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#17 猫背でもいいよ。
■猫背でもいいよ
この前の散歩中、
ふいに、イヤホンを通して耳に入ってきた歌詞。
「猫背でもいいよ」
僕は無意識に背筋を伸ばした。
いいよって言われたのに、猫背を直していた。
僕は子どもの頃から姿勢が悪い。
親に「猫背、また背中が曲がってる」とよく言われてた。
気にしているし、直さなきゃとは思うけど、
直らないまま今に至る。
諦めかけた今も、気にはしてる。
個人的にそんなバックグラウンドがあったから
「猫背」という言葉に反応したのかもしれない。
けど、
「指摘される」よりも「許される」の方が、
間違いを受け入れるのも、行動を変えるのも、
簡単だった。自然とできた。
許されたことが、
「自分から変われるキッカケ」になったんだなと思った。
■どうせやるなら、嫌な気持ちにならない方で
「〜は良くないよ」と言われたら、
素直に聞き入れられないときがある。
「なんで?!」と 思わず反発してしまったり、
反発までしなくても、悲しくなったり。
否定ではないと分かってる。
僕のためのアドバイスで、必要な指摘だ。
それでも、素直に聞き入れられないときがある。
「〜でもいいよ」と言われると、
何故だか、本当にそれでいいのかな?と
改めて考えてしまう自分がいる。
どっちでもいいなら、どっちの方がいいかな?
と自問して、
こっちの方がもっといいな と思えたら、
素直にそちらを選ぶことができる。
散歩中の「猫背でもいいよ」は、無意識だった。
また指摘されてしまってた!…みたいな
嫌な気持ちはなかった。
たぶんだけど、
例えばそのとき「猫背の気分」だったとしたら、
猫背を直さず、そのまま歩いていたと思う。
そのときは、そうするのがいいなと思っから、
自然と背筋を伸ばすことを選択していた。
■娘の場合も同じだった
Aをやりたい娘に対して、
本当はBがいいのになと思いつつも、
同じように「いいよ。AでもBでもいいよ」と言うと、
許しを得たことに まずは「やった」と喜ぶ。
そして、一度Aをやってみた後で、
またはAをやる前に、
もう一度 改めて何かを考えてるときがある。
それで やっぱりBだなと思ったり、
別の選択肢Cを考えてみたり、
新たな「面白い」を発見して遊んでたりしてると、
反射的にAを否定しなくてよかったなと思う。
たぶん、自分でも「いいのかな?」と迷ってて、
もしくは、あまりよくないかもと思いながら、
質問したのかなと思う。
やりたいけど、「ダメかも」と葛藤してたり…。
そんな心境、タイミングだったのかもしれないね。
「いいよ、別にダメじゃないよ」のメッセージで、
娘が勝手に前に進んだ。
一旦受け止めてもらえたことで、
反発したい気持ちも生じることなく、
意固地にならずに、むしろ素直になれたのかも。
きっと そういうことだったんだろうなぁ。
でも、
優しく言ったからといって、いつも反発されない訳じゃない。
相手の気持ちやタイミング次第では、
期待したようなリアクションが返って来ないことはあり得る。
だから、「テクニック」だとは言いたくない。
相手をコントロールしてやろうという頭では、
おそらくコミュニケーションはうまくとれない。
■今回のまとめ
「やめた方がいいよ」と言われると、
「なんで?」を相手に求めたくなったり、
ときには反発して、意固地になったりする。
not(否定)、must(義務)、should(べき)は、
人の行動を縛る。これらが多いと苦しくなる。
自由を望む気持ちが「反発心」へと変わる。
「やっても やらなくても、いいんだ」と思うと、
「どっちがいいかな?」を自分で考えて、
自分で選ぼうとする。
縛りがなければ、「反発心」は出て来ない。
冷静な判断の邪魔になるような、
「余計なもの」がない状態(=素)でいられる。
自由を得た心が、前へと進む力になる。
Bがベターだと分かっているのに
あえて間違いのAを選ぶことを許可するのは、
遠回りで無駄な時間に感じるけども、
結局その方が早かったみたいな。
「急がば回れ」
自分の体験と そのときの行動を分析し、
過去の娘の行動にも照らし合わせてみた結果、
既知のことわざに到達しました。笑
すごく当たり前のことを、
ぐねぐね回り道をしつつも確認できたのは、
それもアリっちゃぁアリかな。
僕は相変わらず猫背が直っていないけれど、
今までより仲良くやっていけそうな気がする。
おわり。