【日記】貧すれば鈍する
「あなたの座右の銘はなんですか」という質問に対して、これですとビシッと言えるような言葉を持たないまま長いこと生きてきたが、最近は「貧すれば鈍する」がそうなんじゃないかなと思っている。
もちろん「自分は現在貧しているので鈍の状態にあります」という自己紹介の意味合いではない。
「貧すれば鈍する」を自然の摂理と考えて周りを見て、また貧しても鈍しないように振る舞いたいという意味合いである。
ことわざでは「貧」を経済的な貧乏であるとしているが、私はこれは健康・時間・メンタル・愛・承認・成績・機会・再生数などあらゆるモノの乏しさに拡大できると思っている。
また「鈍」の対象も精神の働きと書いてあるが、精神的な愚鈍さは言動や行動に影響が出るはずだ。
つまり、余裕のない人間の余裕のなさは表に出やすいという事だ。
閉店直前の本屋
「貧すれば鈍する」と聞くと頭に思い浮かぶエピソードがある。
私は昔書店でアルバイトをしていたことがある。その店は大阪市内にも関わらず人気のあまりない商業施設の中にあり、人が居ないからこそ私はこの本屋が好きだった。
しかし、その人の少なさのせいで(それと出版不況のせいで)その本屋は潰れてしまった。私がバイトを始めて4ヶ月後のことだった。
私がよく覚えているのが、閉店する1ヶ月ほど前から、本の売り場を縮小してアニメキャラクターのグッズや文房具を並べ始めたことだ。しかも売れ筋だとは思えない微妙なタイトルのアニメ。(僕はアニメに詳しかったのだが、これはTV放映が何年も前の本当に微妙なタイトル)
今考えると、あれは閉店前に本よりも利益率の良いグッズを売って少しでも儲けを出そうとしていたのかもしれない。もっと友好的に見ると、それで売上を伸ばして閉店を避けようとしていた可能性もある。
どちらにせよ、本屋が本売り場を縮小してしまった時点で、本屋としての未来はもう無かったのだろう。貧した結果、鈍してしまったのだ。
それ以来、書店で書籍以外の売り場が広がっているのを目撃すると、もしかしてこの店は近いうちに潰れてしまうんじゃと、少しトラウマになっている。
「貧」は主観的、「鈍」は客観的
「貧すれば鈍してしまう」のは、物が上から下に落ちたり、太陽が東から昇り西から沈むのと同じくらいに自然の摂理だと私は思っている。そして残念ながら、鈍している状態を好ましく思う人間がかなり少ないのもまあ自然であり、鈍すれば鈍するほど人が離れてしまい悪循環に陥ってしまうと私は思っている。
そして貧しているかどうかを判断するのは、大体の場合本人の主観である。
コップに水を半分注いで「もう半分しかない」と感じるか「まだ半分ある」と感じるかという有名な例え話があるが、貧しているかどうかも人によって捉え方が異なり、ついつい人は自分を足りてない側貧している側に置きがちだと私は感じる。
逆に「鈍」は自分から見えにくく、他人から判断されやすい。
あらゆる行動や言動がそうだが、「自分はこれを愚かで間違っている」と思いながら行う人間はほとんどいない。
「貧すれば鈍する」も同じで、貧した人間が「当たり前」「こうするしかない」「こうすればいい」と思ってとった行動が、他者から愚鈍だと判断されてしまう。
理想の話
最初に話したように、これはあくまで私の座右の銘の話だ。ここまで語った全ては私の「貧」と「鈍」への価値観である。
「愚鈍な行為に対して、そこに悪意を見出さず貧した結果だと考えて他人を憎まないようにしたい」
「貧してしまうこともあるかもしれないが、そこで鈍してしまえば人が離れるだけなので、感じさせないように振る舞いたい」
というのが私の「貧すれば鈍する」という言葉への向き合い方だ。
何度も言っているが「貧している時に鈍してしまう」のは冬に布団から出たくないのと同じくらい当然のことで、鈍してしまったことを過度に反省する必要はないと私は思う。それに貧したり鈍したりしている人間がいるのなら、人が離れるのではなく、何かしらの手が差し伸べられるのが理想ではある。
ただそれでも、私は貧した時に歯を食いしばってグッと踏み止まれるような人間でありたい。そういう話だ。
ではまた明日。
※ところで「貧すれば鈍する」の対義語って「実るほど頭を垂れる稲穂かな」じゃない?