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くるくる電車旅〈だって恋だもの〉

立春の前の日を節分という。
立春は2月4日で節分は2月3日。それが宇宙のきまりだと、ずっと思っていた。ところが、今年の節分は、2月2日だった。地球の公転周期が365日より少し長いから、何年かに一度、調節する必要があるのだと。
「ねえ、知ってた?節分の日が固定じゃないってこと」
わたしは、恵方巻きのチラシを眺めている夫にたずねた。
「知ってたさ。2月2日になったり、4日になることもあるんだろ。そもそも地球の公転周期が……」
話が長くなりそうだ。わたしは、食器を洗うふりをして、台所に逃げた。
過去にあっただろうか? 節分が2月2日だったことが。 検索してみたら、2021年の節分も2月2日だったそうだ。しかもそれは124年ぶりというではないか。まったく知らなかった、気がつかなかった。わたしは、その年も恵方巻きを買って食べたはずだ。地球の公転周期なんて、小指の先ほど考えずに。節分は2月3日と信じこんで。

ぼーっと生きている自分にあきれ、こんな日は電車に乗るに限ると家を出た。
曇り空。ときどき傘がいらない程度の雨が降ってくる。良いとはいえない天気。地下鉄の駅に向かう途中にお寺があり、『節分祭り』の赤い旗がひらひらしていた。道から境内をのぞくと、檀家の人たちがテントの下でお酒を飲んでいた。豆まきはもう終わったのだろうか。幕で飾られた本堂の前に人はまばらだった。

地下鉄上小田井駅で名鉄に乗り換え、東枇杷島駅で降りた。普通電車で三駅乗っただけ。
今日行くのは、美濃路にある古刹、清音寺。藤原師長と村長の娘との悲恋伝説のある寺院だ。

駅を出て、庄内川に向かって少し歩き、琵琶島橋の手前で、美濃路に入った。
清音寺の前の道端に、師長と村長の娘の悲恋伝説を記した立札があった。

藤原師長は、平安時代末期の太政大臣。
治承三年(1179)の政変で、平清盛によって尾張に流された。
配流されたのは、現瑞穂区の井戸田。
そこで村長の娘を寵愛したが、二年の後には赦されてみやこへ帰ることに。
娘は嘆き悲しみ、師長の後を追ってきたが、この地で川に身を投げた。

立て札をざっと読み、山門をくぐった。
山門の脇には、お地蔵様が立っていた。
お地蔵様も山門も、本堂も鐘撞き堂も、いかにも古く歴史がありそうだった。
身投げした娘の菩提を弔うために建立された寺だというから、840年ぐらいの歴史があるはずだ。境内はひっそりしていて、人影は見当たらない 。

清音寺を出て、枇杷島橋を渡った。
この地を琵琶島というのは、藤原師長が琵琶の名手で、娘が師長の琵琶を抱いて、川に身を投げたからだ。
わたしは、橋の上から庄内川をながめた。
広い河川敷。雨の少ない季節、川はおだやかに流れている。
800年前は、川幅はいまの何倍もあっただろう。橋があったとは思えない、師長は舟で渡ったにちがいない。娘は、「わたしも乗せて!」と、すがりついただろうか。

このときの師長の年齢を調べてみたら、42歳。娘は、17か18、ひょっとしたら15か16。年の差なんてなんのその、娘は師長が好きで好きで、死ぬほど好きだったのだ。だって恋だもの。みやこから来た貴族のエラい人、琵琶が上手、(たぶん)やさしくてハンサム。好きにならないわけがない。琵琶は、弾き語りの楽器だから、師長はロマンチックな物語をたくさん聴かせてくれただろう。娘は師長に琵琶を習ったかもしれない。
「きみ、筋がいいね」、なんていわれて。
別れるとき、師長は娘を抱き寄せ、耳元でささやいただろうか。「きみは、まだ若い。こんなおじさんより、もっとふさわしい人と幸せにおなり」。
ああ、なんて罪深い。

妄想しながら橋を歩いていると、ポツポツ雨が降ってきた。一駅ぶん歩いて電車に乗るつもりだったけれど、橋を渡るとすぐに引き返した。

清音寺にほど近い白菊町で、バスを待った。
白菊とは、娘に抱かれて川に沈んだ琵琶の名前。琵琶の名だけ伝わって、娘の名は伝わっていないとは。あ、清音寺というのは、娘の法号、清音院からつけられたのだっけ。

バスに乗り、地下鉄の駅前で降りた。
そうそう、忘れていた。
今日は、2月2日、節分だった。
わたしは、帰る前に駅前のスーパーで恵方巻きを買った。

清音寺のお地蔵さま

※タイトルの画は、mikitanishi3さんの作品です。幸せそうなおかめさんとひょっとこさんですね。ありがとうございました♥️


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