防災減災のための地域づくり No.4 災害復興へコミュニティづくり
この記事は #防災減災の地域づくり のために「コミュニティづくり研究所」が提供します。「NHK地域づくりアーカイブス」の事例動画に学ぶ資料です。NHK地域づくりアーカイブスは過去のNHKの多くの番組から「地域づくり」の良い実践例(good practice)の動画(視聴時間5~10分間程度)を集めたアーカイブスサイトです。このアーカイブスの地震や洪水の災害に関連する動画から、私は① #防災のまちづくり 、② #災害避難 、③ #避難所運営 、④ #災害復興 、等の実践を紹介する事例を幾つか選びました。①から④のそれぞれのテーマに含まれるアーカイブ動画を視聴し、私なりに学び考察したことを纏めました。過去の良い実践例を学び、防災減災にむけた地域づくりについて考え、計画し、行動するための参考資料として、 #自主防災組織 などみなさまの地域社会に少しでも役立つならば幸いです。
「防災減災のための地域づくり」シリーズでは下記のⅠからⅤのテーマの記事を提供します。この記事は「Ⅳ 災害復興へコミュニティづくり」です。
Ⅰ 防災のまちづくり
Ⅱ 災害避難
Ⅲ 避難所運営
Ⅳ 災害復興へコミュニティづくり(この記事)
Ⅳ 災害復興へコミュニティづくり
「災害復興へコミュニティづくり」で扱う「NHK地域づくりアーカイブス」の動画の事例は、大きく分類すると、A.「コミュニティづくり」B.「 #集団移転 」になりました。従って「Ⅳ 災害復興へコミュニティづくり」の内容は以下の通りです。
A. コミュニティづくり
●「コミュニティづくり」の事例動画の詳しい内容とリンク
B. 集団移転
●「集団移転」の事例動画の詳しい内容とリンク
A. コミュニティづくり
事例動画(1)から(13)は「災害復興へコミュニティづくり」に関する事例です。それぞれの事例動画の詳しい内容とリンクは以下の●の見出しで紹介します。各事例動画はインターネットのリンクで視聴時間5~10分間程度です。
動画事例の全体を通して「コミュニティづくり」に共通しているのは何でしょうか。それは第1に私的ではない公的な「空間・場」の存在です。第2に人びとを「繋ぐ人」あるいは活動家の存在です。最初の公的な空間とは人と人が会う場であり、例えば事例にあるように駅前の花壇、誰でも座れるベンチ、町の小さな店やカフェなどから始まって、集会所やコミュニティセンター等の交流施設、地域の祭りのイベント会場、そしてSNS等のバーチャル空間までさまざまです。次に人びとを「繋ぐ人」とは、孤独に苦しむ人に声掛けができる一般の個人から、行政の委託を受けた復興支援員やNPOの活動家、サークルを立ち上げて人びとが集まれる場・空間を設定する活動家などさまざまです。このような人と空間が存在する時、人びとの挨拶から始まって、顔が見える関係でコミュニケーションが促進されて、コミュニティが形成されていくと思います。当然のことのようですが、この基本的な人と空間の2つの要素によって、事例動画(1)から(13)のコミュニティづくりが進展していることが分かります。以下に事例動画の要点を述べますが、事例の詳しい内容はその後の●印の項目で紹介します。
(1)は石巻市の「地域福祉コーディネーター」が行った、長期的に被災者に寄り添いながら支援する活動です。住民の不安や困りごとを聞き、孤独死などを未然に防ぐことが目的です。仮設住宅や復興支援住宅でお年寄りたちの交流やコミュニティづくりを促進します。バラバラになりがちな行政やさまざまな団体の支援を結び付ける、コーディネーターの役割は重要だと思います。
(2)福島からは住民が全国に避難しました。避難者の繋がりのなさと孤立感が長期に亘った場合、自殺念慮や孤立死の問題が起きます。東京都中野区の都営住宅では福島からの避難者を中心に毎週交流サロンが開かれています。さらに避難者と地域住民の繋がりを作る工夫もしています。また24時間体制の電話で全国から悩み事の相談を受けています。
(3)震災の原発事故で福島県浪江町の全町民は、全国45都道府県でバラバラに避難生活を送っています。その支援のため浪江町は「復興支援員」を全国に28人配置しました。復興支援員も浪江町出身の避難者です。埼玉県では復興支援員が戸別訪問を行い、孤立している人が多い地域で交流会を開きます。
(4)宮城県石巻市のボランティアナースの会「キャンナス」は、震災で地域コミュニティが分断された仮設住宅や一軒家の住民を訪ねて、彼らが交流できる場を設けて、地域のコミュニティ再生のきっかけづくりをしています。
(5)岩手県宮古市田老地区の避難住民は、震災前に住んでいた田老地区の近隣同士がなるべく近くの仮設住宅に住めるよう配慮されたので、地域のコミュニティが分断されませんでした。入居した当初、仮設住宅に閉じこもる住民は、仲間に声をかけられてサークルに参加するようになり、孤独の苦しみから救われました。
(6)岡山県倉敷市真備町の2018年西日本豪雨の被災住民は、町の人口の6割に及びました。仮設住宅は出来たものの数が足りず、多くの住民はみなし仮設に住みました。みなし仮設は倉敷市内や周辺の多くの自治体に散在し、真備町の住民はバラバラになり孤立しました。倉敷市は「見守り連絡員」を雇用し、みなし仮設への個別訪問をして、困りごとが見つかれば相談にのりました。また住民ボランティアは「川辺復興プロジェクト あるく」を立ち上げ、被災者が集まって安らげる貴重な拠点を作りSNSのグループも作りました。
(7)福島県いわき市にある復興公営住宅の下神白団地には、大熊町から避難した300人が暮らしています。高齢の一人暮らしが多く孤立が心配でした。そこでコミュニケーションの場を作るために、ベンチを団地内のさまざまな場所に置き住民たちの交流の場にし、さらに集会所でカフェを始めました。住民の交流が深まり入居から1年後に自治会が結成されました。
(8)福島県南相馬市小高区の人口は大きく減少し、住民によるコミュニティづくりの活動が行われています。帰還した住民は一人で町に花壇づくりを始めました。また町には気軽に立ち寄れる店が一軒もないのでお茶が飲める店を開くと、みんなが交流する場所が生まれました。「おだかプラットフォーム」は住民や小高を訪れた人が自由に交流できるサロンを作りました。南相馬市は住民が気軽に集まれる交流拠点を小高区にオープンしました。このように住民が交流できる場の存在がコミュニティづくりの不可欠の条件です。
(9)福島県いわき市小名浜地区の下神白団地は原発避難者の復興公営住宅です。この団地の向かいには永崎団地があり、その住民はいわき市の沿岸部で津波に遭い家を流された人たちです。この二つの団地には交流がありませんでした。原発避難者に対する補償金と津波被災者に対する支援金は、補償金が数百万円~数千万円に対して、支援金は最高300万円という大きな差があり、それが心の溝を生んでいました。二つの自治会役員の雑談から交流が始まり、二つの団地の交流が広がり共同して秋祭りを行いました。
(10)福島県いわき市の復興公営住宅泉本谷団地には、浪江町、双葉町、富岡町、大熊町など異なる町の原発避難者2500人が移ってきたので、互いに知らなかった人たちの繋がりづくりが課題でした。この団地の中で孤独死が起きました。住民同士が顔を合わせて、知り合いになる機会を作るために、NPOの「コミュニティ交流員」が中心になり、集会所でカラオケ大会などが開かれ、住民が顔を合わせる機会が増えました。その後初めて自治会が主催するイベントが開かれました。
(11)宮城県南三陸町の長清水地区にいた仲間たちは、仮設住宅や各地で離れて暮らす人たちと、ツイッターで日常の出来事について頻繁にやり取りをしています。離れていてもお互いを身近に感じ心の繋がりが保てます。故郷の長清水地区では高台に集落ごと移転させる計画が進んでいます。町が行った住民説明会の内容や計画の進捗状況を、地元にいる仲間が事細かにツイッターで発信します。常に故郷の状況を把握できるため、各地にいる仲間が復興に向けた活動に参加しやすくなりました。SNSがコミュニティを維持する役割を果たしています。
(12)福島市郊外の北幹線第一仮設住宅に、震災と原発事故で全町避難をした浪江町の住民250人が暮らしている。福島大学の学生2人は、この仮設に住みこむことによって見えてくる、住民の寂しさや不安に何ができるのか考えています。仮設に住みながら大学に通う「いるだけ支援」です。イベントに参加して外で会える人だけが、仮設に住んでいるわけではない、と学生は認識しました。「いるだけ支援」を始めて三か月が過ぎると、住民にとって大学生の存在は欠かせないものになっていました。
(13)岩手県大槌町でNPO「カタリバ」は学習支援「マイプロジェクト」の活動を行っています。高校生が「地域のために何か新しい取り組みを始めたい」と提案して、当事者意識をもって地域の人と一緒に取り組む、子供の夢を形にするプロジェクトです。カタリバが震災後に立ち上げた「コラボスクール大槌学舎」でマイプロジェクトのミーティングが開かれます。このミーティングを出発点として、これまで高校生の13のアイデアが形になりました。
●「コミュニティづくり」の事例動画の詳しい内容とリンク
(1)仮設住宅や復興支援住宅にコミュニティをつくる:「被災住民のコミュニティ作りを支援する地域福祉コーディネーター」(2016年放送、以下同様)。震災から5年半後の宮城県石巻市。多くの人が復興支援住宅へ移り住んだが、まだ6000人以上が仮設住宅に住んでいる。「地域福祉コーディネーター」の谷さんは仮設住宅に通って住民とのコミュニケーションをとり続けてきた。仮設住宅の集会所で開かれた食事会。お年寄りたちの交流を活性化させようと定期的に実施。もともと保健士さんや行政主導で行われていた食事会だが、止めることになった時、まだ必要なこの会を自主的に続けるよう住民たちに継続を促した。住民の本音を聞き出すためには、何度も足を運び信頼関係を築くことが大事。復興住宅には友達がいないので、仮設住宅の住民たちはここから出るのが寂しい。バラバラの人たちがここで仲良くなった。石巻で地域福祉コーディネーターが誕生したのは、2013年にお年寄りの孤独死が社会問題になり、仮設住宅をめぐるさまざまな課題が浮かび上がった。地域福祉コーディネーター誕生の決め手はボランティアからの報告書。心に傷を負った子供のケアやお年寄りの話し相手など、その場限りの支援では解決できない課題が報告書に記されていた。被災者に寄り添いながら長期的に支援を続ける必要。その役割を担うのが地域福祉コーディネーター。住民の不安や困りごとを聞き取り、孤独死などを未然に防ぐ目的。現在13人が活動し平均年齢は30代前半。お年寄りにとって孫の世代。コーディネーターたちが話し合う。地域に出て悩んだりするが、みんなで話し合い相談して意見をもらうと、地域で活動する時に役立つ。石巻の復興を目指す関係団体にとって、地域福祉コーディネーターは団体の垣根を越えて問題の解決を促す、言わば橋渡し。生活弱者支援NPO、復興庁職員、高齢者生活協同組合、コミュニティ支援団体などのNPOの意見交換会にコーディネーターが出席して、自由な意見交換会が行われる。行政や支援団体を結び付けて、次々に住民の要望を実現させた。例えば健康相談を仮設住宅で行っても人が集まらないため、漁業協同組合の職場で健康相談会を開き、行政の保健士が出向いた。NPOと仮設住宅の自治会を結んで、住民も参加して子供の遊び場を作った。仮設住宅から復興支援住宅への転居が進み、新たなコミュニティづくりが求められている。コーディネーターたちは復興支援住宅で住民を孤立させない方法を考え続けている。住民と信頼関係を築きニーズを拾い続けている。
(2)福島から東京へ避難した人たちの繋がりづくり:「広域避難者のつながりをつくる」(2014年)。東京都中野区鷺宮の都営住宅には、福島からの避難者を中心におよそ100世帯250人を受け入れている。双葉町出身の谷さん。谷さんは震災後退職し、都営住宅に夫婦二人で暮らす。双葉町の自宅がいつも気がかりで、過去3年で12回通ってきた。自宅は長期間帰れない帰還困難区域に指定されている。さらに除染で出た放射性廃棄物などの中間貯蔵施設が作られる予定地に近い。まだ帰れないが「10年後に戻れます」と言われても、その時はもう高齢だ。しかし東京への移住も決断できない。移住してしまうと故郷との繋がりが切れてしまう不安がある。「あくまでも心では双葉は忘れない。住民票も移していない。双葉町を残しておかないと忘れられちゃう」。この都営住宅では福島からの避難者を中心に毎週交流サロンが開かれているが、参加するメンバーはいつも同じ人に限られてきた。孤立する人たちが心配。自治会長の関根さんはそんな人たちに声をかけ続けている。寄り添っていくにもそれぞれ事情があるので、どこまで相談相手になれるかと思う。「よりそいホットライン 被災者支援ダイヤル」は24時間体制で全国から悩み事の相談を受ける。福島から避難した人たちからの電話が後を絶たない。福島から来て近所づき合いがうまくいかない、原発被災者なので中傷を受けたなど、誰にも相談できない人たちがいる。繋がりのなさと孤立感が長期に亘った場合、自殺念慮や孤立死の問題が起きる。中野区の都営住宅では避難者と地域の繋がりを作る工夫をしている。例えば地域の芋ほりハイキング。谷さんはかまどの火おこしの役割。避難者も支援されるだけでなく、地域の一員として役割を担うようになっている。
(3)バラバラに暮らす避難者のために復興支援員を全国に配置:「広域避難者の心をつなぐ復興支援員」(2014年)。原発事故で全町民が避難生活を送る福島県浪江町。6000人以上が県外に避難し、全国45都道府県でバラバラに暮らしている。その支援のため浪江町は「復興支援員」を全国に28人配置している。埼玉では、埼玉県労働者福祉協議会の協力のもと復興支援員4人が活動している。浪江町役場から提供された名簿を頼りに1軒1軒訪ねる。復興支援員も浪江町出身の避難者。その一人石澤さんも埼玉で暮らす。「昔のことを考えると心の中に穴が開いている感じ」。浪江町のために自分にできることがあればと、支援員に応募した。埼玉県では定期的に避難者の交流会が開かれてきた。しかし参加する人が同じメンバーに限られてきている。戸別訪問を行い、孤立している人が多い地域で交流会を開く。浪江町出身者の支援員の訪問に会話が弾む。「ここは家が密集していても『こんにちは』という人もいない。寂しい」と避難者。「集まりをやりますから、ぜひ来てください」と石澤さん。さらに、いちはやく生活再建の道を開いた人の元も訪ねる。埼玉県でホウレンソウの栽培を始めた一家。土地を借りて、福島からの避難者と一緒に農業を始めていた。「初めて来てくれて嬉しい」。交流会の当日。浪江町出身の名人が手打ちうどんをふるまう。交流会には浪江町以外の人も参加している。大熊町、楢葉町、南相馬市など。「同じ避難した人だと話しやすい。誰にも話せなかった」。交流会の最後に支援員たちによる復興ソング。「家の中で寂しくしているより、良かったです」と参加者。
(4)分断されたコミュニティを交流で再び繋ぎ孤独を防ぐ:「コミュティーを再建して被災者のリハビリを支援」(2012年)。東日本大震災による死者・行方不明者数が市町村単位で最も多かった宮城県石巻市。石巻市では看護師が中心になって団体が活動。全国訪問ボランティアナースの会「キャンナス」。震災直後から石巻市の避難所に入り、看護活動や無償のリハビリ支援などを行ってきた。現在の主な活動地域は市の南東部の牡鹿半島。21か所の仮設住宅が点在。キャンナスは行政から委託を受け2つの事業。看護師が行う健康相談支援の事業と理学療法士/作業療法士が行うリハビリ支援の事業。キャンナスのメンバーで作業療法士の野津さん。野津さんは仮設住宅や一軒家にリハビリが必要な人はいないか訪問して調べている。この地域特有の課題がある。牡鹿半島の海岸沿いに繋がっていた地域コミュニティが震災で分断された。8世帯の仮設住宅を訪ねた。牡鹿半島では小規模の仮設住宅が多く移動が大変。車がないと食糧を確保するのも大変な状況。環境面で不利がある。震災前は近隣の浜の人たちとも交流があった。仮設住宅は浜ごとに海岸から離れて立っている。この8世帯は元の大きなコミュニティから孤立しており、他の浜の人たちと交流しにくくなった。「本当に寂しい」と住民。「小さな仮設には談話室など集まれる場所がない。今までの生活環境と異なるので、生活自体に戸惑いを感じている人が多い。声掛けをして外へ出るきっかけ作り、家にいる時間から抜け出して、ふっと息の抜ける時間を作れるように関わっている」。牡鹿半島月浦地区の被災を免れた在宅のお年寄りの家に、キャンナスのメンバーが迎えに来た。仮設住宅の人だけでなく、一軒家で周囲から孤立しがちな人たちにも外出の機会をつくっている。双方が交流できる場を設けることが、地域のコミュニティ再生のきっかけになる。地域の集会所で行う「お茶っこ飲み会」。リハビリ体操や看護師の健康相談。「集まれる場所があるのは最高だ、家にじっとしているよりも楽しみだ」。「お茶っこ飲み会」を通じて、みんなが集まれる場所の重要性を感じたキャンナスのメンバー。仮設住宅の談話室や集会所以外にも自由に過ごせる場を作った。それが「おらほの家」。地元の保健師やケアマネと相談しながら、いつでもお年寄りが来られる地域交流の拠点だ。月2回、地域の人たちに無料で開放する。キャンナスのメンバーが参加希望者を迎えに来る。牡鹿半島のあちこちから参加者が集まる。何をして過ごすかは自由。それぞれが思い思いの時間を半日過ごす。「地域のリハビリの意味は病院とはまた違う。参加や活動がキーワード。皆さんとコミュニティを一緒に作って行きたい」と作業療法士の野津さん。
(5)声掛けで孤独から救い、人々の繋がりを広げる田老地区:「地域のつながりで体も心も元気に」(2012年)。岩手県宮古市田老地区はかつて津波被害が多かったので、2.4kmの防潮堤を造り防災には力を入れていた。東日本大震災の津波はこの防潮堤を乗り越え1600世帯の四分の一近くが流された。その集落から車で10分ほどの高台にある総合リゾート施設の敷地に、田老地区400世帯の仮設住宅が建てられた。震災前に住んでいた田老地区の近隣同士がなるべく近くに住めるよう配慮されたので、地域のコミュニティが分断されなかった。この敷地内には田老地区の人々の健康をサポートするために「田老サポートセンター」がある。宮古市から委託を受けた社会福祉法人が運営をしている。血圧測定やマッサージができる。日中は住民に解放されていつでも話ができる。仮設住宅に住む単身者の声掛けや見守りも行っている。一人暮らしのお年寄りの家を一軒一軒回る。センターでは運動教室も行っている。運動不足にならないよう、みんなで集まる機会を作れば、閉じこもりを防ぐことに繋がる、との目的で始められた。週1回だったが住民の希望でほぼ毎日行っている。参加している佐藤さんは、自宅に閉じこもっているより外に出よう、との思いで来る。佐藤さんは去年6月から仮設住宅で暮らしている。不安がいまだにある。部屋から外に出るのが嫌だった。目眩がして、仮設にいればいるほど孤独になった。入居した当初、佐藤さんは仮設住宅に閉じこもるようになったが、昔からの仲間が佐藤さんを支えた。週に1、2回仲間に声をかけられてお茶を飲むようになった。震災前から佐藤さんの近所に住んでいた堀子さん。同じ被災者として佐藤さんの気もちを理解できる。堀子さんは佐藤さんを気遣い、声掛けするようになった。「本当一人じゃ生きていけない。みんながいるから生きていけるし、この地域の人間と人間の繋がりは大事です」と堀子さん。「声掛けすれば、私よりもっと苦しんでいる人がいると分かる」と佐藤さん。佐藤さんたちは「シルバーテニスの会」というサークルを立ち上げた。仮設の集会所で活動している。テニスコートの上に仮設が建ったのでつけた名前。メンバーは50代から80代の20名ほど。「仮設の狭いところでも、知っている方々がいるところは良いと思う」「手足を動かす良い機会だし、仲間と楽しく話をするので元気も出る。地域の小さい仲間は今、大きな輪になっている」と佐藤さんは言う。
(6)「みなし仮設」に移りバラバラになった住民の孤立を防ぐ:「みんなで描く地域の未来【1/3】孤立する被災者たち」(2019年)。岡山県倉敷市真備町は最近人口が増えていた。2018年の西日本豪雨で高梁川と小田川8か所の堤防が決壊。川の氾濫によって町の三分の一が浸水。水位は5.4メートルに達し町内の死者は51人。被災した住民は町の人口の6割で1万5千人。仮設住宅が完成したが数が足りず、多くの人は行政が民間のアパートを借り上げて提供するみなし仮設に住む。みなし仮設は倉敷市内や周辺の多くの自治体に及び、入居者は8000人。真備町の住民はバラバラになり、住み慣れた場所から離れ孤立している。被災者の片山さんは倉敷市のみなし仮設に一人で住む。水害で妻を亡くした。片山さんは水害から3か月後に心筋梗塞を起こし病院通い。近所に知り合いがなく一人で過ごす。「みんなバラバラでどうにもならない。みなさんとの絆がこれで切れたらやはり寂しい」と片山さん。真備町から倉敷市中心部に移った被災者の田中さんは、一家4人でみなし仮設に住む。真備町にある小学校と幼稚園まで車で40分の送り迎え。慣れ親しんだ学校から子供を引き離したくなかった。放課後は真備町内の塾や習い事教室に送迎。多い日には1日5時間運転する。みなし仮設に住む被災者の悩みをどうケアするか。倉敷市は社会福祉協議会と連携して「見守り連絡員」を臨時で雇用し、みなし仮設への個別訪問をする。困りごとが見つかれば相談にのり役所や保健所などに伝える。「誰にも相談できない状況の中で、孤立してしまう人が多いと思う」。みんなが集まれるスペースを真備町内の小学校の校庭に作った女性たち。支援者からの寄付でプレハブ住宅を作った。真備町内だけでなくみなし仮設からも人が集まってくる。足もみサロン、手芸、お茶の会など貴重な安らぎの場となる。隣には支援物資の倉庫。この拠点を作った団体の代表は槇原さん。槇原さんは人や物資が集まる場所を作りたい、と近所の友人などに声をかけ「川辺復興プロジェクト あるく」を立ち上げた。インターネットを使ってSNSのグループをつくり、その登録者は住民や支援者など550人。生活の困りごとを共有してみんなで解決したい。「この活動の場で繋がりが深まったり、広がったりするようにしたい」と槇原さん。
(7)ベンチやカフェで住民の交流をして自治会を結成:「みんなで創る新しい町【3/4】自治会作りは関係作りから」(2019年)。福島県いわき市にある復興公営住宅の県営下神白団地。原発事故で大熊町から避難した人300人が暮らしている。団地のコミュニティ活動の中心が集会所。週に二回住民たちが開いているカフェ。「みんなニコニコして楽しい。ここにいる人は俺の宝だよ」とカフェの参加者。カフェの運営は自治会が担う。自治会主催の七夕祭りについて話し合う。今は活気に満ちているが4年前の入居当初は全く違っていた。自治会役員の佐山さんによれば、最初は集めようといっても全然ダメで、なかなか集まらない。「自治会に入らない人はいっぱいいただろう」。佐山さんが自治会づくりに拘ったのは理由があった。入居者に高齢の一人暮らしが多く、孤立が心配だった。そこで相談したのはNPO「みんぷく」。みんぷくは復興公営住宅の自治会づくりの支援をしていた。「あいさつから始まって、顔が見える関係で、いろんなコミュニケーションの場を作るのが一番いいと思う」と言われて、田山さんが最初に取り組んだのがベンチづくり。製材所から木材を譲り受け、もと大工の住民が中心になって作った。女性は集まるが、男性はなかなか集まりに出てこないので、ベンチを作るので協力してくれ、とお触れを出した。作っているうちに、お茶のみが始まって交流の場になった。ベンチは全部で14脚作り、団地内のさまざまな場所に置かれて、住民たちの交流の場になっている。「普通一人でいるからみんなで集まったら話ができる。ベンチがここにあるから助かる」と団地の住人。さらに交流を進めるために始めたのが人気のカフェ。多くの住民の参加を促すための工夫がある。コーヒーカップを住民たちに持ち寄ってもらった。自分のカップがあるので集会所に来やすい。交流が深まり入居から1年後には、自治会が結成された。手芸、カラオケ、太鼓のサークルができた。「やっぱり人と人の繋がりだ。自分一人でやろうといっても何もできないが、2人3人集まれば何かできる。それで人の輪が広がっていく」と佐山さんは言う。
(8)住民が激減した町で、住民と町を訪れる人の交流の場を創る:「みんなで創る新しい町【2/4】ひとりから始めるまちづくり」(2019年)。福島県南相馬市小高区の人口は事故前の13000人から3600人に減少し、町には家が取り壊された空き地が目立つ。住民によるまちづくりの活動が行われている。駅前の花壇に花を植えている。いち早く帰還した小林さんは最初一人で花壇づくりを始めた。人気のないまちに一人で花を植え続けるうちに、自分も花を植えたい、という住民が少しずつ増えていった。今では市から苗の提供を受けて、地域全体の取り組みになった。「みんなでやるこれがまちづくりではないかと思う」と小林さん。小林さんは駅前で旅館を営む。帰還した小林さんは旅館を再開して、帰還の準備をする住民やボランティアと交流を深めた。そのころ気づいたのは、町には気軽に立ち寄れる店が一軒もないこと。旅館の隣の倉庫を改修して、お茶が飲めてお土産も買える店を開いた。店に置いたのは、当時仮設住宅に暮らしていた人たちが手作りしたアクセサリーなどの小物。店ができたことで地域にみんなが立ち寄れる場所が生まれた。「ここで何かやりたいという人と繋がることで、コミュニティが広がっていく」と小林さん。小林さんの近所には住民の交流拠点も作られた。「おだかプラットフォーム」は避難指示解除の前から活動を続けてきた。「おだかプラットフォーム」は住民や小高を訪れた人が自由に利用できるサロンを作った。この拠点を作ったのは廣幡さん。住む人がいなくなった町で、訪れた住民やボランティアが出会い、交流できる場が欲しい、と廣幡さんが空き店舗を利用して作った。「なんで『おだかプラットフォーム』を作りたかったかというと、自分が寂しかったからだと思う。自分の知っている誰かに会いたかったし、いちばん最初の原動力は自分を元気づけることだと思う」と廣幡さん。2019年に南相馬市は住民が気軽に集まることができる交流拠点を小高区にオープンした。開設に当たって南相馬市はどんな場を作って欲しいか、住民の希望を聞くワークショップを開いた。子育てサロン、トレーニングルーム、体操ができる部屋も設けられている。ここで開かれるマルシェに小林さんが品物を持ってきた。地域の人たちが手作りで作った小物。マルシェの主役は地元産の新鮮な野菜。近くにスーパーが無いので、この野菜が地域の食卓を支える。すべての野菜には放射能の測定結果が示されている。今まですべてが検出限界値以下だった。
(9)原発避難者の団地と津波被災者の団地の新たな交流:「復興住宅を新たなふるさとに【3/3】周辺の地域とも交流づくり」(2019年)。福岡県いわき市の小名浜地区にある県営下神白団地は復興公営住宅。震災前に浪江町、富岡町、双葉町、大熊町にいた原発避難者が暮らしている。この団地でも集会所が交流の場になっている。集会所のカフェの特徴は周辺の住宅地に住む、地元いわきの人たちも参加していること。近隣住民はここにきて話をしているとお友達になる。この交流が生まれたきっかけは3年前のこと。原発から避難してきた人たちの県営下神白団地の向かいには、もともといわき市に暮らしていた人の市営永崎団地がある。この永崎団地で暮らしているのは、いわき市の沿岸部で津波に遭い家を流された人たち。この二つの団地の間にはまったく交流がなかった。永崎団地の自治会長の藁谷さんも、当時は付き合いも会話もなかった。下神白団地は他所の人という感じがあった。下神白団地の自治会役員佐山さんは、自分の団地をどうやってまとめるかが大変だった。市営団地の方を見る余裕がなかった。観光バスが出入りすると、下神白団地の人たちは補償をいっぱいもらっているから、観光バスでどこかへ行くのか、と永崎団地の人は見ていた。原発避難者に対する補償金と津波被災者に対する支援金は、補償金が数百万円~数千万円に対して、支援金が最高300万円という大きな差がある。これが心の溝を生んでいた。下神白団地を訪れた人から、隣り合っているのに永崎団地とまったく交流がないのはおかしい、と佐山さんは言われた。「一緒にいろんなことをやった方がいい」と支援者から言われて、佐山さんははっと思った。二つの団地が秋祭りを一緒にしたらどうかと考えて、佐山さんは永崎団地の藁谷さんを訪ねた。二人の雑談から親近感が生まれ転機が起きた。二つの団地が共同して秋祭りが行われた。近隣の住宅地からも住民が集まり、交流の輪が広がった。佐山さんと藁谷さんの話し合いから、憶測に基づく誤解やわだかまりが無くなった。藁谷さんは下神白団地のカフェに来るようになった。「イベントが無くてもコーヒーを飲みに来られるのが、本当の交流だ」と藁谷さん。下神白団地の庭で永崎団地の子供が遊ぶようになった。
(10)住民同士が知り合い自治会主催でイベントを開催:「復興住宅をあらたなふるさとに【1/3】つながりを作り孤独死を防ぐ」(2019年)。福島第一原発から南へ50㎞の福島県いわき市には、原発事故の影響で故郷から避難したおよそ2500人が暮らしている。2018年春に完成した県営復興公営住宅の泉本谷団地には、浪江町、双葉町、富岡町、大熊町など異なる町で暮らしていた人100世帯が入居している。これまで互いに知らなかった人たちの繋がりづくりが課題。「どこに誰がいるのかよく分からない」「俺の両隣は誰かが入居してカーテンが入っているが、いつ部屋に来て帰っているのか分からない」と住民。自治会長の伊藤さんは、住民同士が知り合う機会を以前から何度ももとうとしたが、人はあまり集まらなかった。「知らない人ばっかり、一番の問題だ。一人で住んでいるのか、二人以上で住んでいるのか分からない」。この団地の中でも孤独死が起きた。一人暮らしの男性が住む部屋は、夜になっても明かりが点かず、エアコンの室外機も止まったまま。3日くらい電気がついてない異変を感じて、開けてもらったら事故が起きていた。「大事なのは安否確認か」。2019年に入って、孤独死を無くすための活動が本格的に始まった。団地の自治会は、住民同士が顔を合わせて、知り合いになる機会をどう作るか議論を始めた。「回覧板を回しても全然回らない」。団地の集会所の有効活用に注目した。団地の住民が気軽に集える場にしたい。住民たちの自治会活動を支援したのは、福島県の委託を受けたNPO「みんぷく」の「コミュニティ交流員」。みんぷくが中心になり、手芸の会やカラオケ大会などが開かれ、住民同士が顔を合わせる機会が増えた。2019年2月に団地の自治会活動は大きな転機。初めて自治会が主催するイベント「定期清掃&あったか鍋会」が開かれることになる。住民が集まり親睦を深める会。これまでのイベントはみんぷくが主催したが、今回は運営を自治会に任せた。団地だけで行えるような体制づくりを始めていきたいから。自治会長の伊藤さんが司会をすることになる。50人分の食事を用意する。料理の道具も住民が用意した。ゲストとして地元の湯本高校のフラダンス部の生徒たちが招かれた。いつもは日中ひっそりしている団地が華やかな雰囲気に包まれた。高校生たちも鍋会の食卓を囲む。住民同士の会話も弾む。「何となく涙がでた。こんなこと8年前は想像もしていなかった」と住民は言う。
(11)故郷から離れていても町の復興への思いを仲間とSNSで共有する:「ツイッターを災害復興の支えに」(2012年)。 宮城県登米市の仮設住宅で暮らす南三陸町出身の遠藤さん夫妻。かつて同じ集落で暮らしていた仲間たちのツイッターで、日常の些細な出来事について頻繁にやり取りをしている。塩釜市の仲間からもツイート。震災後に始めたツイッターに同じ地区出身の36人が登録している。離れていてもこうしてやり取りをすることでお互いを身近に感じ、心の繋がりが保てるという。「仲間が見えてなくても、こういうことをしていると思うと楽しくなる」と遠藤さん。ツイッターは故郷の復興の状況を把握するためにも、大いに役立っているという。遠藤さんのグループの阿部さんは仙台市内で働いている。「昼休みの一服中にみんなと100件くらいツイートしている」。みんなの書き込みを見れば、故郷がどれくらい復興したか、仲間の仕事がどこまで再開できたか、手に取るように分かる。「いずれは地元に戻るが、地元でああいう画像を載せてくれるとワクワクする」と阿部さん。常に故郷の状況を把握できるため、自らも復興に向けた活動に参加しやすくなる。阿部さんたちが暮らしていた南三陸町の長清水地区で進められているのは、集落ごと近くの高台に移転させる計画。かつて36軒あった住居の大半が流されてしまった。地区のリーダーの須藤さんは、近隣の店舗で美容師の仕事を続けている。より良いまちづくりのためには、地域のみんなで情報を共有し、活発な議論を行う必要があると考えている。「長清水契約講」のツイッター記事に、町が行った住民説明会の内容や、計画の進捗状況を事細かに発信する。「今回は集落の移転なので、家の誰か代表者だけの考えだけではなく、子供たちも計画に参加してもいいのではないかと思う」。須藤さんたちの情報発信は思いがけない支援に繋がった。被災地で活動を続ける宮城大学の学生がツイッターの情報から、新しい町をイメージして模型を作ってくれた。住民たちが町の立体的な姿を見ることで、議論が進むのではないかと考えた。住民たちは模型を前に語り合うことで、住みたい町の形を初めて具体的に考えることができた。住民同士の繋がりを保ち日常的に話し合うことで、納得できるまちづくりをしたい。住民たちの思いをソーシャルメディアが支えている。
(12)仮設住宅に同居する学生の「いるだけ支援」で住民の思いが見えてくる:「学生ボランティアが世代をつなぐ」(2015年)。福島市郊外にある「北幹線第一仮設住宅」に、震災と原発事故の影響で全町避難を余儀なくされた、浪江町の住民250人あまりが暮らしている。6月下旬二人の大学生が仮設に暮らし始めた。福島大学4年生の佐藤さんは地元出身で、これまで熱心にボランティア活動を続けてきた。隣に住む3年生の高橋さんは進学で福島に来て、ボランティア活動に興味をもつ。二人はここから大学に通う。「いるだけ支援」は仮設に住みこむことで見えてくる、住民の細やかなニーズに応えようとする。金井春子さんは夫の一重さんと仮設に二人暮らし。以前から心臓に持病があった夫は、震災後に癌を患い、薬が手放せない。最近は仮設住宅にこもりがち。「男の人はあまり外にいかないので家にこもる。人との接点が無くなってくると、今度は病気負けしてダメになる」と春子さん。仮設住宅でも災害公営住宅に引っ越す人が増え、空き部屋が目立つようになった。「嫌だな、みんな行っちゃうと誰もいなくなる。早く引っ越したいと思っても、越せない。だんだん寂しくなる」と金井さん。住むことで見えてきた、住民の寂しさや不安に対して何ができるのか、佐藤さんは悩む。「いつも外のイベントに参加している人だけが、ここに住んでいるわけではないと改めて感じた。住んでみないと分からなかった」と佐藤さん。高橋さんは花札を買ってきた。一重さんは花札が好きだと聞き、元気を出してもらいたいと買ってきた。同じ時を一緒に過ごすことで、住民一人ひとりの思いが分かってきた。「いるだけ支援」を始めて三か月、大学生の存在は欠かせないものになっていた。学生二人が出かけている間、金井さん夫婦は落ち着かない。「たった3、4日いなくても、うんと居ないように感じる」。「『金井さん』と言われるだけで、一日憂鬱だと思っていても、声をかけられれば、おーっとなる」と一重さん。9月下旬、佐藤さんと高橋さんの3か月間の「いるだけ支援」が終わり、次に暮らす学生2人を住民に紹介する。この取り組みは後輩たちが引き継ぎ、今後も続けられる予定です。
(13)地域のために貢献したい子供たちの気持ちを形にする:「高校生の思いを具体的な形に」(2016年)。岩手県大槌町で「NPOカタリバ」代表の今村久美さんは、学習支援「マイプロジェクト」の活動を行っている。マイプロジェクトの具体例があるのは、町の一角にある海岸から500メートル離れた海抜12メートルの場所。5年前の大津波がここまで到達したことを示す碑には「大きな地震が来たら戻らず高台へ」とある。地震が来た時、素早い非難を呼びかける碑。普通の石の碑と違って、敢えて木で作ってある。腐ってしまう木材を使うことによって、これを建て替えるという文化をコミュニティに残せば、地域の人がみんなで覚えることができる。4年ごとに建て替えることで、防災意識の風化を防ごうというマイプロジェクト。考えたのは当時高校1年生の吉田さん。建設会社や地域の人にプレゼンして回り実現した。中学3年生の子たちが高校生になった時に「何か自分たちもやりたい」と言って、地域の中で何か提案して新しい取り組みをするマイプロジェクトが始まった。自分が当事者意識をもって、地域の人と一緒に取り組むプロジェクトを高校生が作りたいとスタートした。地域のために何かしたい、という子供たちの気持ちを形にするべく、久美さんはマイプロジェクトと名付けて応援している。新しいマイプロジェクトが生まれるところを紹介するために、久美さんが震災後に立ち上げた学習支援の場「コラボスクール大槌学舎」を訪問。小学生から高校生までおよそ200人が放課後に通ってくる。町や企業の支援を受けて、英語と数学の授業が行われている。ここで月2回マイプロジェクトのミーティングが開かれる。高校生の参加は自由。地域のために何かしたいという考えがあれば大歓迎。やる気を出し、夢を形にするミーティングのルールを紹介。第1に、この場は何を言っても安全な場所である。「他人をバカにしない」。第2に、「傍観者にならない。知恵を出し合う」。ミーティングを開始。この場が終わった時に、次の一歩を具体的にできる状態を目指す。この日にアイデアを発表するのは釜石高校2年の藤沢さん。「東日本大震災で被災した時に、支援に来てくれた方々に恩返しをする、という意味で『大槌まつり』を伝えたい」という藤沢さんのマイプロジェクト。「大好きなまつりの良さを多くの人に伝えたいが、何から始めたら良いか分からない」と藤沢さん。「どんなまつりなのか?」「伝えるのは町の外の人?」「まつりに参加する気持ち良さか、まつりを見ていて良いのか、何を伝えたい?」と藤沢さんに質問。「出来たら参加する楽しさを伝えたい」と藤沢さん。「でも親は参加していないし、ツテが無いから参加できない人がいる」と意見。漫然とした藤沢さんの気持ちを形にする方向が見えてきた。「お祭りに参加したい人と、お祭りに参加して欲しい団体を繋ぐ、という新しいことができそうだと思う」と久美さん。「やりたいことができたので頑張りたい」と藤沢さん。このミーティングを出発点として、これまで高校生の13のアイデアが形になっている。大槌高校3年生の前川さんが考えたのは、避難活動をスムーズにする「安否札」のアイデア。災害が起きた時、玄関にぶら下げ、家に誰もいないことを知らせる。安否確認に回る人の負担を減らす目的。町に人を呼ぶためにイベントを企画したのは大槌高校2年生の菊池さん。津波で流されて町が真っ暗になったことを逆手に取り「天体観測ツアー」のイベント。ツアーの参加者は「生きていて良かったと思うくらいキレイ」。社会と繋がることで高校生たちはやる気を出している。
B. 集団移転
事例動画(14)から(18)は二つのタイプの集団移転に関する事例です。動画事例の全体を通して「集団移転」に共通しているのは何でしょうか。(15)と(16)の事例は厳密な意味で集団移転ですが、それ以外の事例も広い意味で集団移転に似ていると思います。第1に、共通するのは人と人の繋がりです。災害の前に同郷の仲間だったり、施設に一緒に住んでいたりしていた、移転する人びとの人間関係が集団移転の動機になっています。第2に、移転する人びとと移転する先の地域の結びつきも集団移転の動機です。第3に、移転する人びとの合意形成を大切にしたことも、集団移転の大事な要素であったと思います。以下に動画事例の要点を簡潔に述べます。それぞれの動画事例の詳しい内容とリンクは以下の●印の項目の見出しで紹介します。各事例動画はインターネットのリンクで視聴時間5~10分間程度です。
(14)宮城県女川町竹浦地区の人々に対して、内陸に移転するプランが示された。竹浦地区の仮設住宅に住む男性は住民の気持ちを反映したいと行動を起こしました。新潟中越地震で自ら集団移転を実現した小地谷市十二平集落の人々を訪ね、移転先でも集落の結びつきを守る工夫をしたことを男性は学びました。そして納得のいく復興計画を実現したいと、竹浦の高台に集団移転するプランを独自に皆で立案しました。
(15)宮城県岩沼市の人たちは震災直後、市内29か所の避難所にバラバラに逃れたが、市は震災4日後、集落ごとに同じ避難所に集まるよう指示しました。3か月後に集団移転の話が行政から打診された時、住民たちは仲良く集落ごとに暮らしてきたのだから、仮設にいる人たちはまとまって集団移転することにしました。400戸の仮設住宅の住民たちが合意形成をして、集団移転計画づくりに参加して、かつての故郷の記憶を留める新しい町の計画が出来上がりました。
(16)岡山県真備町の高齢者施設の代表津田さんはデイサービスや訪問介護を行っていましたが、平屋だった施設は2018年7月の西日本豪雨によって水没した。自宅を無くし行き場を失った5人の高齢者が公民館で避難生活を続けました。5人の高齢者が再び真備町で一緒に暮らせるように、共同住宅を建てることを津田さんは目標にしています。真備町で浸水被害に遭い空き家になっていた施設をリフォームして、みんなで一緒に住むために公民館から引っ越しました。
(17)話は先の(16)の続きです。被災直後から共同生活を続けてきた5人の高齢者たちは、一人になれない施設での生活を我慢していました。倉敷市内に住む娘家族のもとに身を寄せている夫婦も、津田さんの共同住宅の構想に関心を寄せています。津田さんはそれぞれの人が望む暮らしを実現したいと、共同住宅のデザインを構想しています。人間関係があるので真備に戻りたい。だから周りのみんなが帰ってくれないと、その人が望んでいる真備ではない。だからみんなで帰ってこられることを津田さんは諦めません。
(18)東日本大震災の津波で障がい者たちが住んでいた陸前高田市のグループホームが流されてしまいました。避難生活を始めて1か月後、今後どのような生活をしたいか、世話をしている高橋さんは21人全員の意思を確認しました。障がい者施設「ひかみの園」からグループホームへ移って、ホームの生活の方が良かったので、もう一度グループホームを再建できたら、地域住民と交流できる暮らしを取り戻したいとみんなが希望しました。
●「集団移転」の動画事例の詳しい内容とインターネットのリンク
(14)移転する予定の女川町の住民が集団移転をした中越地震の人々に学ぶ:「集団移転先で地域のつながりを取り戻す」(2015年)。宮城県女川町竹浦地区の仮設住宅。竹浦の人々は今30か所以上に別れて暮らしている。仙台市で看護師として働くひろ子さんは、月に2度家族の住む仮設住宅を訪れる。ひろ子さんの母と父と祖母が住んでいる。震災後、竹浦には内陸に移転するプランが示された。もっと住民の気持ちをプランに反映したい、とひろ子さんの父親は新潟へ視察に向かった。訪ねたのは中越地震の被災後、自ら集団移転を実現した十二平集落の人々。どのように集団移転を進めたか、移転先の人の家に泊めてもらい、一晩中話をした。「行って話した時、分かってくれた」と父。自分から行動を起こせば、納得のいく復興計画は実現できる。竹浦の高台に集団移転するプランを独自に立案し、故郷の再建に踏み出した。「新潟への視察は無駄ではなかった。いま生きている。家はまだ建たないけれど希望がある」「新潟の人々は大変なのを乗り越えて、今を過ごす大先輩たち」。新潟県小千谷市では新潟地震の際に、人口の7割が避難を余儀なくされた。十二平集落は12km離れた山の麓に集団移転をした。竹浦で新聞を作る鈴木ひろ子さん。集団移転に向け集落の繋がりを保つヒントを得たい、と新潟を訪ねてきた。十二平集落の集団移転を取りまとめた鈴木俊郎さんが移転する際に気を配ったのは新しい家の配置。人通りの多い道に高齢者の世帯を置き、若い世代が通勤通学の時に様子を見られるようにした。移転先でも集落の結びつきを守る工夫をした。地震直後から、山深い十二平を出るか残るか、仮設住宅で話し合いが重ねられた。最も大切にしたのは人と人の繋がり。全員で山を下り、第二の故郷を作ることを決めた。「みんなが別々の場所に住むよりは、同じ土地を買ってそこへ家を並べるのが良い。今まで一緒に仲良く住んでいた人たちがバラバラになって、隣は知らない人では集団移転の価値がないと思う」と鈴木俊郎さん。移転から8年目、十二平の人々は山里での暮らしを今も守り続けている。移転先でも山で日課だった野菜作りができると、家の傍に集落の人たちで畑を借りた。地震前に農業と並ぶ産業だった錦鯉の養殖もしている。元の生産量を目指して増やしている。海外からも錦鯉の買い付けにやって来る。移転先から車で30分のかつて暮らした十二平は、危険区域に指定されて住めないが、住民はこの土地から遠ざかったわけではない。移転後にみんなで相談してアサガオを植えた。地震で家を失った夫婦は屋敷跡に庭をつくり、一日おきに通って、庭に季節の花を咲かせている。「生まれ育った土地だから、来て動いて汗を流して帰れば、それですっきりする」と夫婦は言う。住民たちは年に2度、全世帯が十二平に集まる日をつくった。集落の中心に、春には再びアサガオの苗をみんなで植える。みんなでアサガオを咲かせるのは、移転先では少なくなった共同作業を守る決意の証だ。
(15)かつての集落の住民が新しい町を共に構想して移転:「住民が議論を重ねて集団移転・まちづくり」(2014年)。宮城県岩沼市の中心部にある仮設住宅。400戸近くの仮設の住民たちが集団移転の主人公。ここに暮らしているのは津波の前まで、岩沼市の沿岸部の集落に住んでいた人たち。およそ1700人の住民のうち118人が津波で命を落とした。「もう家も全部、すべて流されました。家族も流された。今まで一緒にいた人たちと共に暮らしたい。それだけです」。仙台空港の南に広がる岩沼市玉浦地区。震災前には6つの集落が点在していた。多くは水田で米づくりをしていた兼業農家。3年前の津波は集落と田畑のすべてを飲み込んだ。岩沼市の面積の半分が浸水した。集落の区長の一人小林さん。あの日、避難を呼びかけて回っているうちに、津波がきて小林さんは流された。「その時、俺はここで死ぬと思った」。命を救ったのは、偶然泳ぎ着いた建物にあった座布団だった。津波で家を失った住民たちの多くは、避難所に身を寄せて、その後仮設住宅に移った。集団移転の話を行政から打診されたのは、津波から3か月後の2011年6月のこと。国の集団移転事業の仕組みは次の通り。移転の対象は元の住宅があった地域が危険と認定された人たち。その5戸以上が一緒に移転することが条件。自治体が元の住居の土地を買い上げ、それが住民の自宅再建の資金になる。移転先は住民の合意を得て自治体が決定。国の補助金を受け自治体が造成し、住民に売却あるいは借地として貸し出す。そこに集団で移転して家を建てる。持ち家を望まない人たちには、自治体が災害公営住宅を建設する。岩沼では海から3km先の内陸の農地が移転用地として示された。津波で40cm浸水した地域だが、2mかさ上げして宅地にする。「今まで仲良く集落ごとに暮らしてきたのだから、仮設にいる人たちがまとまって行くことになった」と小林さん。集団移転を希望した人の半分が災害公営住宅、3割が土地を借り、1割が分譲を選んで家を建てると決めた。津波で家も財産も失い、厳しい生活の中でローンを抱えての再出発。2011年の秋、玉浦公民館に仮設住宅の住人たち50人が集まった。移転先にどんなまちを造るのか、住民たちが話し合い、自治体とも合意しなければならない。市は先ず住民同士で話し合う場を設けた。まちづくりの専門家で岩沼市出身の東京大学教授の石川幹子さんも参加する。みんなで移転先の周辺を歩いて回る。イグネと呼ばれる防風林がある。故郷の景観を作り上げてきたイグネ。歩き終えて再び公民館に集まりまちづくりの話し合い。白地図を前にどんなまちにしたいか自由に意見を出し合う。この話し合いのルールが石川さんから示される。第1に思ったことを自由に発言する。第2に人の意見を非難しない。これは誰もが本音で話せるようにするため。「支離滅裂なりに何でもよい。先ず考えを出す。出さない限り見えない」と石川さん。このやり方は他の集団移転とは大きく異なるものだった。多くの地域では自治体がまちづくりの青写真を作り、住民に意見を求める。一方、岩沼では白紙からスタートした。しかも自治体は最初話し合いにも加わらず、住民同士の議論に委ねた。石川さんがサポートする話し合いはその後も回を重ねた。自由に話し合った後、グループごとにテーマとなるキーワードにまとめて発表する。キーワードに共通するものはないか、石川さんが議論を深めていく。何を大事にしてまちをつくるか、テーマが絞られてきた。イグネなど故郷の自然を蘇らせたい、新しい町でも地域のコミュニティを大切にしたいという意見。浮かび上がってきた意見は、どれもかつての集落の良さを残したい。2012年1月、出てきたキーワードをもとに、具体的なまちのデザインを考える。これまでにない多くの参加者が集まった。話し合いの評判が広まり、興味を持つ人が増えてきた。6つの集落ごとに色分けされている。家や道路の配置を考える。市の幹部も見守る。石川さんが住民の意見を具体的な形にする。かつての故郷を思わせる新しいまちのイメージが出来上がる。集団移転が打診されて7か月、異例の速さで岩沼市はここまでたどり着いた。それには理由がある。それは震災直後の行政の対応だった。人々は市内29か所の避難所にバラバラに逃れた。市は震災4日後、集落ごとに同じ避難所に集まるよう指示した。当時の市長の井口経明さんがそれを主導した。井口さんは阪神淡路大震災に関わった経験があった。「知っている人が身近にいることは非常に心強い。コミュニティ単位で助け合い励まし合う。語り合うことは非常に良い」と井口氏。市の指示で同じ避難所に集まった人たちは、その後、仮設住宅にも一緒に入居することになった。こうしてコミュニティの団結力が保たれたことが、移転場所の決定やまちづくりに当たっても、住民合意の力になった。2012年6月、岩沼市の集団移転事業は新たな段階に入った。市がまちづくり検討委員会を設置。各集落から3人ずつ代表が集まり、住民と市が初めて同じテーブルに着いて話し合う。石川さんなど専門家も加わった。毎回テーマを決めて計画を詰めていく。議論してきた住民たちはすでに自分の意見を持っていた。例えば、市は直線の道路を想定していたが、住民たちは住んでいた昔のイメージに反する、と違和感を訴えた。昔の集落は曲線が多かった。市はかつての集落のような曲線の道路を受け入れた。さらに災害公営住宅が道路に囲まれた一か所に固まると、入居するお年寄りがその外から分断され、孤立してしまうと住民の意見。市の担当者は住民の意見を受け再検討。災害公営住宅と周りの住民が接しやすいように配置を変更した。第9回検討会で市は議論の成果を一つの模型にしていた。かつての記憶を留める新しい町が出来上がった。2012年8月に工事が開始した。集団移転事業の中では最も早く、岩沼市はトップランナーになった。
(16)豪雨で自宅を無くした高齢の施設利用者が住む場所を探す:「被災高齢者の終の棲家を故郷につくる【1/2】」(2019年)。岡山県真備町の高齢者施設「ぶどうの家 真備」の代表津田さんは、自宅で最後まで暮らしたい高齢者の願いに応え、デイサービスや訪問介護を行い、一人ひとりの生活を支えてきた。平屋だった施設は2018年7月の西日本豪雨によって水没した。間借りした公民館には、自宅を無くし行き場を失った5人の高齢者がいた。親戚や家族の元に身を寄せることができず、ここで避難生活を続けていた。この先どうやって高齢者を支えて行くのか。津田さんの案は、自宅を失った高齢者が再び真備町で暮らせるような、共同住宅を建てること。「災害に強いアパートをみんなで建てて、みんなで助け合って生活をするのが良いのではないか。今まで住んできた真備に帰ってきて、今まで培ってきた関係性がある真備が大事。今はアパートができたらいいなと思うだけだが」と津田さん。豪雨から3か月がたった2018年10月下旬に公民館を出る。台所や風呂のない所から、環境のいい場所に移ることにした。「公民館はやはり自分たちの居場所ではない、という気持ちが大きかった。これからは一人ひとりがどこにいたいのか、一人ひとりの居場所を考えて、作っていきたいと思う」と津田さん。介護に適した建物はほとんど残っていなかったが、行く先は真備町に拘った。見つけたのは浸水被害に遭い、空き家になっていた施設。民間の助成金を申請してリフォームをして環境を整えた。みんなで一緒に住むために引っ越してきた。
(17)戸建てを再建できない人たちが住み慣れた町に共同住宅:「被災高齢者の終の棲家を故郷につくる【2/2】」(2019年)。被災直後から共同生活を続けてきた5人の高齢者たち。「一人になれる生活がないのは楽ではない」と片岡さん(81歳)は言う。片岡さんは、被災前は息子と暮らしていたが、真備町で二人が暮らせる住宅は見つからなかった。息子は町の外に移り、片岡さんはここで介護を受ける。「我慢せにゃいけん。一人だったらこんな生活は嫌だと思っていたが、もうみんなと生活せにゃいけん。これで良いのだと思っている」と片岡さん。空き地になった元の自宅の跡地に立ち寄る。真備町の中心地だった商店街に嫁に来て62年を過ごした。家が隣同士で姉妹のように仲が良かった石田さんを訪ねる。自宅を失った高齢者の多くが真備町の外で暮らす。津田さんは高齢者施設「ぶどうの家」で介護してきたそんな高齢者の一人を訪ねる。車で30分の「みなし仮設住宅」で訪問介護を続けている。真備に帰りたいと願う高齢者宅。真備との繋がりを失わないよう津田さんは通い続ける。高齢者が再び真備町で暮らせるように、津田さんは共同住宅の構想を進めようとしている。専門家を招いて具体的な設計について話し合う。2階と3階を居住スペースにして、1階を共有スペースにして水害に強いアパートを作る構想。「後で返せない借金を抱えこまないようにするべき。この住宅のそもそもの発想は、いま真備に帰ってきたい、真備に住みたい、でも新たに一軒屋を建てるだけの余裕やローンを組めない、だけどみんなで建てたら可能性が広がるかな、真備に住み続けられるかも」。中本さんは共同住宅の構想に関心がある。被災前から重い認知症の妻きぬよさんを抱えて、施設「ぶどうの家」を利用してきた。中本さんの自宅は二階まで浸水して、リフォームできる状態ではなく、解体を決めた。今は倉敷市内に住む娘家族のもとに身を寄せている。妻と40年以上を過ごした真備町が頭から離れない。真備に共同住宅ができて、今まで通り生活ができたら良い。津田さんは一緒に生活している5人も共同住宅に入れるよう考えている。「一軒家の我が家ではないけど、みんなで見守られる」と思う。それぞれの人が望む暮らしを実現したいと、共同住宅のデザインを構想している。みんなで片岡さんの家の近くにある神社に初詣に向かう。神社で片岡さんの近所に住んでいた石田さんと会えた。「歳を取って新しい関係を作るのはしんどい。なぜ真備が良いかというと、自分自身が若いころから脈々と築いてきた関係がこの土地にはある。だれか一人が帰っても、周りのみんなが帰ってくれないと、その人が望んでいる真備ではない。だからみんなで帰ってこられたら良いと思う。私は諦めないで思い続けていく」と津田さん。
(18)障がい者施設よりもグループホームで地域の人びとと交流できる生活を:「地域生活への復帰を願う被災障害者たち」(2011年)。東日本大震災の津波で障がい者たちが住んでいた町の中心部のグループホームが流されてしまいました。避難生活を始めて1か月。高橋さんは今後どのような生活をしたいか、21人全員の意思を確認することにした。みんな「ひかみの園」の施設からホームへ移って、そのホームの方が良かった。今までのホームでの生活は楽しかった。「障がい者施設は職員さんがいっぱいいて、お世話してくれるから不自由はない。でも残念ながら自由はない。なぜかと言うとあなたたちの安全を守らなければならないから。ホームでは職員は少ないけど、あなたたちの希望を叶えられるような生活ができた」。「みんな障がい者施設に住みたくないので、グループホームがまたできたらそちらに住みたいですか?」高橋さんの問いに、みんな同意した。もう一度グループホームが再建できたら、そこで地域での暮らしを取り戻したい、との結論にみんなが合意した。高橋さんはグループホームとして住める空き家を探したが見つからず、ひとまず仮設住宅に応募することにした。しかし仮設住宅は抽選で決められるため、21人が別々の場所に割り振られる心配があった。どこか一か所に固まって住めるところがあれば、高橋さんは21人の支援をすることが可能。市の担当者から知らせが届く。全員が一か所に固まって生活できる場所が見つかった。被害が大きかった市街地に辛うじて残った雇用促進住宅。空いている部屋を被災した人たちに提供できることになった。住宅を6戸借りて21人のメンバーが共同生活を送る。一人一部屋ではないが、避難先の施設を出てここに身を寄せることにした。しかし慣れない避難生活が長引く中で、今まで抑えてきた不満や疲れを隠せなくなっていた。同じ部屋で過ごすと、相性が良くなかったりして行き場がなくなってしまう。津波で流されたこの住宅周辺の環境には、買い物をしたり気晴らしをしたりする場所もない。唯一、外の人と触れ合う機会は、二週間に一度、隣町のショッピングセンタ-へ買い出しに行く時だけ。地域の人との交流が途絶え、孤立する不安を感じ始めていた。「家があって近所の人と話したりしたい。歩いて近いと行きたいと思う。ここはできない」とメンバーの一人。市内の高台にある場所に行くと、障がい者施設ひかみの園の近くに障がい者専用の仮設住宅が建設されていた。6畳の個室が10部屋あり、すべてバリアフリーで障碍がある人でも利用できる設計。入居者を決めるため高橋さんは希望をメンバーに聞く。「せっかくひかみの園の施設から出たのに、また戻ってきたような感覚になる」。それもこの仮設住宅に住むのをためらう理由の一つ。設備の整った住宅よりも、地域の中で生活することを多くのメンバーが望んでいた。「やはり元の施設が近いので、戻ってきたような気分で嫌」とメンバー。「施設から離れるということが一つの目的だったようだ」と高橋さん。震災から5か月後、メンバーが楽しみにしていた地域のイベントが開かれる。陸前高田伝統の七夕祭り。被災した住民たちによって開催された。震災のためにバラバラになっていた地域の人たちも、この日のために集まってきて、メンバーと会うことができた。亡くなった人への鎮魂と復興の願いを込めて、住民全員で山車を引く。「仲良く助け合ってここで過ごすしかない。新しいホームができるまで待つ。近所の人がいるところに行って住みたい」とメンバー。メンバーは皆、今年も地域の一員として祭りに参加できた喜びをかみしめていた。ガレキの町から再建を誓ったグループホームの障がい者たちは、これからもこの土地で生きていこうと決めている。