見に来る人たちは大きく3種類にわけられると思う。
一つめのグループは、鬼滅の刃が好きな人たち。小さなお子さんづれの方たちは、だいたいこのグループじゃなかろうか。父親よりも母親のほうが熱心に見えることも多い。なにかしら鬼滅グッズを身に着けていたり、コスプレしているお子さんもいたりする。
二つめのグループは、撮り鉄さんをはじめとする鉄道がすきな人たち、SLそのものが目あてな人たち。がっつりと大きなレンズのカメラを持参されているのは中年以上の方が多く、ささやかに楽しもうとされているのは若い方が多かったように思う。
そして、三つめは、昔、SLに乗ったことがあって、懐かしくて見に来た人たちだ。もちろん、ここが一番年齢層が高い。
ほかにも、もしかしたら、人吉というその土地に思いを馳せるために見に来た人もいたのではないかと思う。
私のような単なるにわかののぼせの人も、きっといたと思う。

プラットホームの南端近く。
耳をすませていると、遠くで踏切の音が聞こえる。
来た? そろそろ??
何度かざわざわと声がしては、違っていることを繰り返した。
手元のスマホで時間を見たり、Twitterに新しい情報が入っていないかを確認したり、そしてまた目を凝らしたり。
その時、汽笛が聞こえた。
今、聞こえたよね?
思ったよりも煙は控えめで、思ったよりもずっと早い。
動画で見ているとゆっくりと通り過ぎるような気がしていたのに、その黒い姿はゆらゆらと小さく視認できたと思ったら、見る見るうちに近いづいてきた。
スマホの録画を開始する。先に通り過ぎた電車で、どれぐらいの位置とピントで撮ればいいか、練習しておけばよかった。
画面じゃなくて生で見ていたいのに、録画しようとするとついつい画面を見ちゃう。
無限のプレートがしっかり見える。そこからがあっという間だ。
86の少し短調な響きを帯びた柔らかく高い音の汽笛に感激する。目の前で聞くことができた。
もう蒸気機関車は目の前を通り過ぎて、客車が続く。
車体のSL人吉の文字。それを録画しておきたかった。見ておきたかった。見るだけで泣きそう。
人吉に、7月の豪雨災害地にエールを送るつもりで見送った。
手元の動画は、ほんの33秒だった。

そして、マスクを外して空気のにおいをかいでみた。
煙の臭いを感じるかと思ったら、どこか甘い香りがかすかに空気に漂っていた。
母の言っていたのは、この匂いだったか。母がSLの煙はとてもよい匂いがしたのだと言っていた。その意味がわかった。
そう伝えると、母が嘘じゃないことをわかってもらってよかったと笑った。
母の子どもの頃の記憶をなぞることができた、数秒間だったのだ。

その日の動画を親戚たちにもシェアすると、伯母と母とで、原田駅で売られていた氷菓の話になった。パイナップル味で美味しかったらしい。
そこでSLに乗り換えて筑豊に向かったことがあったという。そういう思い出話を聞かせてもらえたのも、思いがけず面白かった。
母はかついで窓から乗せられることがすごく嫌だったとか。
冷水峠を越えていく蒸気機関車は、もしかしたら86ではなくて、もう少し後年に作られた大きくて力強いタイプだったのかもしれない。
そんな話を親戚間で、LINEで話し合った。
母だけでなく、母の兄弟たちに共通する懐かしい景色に、SLがあった。

一度、見たら満足するかというとそうではなくて、もうちょっともくもくと煙の湧き立つところ、つまり、出発の場面を見たくなった。
今度は録画せずに、自分の目で、五感で、もっとマインドフルにしっかり見たいという気持ちになった。
だって、あっという間だったんだもん。もっとゆっくり見たいじゃない。
そんなことを言っているうちに、父が退院。父にも見せてあげようという名目で、15日の3回目の走行を見に行くことになった。
父は決して乗り気だったわけではないが、私と母とでちょっとごり押しして、行くことにした。
でも、父も退院したてで体力が不十分だし、あまり遠出はしないでおこうということになり、再び、原田駅でいいんじゃないか、ということになった。

15日。原田駅まで車で行き、入場券でホームに入った。
前回よりも少し人が増えているように感じた。
暇つぶしがてら、その日の最新のSL情報をTwitterで確認したり、前回の録画した動画を見ていたら、若い男性が母に声をかけてきた。
「ハチロクが鹿児島本線を走るなんて、滅多にないことだから見に来ました」と話す人に、母はハチロク?とちょっと面食らってしまったらしい。
その母の反応に、男性のほうは拒否的なものを受け取ったのか、すっと引いた。それが、話しかけたことを悔やんだように見えた。
それで思わず、「前回の動画、見ます?」と声をかけた。
その人の純粋に鉄道が好きな様子が伝わってきて、こちらまで嬉しくなった。

この日は数分遅れでの運行しているとアナウンスが駅内に流れた。
安全を促すアナウンスもあったが、平気で黄色い線を越えてスタンバイする人たちがいて、ちょっと不愉快な気持ちになった。
そんなことがあって母親とぶつくさ言いながら、向かい側のホームに移動した。
直前になってうろうろしたり、二人でぶつくさ言っていると、前回よりもさささっと勢いよく、SLは通り過ぎてしまった。
やっぱり動画を撮らずにいられなかったのであるが、24秒と短かったのも、ほんとに急ぎ足に運行していたからではないかと思ったりする。
あわただしくて、全然、マインドフルに楽しめなかった。心を穏やかに鎮め、集中して臨むことができなかった。残念!
でも、話しかけてきてくれた若い男性が、楽しめたのならいいなぁと思った。心から思った。この日の一番よかったことは、この人の嬉しそうな様子だったから。

帰宅して、父がいきなりSLについて調べ始めた。
うちの父は凝り性なのだ。
一旦、気になるととことん調べないと気が済まない。
そして、いちいち読み上げて聞かせようとする。
なんなら、羽犬塚駅に停まるからと、羽犬塚の地名の由来まで調べていた。
完全に、はまった。はまっていた。
こうなると、止まらない。父は基本、暴走列車である。
そして、父は、私とだいたい発想が近い。私が似ているってわけだが、同じようなことを考える。
走っているところは見たから、停まっているところを見たい。
発車するところを見たい。というわけである。
ですよね!?

21日(土)は私の都合が悪く、ラストチャンスは23日(月)。
最後の走行になるので、当然、混雑が予想される。
10分近く停まる羽犬塚駅よりも、停車時間の短い弥生が丘駅を両親に提案。
弥生が丘駅近くに駐車場があるかどうかがわからないので、原田駅まで車で行き、そこからちょっとだけJRに乗って移動することにした。
先の2回の入場券やこのちょっとの運賃が、JR九州へのささやかな応援である。
それまで2回と比べてぐんと気温が冷えて、晴天とはいいがたい日であったが、雨が降っていないことが幸いだった。
直前にあれを忘れたのこれをしてないのと、家族の誰かがぐずぐずして、時間通りに家を出ることが難しい家族なのであるが、予定時間の数分前には車に乗り込んでいる気合の入りよう。
さすがに3回目ともなると、原田駅に向かうのも慣れた気がするし、駅前の駐車場も空いていて、とてもついている気がした。
予定よりも一本早い電車で弥生が丘駅へ。ホームにはまだ人影が少ないものの、既にそれらしき人たちがいるあたりに並んだ。
あんまりにも人が多かったら、ホームではなく外から見ようかとも話していたけれど、こんなに少ないならホームでいいか、となった。

どうせなら、機関車の横に立ちたい。
無限プレートへのこだわりは少ないので、一番前のほうでなくてもいい。
どちらかといえば、大正11年と書いてあるプレートのほうが見たい。
そんなことを考えながら、それまでの弥生が丘でSLを撮影した画像を探して、周囲の木の位置からどのあたりがベストポジションかを推測して、微調整など図る。
ホームの向かい側、線路の先には、ホームセンターがあり、そこに車を停めて見ている人たちもいて、皆さん、よく知っているなぁ、詳しいなぁと、びっくり。
撮影する機材は持っていないから音声だけ録りたいとICレコーダーを持ってきている若い男性というか、男の子がいて、いろんな楽しみ方があるものだと驚嘆した。素晴らしいアイデアだと思う。
時間が近づくにつれ、どんどん人が増えていった。ひっついてほしくないと思っていても、人と人の間に割り込んでくる人もいる。
向かいのホームセンターの駐車場も満車になり、フェンス越しに並ぶ人も増えていく。
コスプレをした子どもが親御さんに手を引かれて小走りにやってきたり、日輪刀を振り回して走り回る子どもたちは駅員さんに注意される。
駅員さんたちも応援のために増員されているんだろうなぁ。最後まで事故のないように。

徐々に近づいてくる、その姿は見えなかった。
気配が歓声とともに近づいてくる。
しゅんしゅんと音を立て、ゆっくりゆっくりと近づいてきて、無限のプレートが見えて、目の前に機関士さん。
それまで華奢に感じていた86だったのだが、目の前にすると大きい。もうどこを見ていいかわからない。写真を撮ろうにも入りきらない。
とりあえず、58654の車体の番号と大正11年に日立で作られたことを示すプレートを撮影する。こういうことが書いてあると教えてくれていたTwitterの見知らぬ人、ありがとう。
機関士さんは若い人で、眉毛がきれいに整えてあることに見とれてしまう。いやそこじゃない。そこじゃなくて。
煙突の上でくるくる回っている部品があることに気づいたが、それは動画ではうまく撮れない。
と、そこで、それまで隣にいた母子が写真を撮ろうとしているのに気づき、「撮りましょうか?」と声をかけた。母親が息子二人をSLをバックに撮影しようとしていたのであるが、どうせなら、親子3人で写りたくないだろうかと思ったので。
慌てて数枚。そのうちに、少しでも見栄えのいい、写りのいいものがあったらいいのだけど。
そうこうしていると、もう出発するという。
うおおおおおお。やっぱり、動画、撮るー!自分も撮るー!!と、撮り始めた途端に警笛が鳴らされた。
目の前で鳴る音が大きくて、びっくりした。すごい迫力だ。
黒煙がもうもうと立ち上り、ゆるゆると動き出す。
動画を撮ろうにも、スマホを縦にしていいのか、横にしていいのか、わからない。近くて、近すぎて、小さな画面には入りきらないんだもの。
こだわらないことにして、画面から目を離す。
機関士さんたちに手を振る。お疲れさまだけど、あと少しがんばっての気持ちで手を振る。
ぷしゅぅぅぅと、蒸気を吐き出す音がする。これも聞きたかった音だ。
先頭からではないから、白い蒸気を吐き出し、それをかき分けるように進む姿は見られなかったけれど、高く高く上る黒煙に目を見張る。
普通に煙くさかった。
あのよい香りがしたのは、最初の一回だけだった。

後で見せてもらうと、父はざっざっと小気味いい音を立てて石炭をくべる様子を撮影していた。家族それぞれ見どころが違っているのも面白いものだ。
父と母で、何歳ごろまでSLに乗っていたかとか、どこに出かけるときにSLに乗ったかなど、競い合うように話していた。
もちろん、鼻の穴が真っ黒になるとか、そういうことも。
両親はとても喜んで、今まで一番喜ばれたんじゃないかというぐらいの親孝行になったようだ。
その後、TVをインターネットにつなぎ、YouTubeを見られるようにしていたのには驚いた。
我が家のSLブーム、まだ収まりそうにない。

今年は私も含めて家族が順番に病院の世話になることも多いうえに、Covid-19のことで生活が変わって気がふさぐような一年であったが、11月はSLの汽笛の音に慰められた気がする。
ぽーっと尾を引く音も、ぽっぽっと軽く可愛らしく響く音も。
100年近く前の車体がぴかぴかに誇らしく整備されていることに、ロマンも感じるし、プライドも感じる。そこに励まされたのかもしれない。
日本全体どころか、人類全体が大変なことになっているのだけど、その中でJR九州も大変だと思う。それだけではなく、SL人吉の向こうにある人吉や球磨を思った。
復興を心から祈る。今も苦痛に耐えている人たちが、1日でも早く安心と安全を取り戻せますように。
みんなが生き延びることができますように。

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香桑
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