【随想】人工の美しさと自然の美しさ
庭の無秩序感を実感している。
YouTubeや本等でガーデニングについて調べると大抵「ゾーニング」という概念が出てくる。
要は「そこで何をしたいか」ということをまず紙の上で考えましょう。と言うことだ。
当然と言えば当然なのだが、ついつい庭に入ると行き当たりばったりでここはこうしたい、と言う気持ちが暴走してしまう。
その結果がいまの状態だ。
金銭的な面でなかなか実現できないこともあるし、迷っている内に物価があがり、DIYの資材も買いづらくなってしまった。
2×4材や合板の類などは数年前から考えると2倍くらい値上がりした。
お金のことはさておき、庭づくりというのは、畑も含めて人工的な行為である。
元々そこにはないものを持って来て、置いたり、作ったり、育てたりしているわけだ。
しかし、そのあとは出来るだけ手入れをせず、自然の力を極力活かして、良好な状態を維持するのが望ましい。
それが、うまくいった場合は見た目も美しく感じられる。「マッチングしている」と言えば良いのだろうか。
そう考えると、庭づくりに限らず、最初に人工的なものがあり、後に周りの環境に合えば良いと言う事例は結構ある。
「服装」や「仕事が適職かどうか」、「アプリの使いやすさ」などもそうかもしれない。
それで思い出したが、「用の美」の概念がそれなのかもしれない。
実用的で使いやすい生活用具は見た目も美しいと言うような考え方である。
柳宗理の調理用具やカトラリーは美しいし、色褪せない。
とにかく、そんな調和の取れた美しさのある庭づくりを目指したいと思っている。
と言うだけの話である。