防災減災のための地域づくり No.3 避難所運営
この記事は #防災減災の地域づくり のために「コミュニティづくり研究所」が提供します。「NHK地域づくりアーカイブス」の事例動画に学ぶ資料です。NHK地域づくりアーカイブスは過去のNHKの多くの番組から「地域づくり」の良い実践例(good practice)の動画(視聴時間5~10分間程度)を集めたアーカイブスサイトです。このアーカイブスの地震や豪雨の災害に関連する動画から、私は① #災害避難 、② #防災のまちづくり 、③ #避難所運営 、④ #災害復興 、等の実践を紹介する事例を幾つか選びました。①から④のそれぞれのテーマに含まれるアーカイブ動画を視聴し、私なりに学び考察したことを纏めました。過去の良い実践例を学び、防災減災にむけた地域づくりについて考え、計画し、行動するための参考資料として、「 #自主防災組織 」などあなたの地域社会に少しでも役立つならば幸いです。
「防災減災のための地域づくり」シリーズでは下記のⅠからⅣのテーマの記事を提供します。今回の記事は「Ⅲ 避難所運営」です。ⅠとⅡの記事はすでに掲載しました。
Ⅰ 防災のまちづくり(既掲載)
Ⅱ 災害避難(既掲載)
Ⅲ 避難所運営(この記事)
Ⅲ 避難所運営
「避難所運営」で扱う「NHK地域づくりアーカイブス」の動画の事例は、大きく分類すると、A.「避難所運営」とB.「 #要支援者と避難所運営 」になりました。従って今回の「Ⅲ 避難所運営」の内容は以下の通りです。
A. 避難所運営
●「避難所運営」の事例の動画内容とリンク
B. 要支援者と避難所運営
●「要支援者と避難所運営」の事例の動画内容とリンク
A. 避難所運営
事例動画(1)から(7)は一般の避難所の運営に関する事例です。それぞれの事例動画の内容とリンクは以下の●の見出しで紹介します。各事例動画はインターネットのリンクで視聴時間5~10分間程度です。(1)は避難者を小さなグループ単位、言わば顔見知りのコミュニティに分けて、物資の配給や連絡を確実にする方法です。数百人が避難してカオス状態になりやすい避難所に、秩序を作り出す方法として適切だと思います。班の中で顔見知りになれば、互いに話しやすく不安が和らぎ、避難所の生活で共助の気持ちが働き、運営にも協力的になれるようです。(2)熊本県西原村では避難所の運営を住民に任せました。行政からの支援を受け身で待つのではなく、避難者たち自身が如何にして生き延びるか、という能動的な態度を大切にしました。住民主体の運営を可能にしたのは、やはり住民主体で長年行ってきた防災訓練でした。西原村では共助の意識が強く、学ぶことが多くあります。(3)避難所では男性たちが運営を担うことが多く、女性たちの不安や困りごとに気づけないことがあります。南三陸町の避難所で女性たちのストレスを解消するために、「パーソナルリクエスト票」を作りました。必要物資や避難所生活について、女性たちのニーズに応えることができ喜ばれました。(4)避難所で必要な支援物資に関する情報は非常に大切です。普段、組合員の注文を受けて食料品を届ける生協のシステムが、避難所で必要な物資を把握するために役立ちました。被災後多くの業務で役所は混乱しがちです。既存の民間システムを活用することの有効性をこの事例は示しています。(5)真冬に学校の体育館で避難生活をする寒さは過酷です。その寒さ対策を全国の防災担当者が演習で経験しました。寒さ対策を自治体の避難所運営の計画に反映させなければなりません。(6)東日本大震災の時、仙台市三条地区の避難所に集まった外国人と日本人との間でさまざまな軋轢を経験しました。外国人が避難所の運営訓練に参加することで、日本人との垣根が徐々に取り払われていきました。(7)大震災時の経験を生かして、仙台市の防災備蓄倉庫のほとんどがアレルゲンフリー食品です。アレルギー疾患情報を避難所で人に知らせるカードを作成しました。症状が出たときの対処方法もカードに記載されています。
新聞報道によると、能登半島地震の災害関連死(心身に負荷がかかり死亡)が、熊本地震の時を上回り2024年11月22日の時点で235人になり、さらに増える可能性があります。建物倒壊などによる直接死を #災害関連死 が上回りました。11月19日の時点でなお474人が避難生活を余儀なくされています。災害関連死を防ぐには、災害後の避難所や仮設住宅の生活環境の改善が必要です。そのための避難所運営を目指し、過去の災害時の経験を生かして、今後も避難所生活のストレスを減らす改善を続けることが必須です。避難所の生活環境がより良くなれば、タイムリーな避難をためらう人も減るでしょう。災害や紛争の影響を受けた人の権利などの最低基準について定められた、国際基準(スフィア基準)を政府は反映させる方針です。また「地方創生交付金」を活用して、自治体の防災備蓄に対して、政府が補助する方針です。例えば、移動式トイレ、キッチンカー、段ボールベッドなどの資機材です。但し資機材(ハード)を備蓄しても、それを避難所で活用する体制・仕組み(ソフト)を整えなければ、発災の緊急時には生かされません。避難所の運営体制とともに防災物資の利用体制も整備して、避難所立ち上げ訓練も実施するべきでしょう。
●「避難所運営」の事例の動画内容とリンク
(1)避難者を班に分けて避難所運営を助け合う:「避難所運営のヒントを東北の被災地から学ぶ」(2016年放送、以下同様)。東日本大震災の被災地宮城県石巻市石巻高校の避難所で、リーダーを務めた松村善行さんの経験から、避難所運営のヒントを探る。高校に400人が避難。行政やボランティアの支援は十分ではなかった。松村さんは5カ月間リーダーを務めた。(熊本地震の避難所で配給の際に長い列をつくる状況。高齢の人などハンディを背負う人には厳しい。)避難所の混乱した状況の中で先ず班づくりをした。避難所で人が寝ている場所ごとに、小さな区画(10家族20人程度)を設定。言わば小さなコミュティつまり繋がりづくりをした。いろんな所から避難しており、知り合いばかりではないので、グループ(班)をつくり馴染みになり、互いに助け合いができる関係づくり。各班で班長・副班長を出してもらい、役割分担。食事や物資の配給の際に、班の代表が配給を受け取るので、長い列が不要になり確実に避難者に届く。行政との窓口も一本化できた。毎朝、班長が集まってミーティングをして、リーダーが取りまとめて行政担当者に伝える。行政からの連絡事項も班長が全員に伝えて、情報の共有がスムーズにできた。班長が班の一人ひとりの困り事を聴き、声を上げにくい人のニーズも汲み上げた。行政は混乱していてすべてのニーズには応えられない。朝のミーティングでは自分たちでどう解決(共助)するかも話し合った。健康維持のためにみんなで体操。避難所全体では難しい体操も班では可能だった。みんなで掃除することも日課に。トイレ掃除も班ごとに分担。体を動かすことがエコノミークラス症候群の予防にもなる。網戸が無かったので網を買ってきて、自分たちで網戸をつくり虫が入るのを防止。カーテンがなく日差しが眩しいので布を設置。行政に要望しても、自分たちで解決するよりかえって時間がかかることもあった。自分たちでできることは、極力自分たちでするよう心がけたので、自主的な行動が生れた。班の中で話しやすくなり、避難者の体調の変化などにも気づけるメリット。さまざまな不安がある中で、みんなが話せる繋がりが求められていた。避難所運営が上手くいったケースと、そうではないケースの格差が石巻市にあった。「石巻市避難所ネットワーク会議」を避難所の代表で構成して、物資の融通や運営方法などを話し合い、避難所間の格差解消を図った。避難所以外や車中泊の避難者は移動できるので、他人との繋がりは作りにくいが、近くに泊っている人たちの間でグループを作って、協力しあうことを推奨。みんなのために動けることが自分の力にもなった。
(2)避難者自身が助け合いで危機を乗り越えた熊本県西原村:「住民が主体的に避難所を運営」(2016年)。熊本地震発生直後の避難者は18万人。益城町には避難所運営のマニュアルがなく、町の職員は寝床やトイレの設置に四苦八苦。段取りが悪いと多くのクレーム。しかし隣の西原村ではスムーズな避難所運営ができた。西原村の人口は7千余人。全世帯の6割が全半壊の壊滅的な被害。避難所として河原小学校が3カ月間使われた。当時、避難所運営に携わった人たちに話を聞いた。避難所のリーダーを務めたのは西原村役場の職員。役場は運営を住民たちに任せた。行政からの支援を待つ避難所ではなく、自分たちが如何にして生き延びるかが大切。800名がこの小学校に避難。元自衛官や看護師など、住民が持っている得意分野を生かして避難所の運営をした。役割分担をする際に参考にしたのは、村が事前に作っていた住民一人ひとりの職業が記された名簿。炊き出し係は小学校の給食の調理人、配膳係は大人数の食事の準備ができる元自衛官。断水していたトイレの水は、近くの農業用水路の水をバケツリレーして解決。助け合いの活動が人々のやりがいを生み、不安を抱える避難者たちを明るくした。みんなで運営しているからクレームがでない。みんなで危機を乗り切ることに役立ったのが防災訓練。13年前から2年に一度の防災訓練を村人総出で行っていた。どんな訓練をするか住民が話し合って決めていた。自分たちのことを自分たちで考える機会が防災訓練だった。地元の人を巻き込んで実施して、行政ではなく住民の仲間が参加するから、みんなが訓練に参加した。
(3)避難所の混乱・不安・ストレスを和らげる女性の配慮:「防災と避難所運営は女性目線で」(2022年)。東日本大震災の時、南三陸町の住民が過ごした登米市の避難所で運営を担っていたのは、地区役員の男性たち。避難所のリーダーを務めた南三陸町の区長佐藤さんは、女性たちの不安や困りごとに気づけなかった。少しでもストレスを解消して欲しい、と考えた女性の須藤さんは、「パーソナルリクエスト票」を作り、問題解決のため女性たちのニーズに応えた。欲しい下着の種類やサイズ等を書いてもらう。登米市の協力で1か月後、各人の名前を書いて希望する品を届けた。過去に要望した際には、各人ではなくいっしょくたに届き、「私に」向けて届いたことはなかった。さらに避難所でどんなサービスを希望するか書いてもらった。ヘアカット、マッサージ、話し相手、間仕切りなどなど。マッサージの順番を待っている間も、つらかったことなどを話して、スッキリした様子で喜んで帰って行った。このような配慮は避難所のリーダーにとって運営上良かった。熊本地震では避難所運営の中心に女性がいたことで、避難者の不安や困りごとを抑えられた。益城町で最大400人が避難した小学校で、混乱した状況を改善するために女性の吉村さんが動いた。避難者がどんどん増えて、体育館の中は足の踏み場も全然なかった。車いすの人もいた。余震は続いていた。吉村さんは阪神淡路大震災以降、町で防災に関する勉強会を重ね、地域活動にも取り組んでいた。まず避難所内の区画整理を手掛けた。避難通路と非常口を作り、出入り口近くは高齢者と要配慮者。体育館とは別の教室に乳幼児世帯と女性専用スペースを作った。仮設トイレも男女別々に分けた。また男女の役割を固定化せず、みんなで活動しようと、掃除や食事配りなどは、男女関係なくやれる人がした。
(4)避難所の生協組合員から不足物資の情報を得て救援物資を届けた民間の力:「注文ネットワークを生かした生協の被災者支援」(2016年)。役場が情報不足に悩む中、避難所と情報をやり取りして、民間団体のグリーンコープ生協は救援物資を届けることに成功した。熊本県だけでも6万2千人の生協組合員の利用者がいる。組合員からの注文を受け、商品を宅配するシステムが功を奏した。生協の災害支援センター統括責任者の村上さんに、震災発生から5時間後、各地の避難所から情報が集まり始めた。組合員が被災して避難所に入っているので、避難所にどんな物資がないという情報。それぞれの避難所で何が不足しているのか、普段商品の注文に使っているメールや電話で情報が伝えられた。車中泊や軒先避難の人からもSOSがあった。どのように物資を集めるのか、役場は大混乱で頼れない。村上さんは上司と相談して、組合員からの注文で用意していた商品を、救援物資として避難所に配ることを決断。震災後9月に入ってからも、余った商品の中から避難所の食事に使えるものを用意して届けている。普段から住民と情報をやり取りしているからこそできる迅速で適切な支援。きめ細かい支援には民間の力が欠かせないと村上さんは言う。
(5)国や自治体の防災担当者が全国から集まり厳冬期災害演習:「厳冬期の災害に備えを」(2019年)。真冬の避難を想定した厳冬期災害演習。国や自治体の防災担当者や医療関係者など、全国から170人が北海道に集まった。氷点下20度以下のこともある。どう寒さをしのぐか、実際に体育館に泊まって検証。日本赤十字北海道看護大学の根本教授が責任者。災害が発生した直後、避難所で先ず配られるのはブルーシートと毛布。体育館の床の温度は零度近い。体が全然温まらない。この寒さから身を守るのが段ボールベッド、一人当たり30個の箱を使って作る。床からの高さは35センチ。床よりも8度程度温度が高い。5千個の箱を用意して155人が一夜を明かす。直接床に寝るよりも寝やすい。体を温めるには温かい食事が必要。温かい食事をみんなで取ることがストレス軽減にも繋がる。暖房器具の使い方に注意。締め切った空間では一酸化炭素中毒の恐れ。暖房器具を屋外に設置して、半透明のチューブを使って屋内に暖気を送り込む。避難所では厳しい寒さとの戦いが続く。真冬の地震に備えて、自治体は実践的な対策を進めるべき。この演習は仮想なので、さらに想像を膨らませる必要。それを自治体の計画に反映させてほしいと根本さんは言う。
(6)外国人も避難所のリーダーになり運営に参加:「外国人が運営に参加して多文化共生の避難所作り」(2014年)。避難所の運営を任された町内会は、外国人にも防災意識を高めてもらうために、日本人と一緒に避難所を立ち上げる訓練をした。東日本大震災の時、仙台市の三条地区では、避難所に集まった外国人と日本人との間で、さまざまな軋轢を経験した。外国人との共存を目指す。地元の人と外国人が初めて合同の避難所立ち上げ訓練を始める。中国人やインドネシア人など8か国のおよそ30人の外国人。まず震災後に作られた防災マニュアルを配布した。中国語、韓国語、ネパール語などマニュアルは11か国語に翻訳されている。日頃の備えや避難所の過ごし方が書かれている。日本語の得意な外国人に、避難所のリーダーになり運営に加わってもらう。真っ先にやることは避難した人の名簿づくり。一人ずつ名前や連絡先などを記録してもらう。これがあれば大使館や親族からの問い合わせにも、すぐに対応することができる、避難所には欠かせない作業。炊き出し訓練も行う。日本人の定番料理、体が温まる豚汁を用意した。バングラデシュのアニメルさんが、イスラム教徒も食べられる食材を使い、ハラルカレーを外国人のために作った。それを日本人にも食べてもらう。震災の時でもこのカレーはおいしく食べられる、と日本人の感想。イスラム教徒も食べる料理を知ってもらったのは嬉しい、とアニメルさんは言う。外国人が避難所の運営に参加することで、日本人との垣根が徐々に取り払われていった。日本人と外国人の交流もできた。避難所では助け合うことが大事だと外国人も訓練の中で学んだ。
(7)大震災の経験を生かして防災備蓄倉庫にはアレルゲンフリー食品:「食物アレルギーに対応する防災対策」(2015年)。仙台市内でアレルギー対応食品の専門店を経営する三田さんは、アレルギーを持つ多くの人の支えになってきた。三田さんは店にいる時大震災に遭遇した。震災直後、食物アレルギーを持つ人に無償で対応食品を提供する旨、市役所に張り紙をすると、店に多くの人が押し寄せた。仙台市以外の被災地では、アレルギー対応食品を入手できないのではないかと、50km離れた石巻市へ三田さんは行くが、対応食品が必要な人を見つけることに苦労。店のほとんどの顧客は避難先で暮らしていたため、行方が分からない。石巻市役所に助けを求め、アレルギー対応食品を多くの人に配る方法を相談した。管理栄養士の石川さんに相談。市役所職員は避難所に来た人の名簿を作成したが、アレルギーのことは頭になかった。石川さんは避難所を運営する部署と相談。避難所で配布するために、アレルギー情報調査書を作成した。30人以上の人たちに対応食品を配ることができた。この時の経験はその後の石巻市の新たな防災対策に生かされている。避難所で最初に作成する名簿にアレルギー情報も入れることを検討。仙台市でもアレルギー対応の取り組みが始まる。防災備蓄倉庫にはアレルゲンフリーのカレーライスがある。備蓄のほとんどがアレルゲンフリー食品で、アレルギーの有無に係わらず、誰でも食べられるようにした。アレルギーの有無を区別して、食事を提供することが難しいので、全体の90%がアレルゲンフリー食品。震災後、母親たちの意識も変わった。アレルギーのある子供のために、家庭での備蓄を見直して、何日かは生き延びられるようにアレルゲンフリー食品を常に備蓄。三田さんは被災経験を共有して新たな取り組み。アレルギー疾患情報を他人に知らせるためのカードを作成した。症状が出たときの対処方法もカードに記載されている。
B. 要支援者と避難所運営
事例動画(8)から(12)は避難所の障がい者や高齢者に関わるものです。(8)災害時には多くの障がい者や高齢者( #避難行動要支援者 、 #災害時要支援者 )が、避難所に行きにくいと感じました。それを教訓に要支援者が利用しやすい施設を、福祉避難室として指定する動きが広がっています。一般の避難所でも福祉避難室を用意してもらえるよう「避難所ヘルプカード」が考案されました。(9)。東日本大震災の時に避難所へ行ったが、トラブルを起こして、避難所を何か所も転々とする発達障がい児がいました。環境変化への対応が苦手な発達障がいの子供たちのために、学校の放課後に子供がリラックスできる施設「みなみそうまラーニングセンター」が震災半年後に開設されました。(10)老人福祉施設の高齢者は体育館、公民館、学校などに避難することはできません。同じような介護福祉施設が受け皿として、避難者を受け入れることが必要です。東日本大震災の時には、生きるか死ぬかの100人以上の高齢避難者を、会津若松の27の老人福祉施設が協力して受け入れました。(11)東日本大震災の直後、子供たちは、大人の壮絶な状態を見ていたので、自分の感情を出せませんでした。子供たちが自由に遊べず、我慢していたことに気づいた大人は、子供の遊び場を作りました。(12)震災直後、各地の避難所では、高齢者の認知症が急に悪化して、家族が困り果てていました。特に妻の介護で孤立する男性介護者を支えるために、「男の介護教室」が石巻市に開設されました。介護の相談相手がいなくても、男の介護教室で多くの仲間ができたので、同じ悩みを抱えている人たちと相談し合うことができます。
本項で触れた障がい者、高齢者、子供たちに限らず、平常時に弱い立場にある人たちは、災害時には平常時以上の大きなストレスを抱えることになります。そのことにも想像力を働かせて、防災計画を考えることが必要です。
●「要支援者と避難所運営」の事例の動画内容とリンク
(8)避難所へ行きづらい障がい者や高齢者のための福祉避難室:「災害に備え福祉避難室の普及を」(2018年)。茨城県常総市に住む自閉症の金安英徳君は、新しい環境に適応することが苦手。英徳君は自分のスペースの布団の中に入って、強い刺激から自分を切り離して、落ち着こうとしている。音に敏感な英徳君は防音ヘッドホンで音を小さくする。ヘッドホンが一日中手放せない。東日本大震災の時、英徳君は余震に怯え、自宅から外に出られなかった。暴れたり大声をあげたりすることがある。避難所では他人に迷惑をかけるので、次の震災で英徳君と避難所に行けないことを想定して、家族は自宅に備えをしている。震災の時は多くの障がい者が避難所に行きにくいと感じていた。それを教訓にして震災後は、高齢者や障がい者が利用しやすい施設を、福祉避難所として指定する動きが広がっている。福祉避難所にはバリアフリーなどの条件があるので、必ずしも自宅の近くにあるとは限らない。一般避難所の一室を、高齢者や障がい者が利用しやすい福祉避難所として活用する。英徳君が通う結城特別支援学校では、震災後福祉避難室を準備している。他の避難所でも福祉避難室を用意してもらいやすいように、「避難所ヘルプカード」を考案した。災害時に一般の避難所へ行って、受付でカードを提示する。特別支援学校では避難所ヘルプカードを使った訓練を行った。障がいがあり自分のことをうまく表現できない人でも、このカードを見せれば、要支援者であると一目で分かってもらえる。
(9)避難所を追い出され転々とする発達障がい児に寄り添う:「被災地で発達障がいの子どもと家族を支える」(2015年)。白井さんは町の中心部に、発達障害を抱える子供たちのために、学童保育「みなみそうまラーニングセンター」を開設して運営している。現在登録されている子供はおよそ30人でサポートするスタッフは8人。規則正しい生活習慣を身につけるための工夫をしている。自信を持ってもらうために子供を褒める。震災の大津波で家を失った人たちは避難所に向かった。原発からの放射線による健康被害、被ばくを恐れて外からの支援物資が十分に届けられないなど、避難所暮らしには二重三重のストレスがかかった。発達障がいの子供たちとその親が、苦しい状況に追い込まれていないかと白井さんは心配。日頃しんどい思いをしている子たちが、震災で混乱した状況の中で、どんな思いをしているか。震災後、何週間かすると、「発達障がい児に震災ケアが急務」と報道され始めた。避難所に行ったがトラブルを起こしたり、いられなくなったり、追い出されたりして、避難所を何か所も転々とする状況だった。線量が高いと分かっていても、自宅に戻らざるを得ない。何とかできないかと白井さんが悩んでいた時に、南相馬市役所の発達支援室長の山田さんから電話がかかってきた。避難生活が3か月経った頃、白井さんに支援を依頼した。震災後、家族だけで頑張ってきたが、限界に来ているらしい、と山田さんは会議で聞いた。どんな支援が必要か、市役所では分からなかった。白井さんは放課後、子供がリラックスできる施設を作ることにした。2千万円の寄付を集めて、半年後に「みなみそうまラーニングセンター」を2012年1月にオープンさせた。すぐに口コミで情報が広まり、10人の子供たちが保護者とともに集まった。環境の変化に対応することが苦手な発達障がいの子供たちは、想像以上に不安定な状態だった。話しかけてもただボーッとしていた。パニックを起こされると困るので、たくさん薬を飲まされてボーッとしていた。子供たちに寄り添い、自分のペースでゆっくり過ごせるスペースを提供した。1年が経つ頃、笑顔が戻ってきた。白井さんたちが大事にしているのは、学校の宿題を終わらせること。子供たちの学力アップはもちろんだが、保護者の安心に繋がるから。家族は震災から生活を立て直すのに精一杯。宿題を終えてすっきりして帰ると、家族全体がやっと普通に生活できる状態になれる。
(10)生きるか死ぬかの100人以上の高齢避難者を受け入れた老人福祉施設:「介護施設が協力して避難高齢者を受け入れ」(2018年)。原発の近くから避難した大熊町の介護施設から、震災4日後に助けを求める電話が、福島県会津若松市の特別養護老人ホーム施設長の小林さんに入った。高齢者がひん死で生きるか死ぬかの状況になっていた。寝たきりを含む100人以上の高齢者が、県内の工場の一室に避難。介護用品が底をつき、暖房も十分でない中、入院する人も出ている逼迫した状況。高齢者が寒さに耐えられない状況の中で、食べるものも衣服も大変な状況にあるので助けて欲しい、という叫び声のような電話だった。現場に向かった施設の事務局長の遠藤さんは内心は複雑だった。自分の施設でも物資が不足し始めていた。市内のスーパーでもモノが次第に減っていた状況だったので、自分の施設は大丈夫かと心配になっていた。しかし実際に現場を目にして、その考えは変わった。足の踏み場もないほど避難者がぎっちり入っていて、避難所から出る時には、目から涙が出て胸が熱くどうしようもなかった。遠藤さんの報告を聞き、小林さんはすぐに受け入れを決めた。小林さんは避難してきた高齢者の受け入れに力を尽くした。すべての避難者を自分の施設に収容することはできないので、会津地方の他の施設にも協力を求めた。しかしどこも満床で、定員を超える受け入れを渋る施設が少なくなかった。その時、国が決めた特例措置が後押しになった。「…支障がない範囲で、定員を超過して受け入れて差し支えない」。小林さんの説得に動かされて、会津地方の27施設が受け入れに協力し、すべての避難者を受け入れることができた。知恵と工夫で受け入れをした。震災から2年後、小林さんの呼びかけで、県の新たな協定「福島県老人福祉施設協議会会津地区 災害時施設相互応援協定書」ができて、災害時には互いに職員や物資を融通し、受け入れに協力し合うことが定められた。高齢者施設は体育館、公民館、学校に避難というわけにいかないので、同じような介護施設が受け皿として、避難者を受け入れることが大事。大災害を想定して、対応や避難訓練をどうするか、施設管理者は常に考えなければならない。
(11)阪神淡路大震災の経験を活かして、東日本大震災後の子供たちの心のケア:「避難所から生まれた子どもの遊び場」(2017年)。宮城県気仙沼市の「気仙沼あそびーば」で子供たちが遊んでいる。誰でも自由に遊べる。遊び場を運営しているのは鈴木さん。震災後、子供たちの遊び場がないことに気が付き、この遊び場を作った。震災時に津波は鈴木さんの目の前まで押し寄せた。近くのコミュニティセンターが避難所になり、120人が身を寄せた。鈴木さんは地区会長をしている夫とともに、避難所の運営に当たった。震災から1か月が経過した頃、鈴木さんはあるNPOから、被災した子供たちの遊び場を作りたいと、相談を受けた。それまで、子供のことを何にも考えていなかった、と驚いた。そのNPOは阪神淡路大震災の経験を活かし、子供たちの心のケアをしようと被災地を回っていた。鈴木さんは、今まで子供たちが自由に遊べず、我慢していたことに気づいた。大人のあまりにも壮絶な状態を見ていたので、子供たちは自分の感情を出していなかった。鈴木さんはNPOと協力して、高台に遊び場を作ることにした。木や竹で遊具を手作りした。すると子供たちに変化が現れた。楽しくてしょうがない、という本来の子供の姿を発揮していた。震災の翌月遊び場が完成して、およそ30人の子供たちが集まった。「気仙沼あそびーば」の運営は、平成25年にNPOから地域の人たちに引き継がれた。鈴木さんたちは遊具の補修や、沢山の子供に利用してもらうための広報活動をしている。運営費の工面が課題。あそびーばの助けになればと、近所の人たちが手芸をして、近くの道の駅で販売して、その利益があそびーばの運営費になっている。
(12)震災後に認知症が悪化した妻の介護に悩む男性たちの仲間づくり:「被災地で始まった『男の介護教室』」(2018年)。宮城県石巻市で男性たちが集まる人気のイベント「男の介護教室」。家族を介護している人や、これから必要になると考えている人が、おむつ替えや口の中を清潔に保つ方法などを学ぶ。教室を立ち上げたのはケアマネジャーの高橋さん。教室で同じエプロンを着けるのは、同じ仲間として互いに支えあう意味が込められている。男性向けの介護教室を始めたのは東日本大震災での経験から。震災直後、高橋さんは介護が必要な高齢者のために、各地の避難所を歩いた。そこで目にしたのは、認知症が急に悪化した高齢者と、困り果てる家族の姿。震災でいろいろな物をなくして、知らないところに行ったら不安になる。環境の変化の中で容態が急変したのは、家族にとって大きな悲しみ。忘れられない出来事がある。担当していた高齢の夫婦が仮設住宅に入居した後、妻の認知症が悪化した。夫は相談できる人も無く、介護に消極的になり、妻に当たり散らすようになった。「怒ってしまう」と悩んでいた。ある日妻が仮設住宅を抜け出して徘徊し、行方不明になり2日後に遺体で発見された。男性介護者のために何かできることはないかと、高橋さんは医師や福祉関係の仲間と会議を重ね、男性が気軽に参加できる企画を考えた。平成26年「男の介護教室」が開かれた。石巻市内の災害公営住宅に住むある夫婦の夫は妻を自宅で介護。近所に相談相手はいなかったが、男の介護教室で多くの仲間ができた。同じ悩みを抱えている人と相談し合い、孤立を防ぐことができた。教室にまだ出て来られない男性がいるので、仲間の所に出てきて欲しいと高橋さんは言う。