大事なのはお互いを理解しようと努めること
先ほどビジネスメールの授業だった。
はっきりいって退屈な授業だが、会話しながら、飽きさせないように授業をしている。
が、後半、あることから私の熱血スイッチが入ってしまった。
それは学生に翻訳させていた時、「パソコン」のことをまた「コンピューター」と言ったからだ。
「コンピューター」と言われると私は「コンピューターおばあちゃん」を思い出してしまい、旧式でアナログなでかい機械を想像してしまう。
実際自分や周りがパソコンのこと言う時に「コンピューター」と言う人はどれぐらいいるんだろうか。 PC?ノーパソ? そもそも今は違う言い方するんだろうか?
でも少なくとも私はコンピューターよりパソコンの方が話は通じると思っている。
なぜならパソコンはPersonal Computerの略であり、コンピューターの中のパソコンとされるからだ。
買い物に行って「コンピューターください」と言うより、「パソコンください」の方が店員にはすぐ通じるだろう。
私の会話授業は常に実際使える言い方を教えている。
それでもなぜか学生たちは頑なに「コンピューター」と言うのをやめない。
今日もそう言った学生に
「なんで私が毎回毎回パソコンと教えてるのに、コンピューターと言うの?」
と聞いてみた。
すると彼女は
「中国ではそうです」
と答えた。
これが私の地雷だった。
はっきりいって、それがもっと個人的な理由で「でも私はそう思います」とか「ほかの先生はそのように教えてます」とかならまだよかった。
でも「中国ではそうです」は私の地雷ワードなのだ。
この時間には今日本に留学に来ている学生も参加していた。
ちょうどいい機会なので私は言いたいことを言わせてもらった。
「おまえらのそういうところはよくない!!!」と。
中国人はどこにいても中国人であり、中国語を話し、中国のやり方を通そうとする。それを自分の国でやるならそれでもいい。でも日本でも外国でもそういうところがある。
中国人同士で固まり、中国人同士しか信頼せず、中華しか食べず、中国人コミュニティの中でmy中国を作る。
そもそも中華思想がそういう思想なんだから仕方ない。「チャイナはサイコー、youもチャイナになっチャイナYO!」みたいな。
日本人だって外国に日本村作ったりもするし、日本人同士でつるむし、それも海外生活の知恵かもしれないから全否定はしないけれども、「中国ではそうです」という中国のやり方は中国でやるならいいけど、日本に来たら日本人が理解できるような言い方を選び、日本人の習慣や考え方も知ろうとするべきだ!というのが私の言い分だ。
「パソコン」と「コンピューター」の言い方なんてぶっちゃけどっちでもいい。でも私は「コンピューター」と言われるとちょっとわかりにくいから「パソコン」の方がいいと言った。日本人の私がそう言った。なのに「中国ではそうです」は、相手への歩み寄りの態度がまったくないだろう!と怒ったわけだ。
外国語を学ぶということは、どうしてそのような言い方になるのか、背景に何があるのかも含めて、文化や民族を知るということだ。
たとえ完全に理解し合えなくても、理解しようと思うその態度が重要なんじゃないのか?
私は日本人にもいつもはがゆい思いもしていた。
よく知らないからこそ、国や政治のイメージで中国人を悪く言う。
でも少なくとも、私の周りの人たちや友人、学生たちはみんないい人であり、いい子で、私はそんな彼らのいいところが知られないことが本当に悔しく、中国人をかばえば洗脳されてると言われたりもした。
お互いを知らないからこんなことになるのだと常日頃思ってきた。
だからこそ、学生たちには「中国はそうです」をどこの国の人に対しても押しつけるような態度や言い方はやめろと言っている。
若い学生にだからこそ強く言う。
「これからの未来は君たちが作る。だからこそ相互理解を心がける態度や言動を身につけてほしい。私はどちらの国にも友達がいて、どちらの国のいいところも悪いところも知っている。でもお互いを知らないからこそ誤解が生まれて、悔しい思いも何度もしてきた。
言語一つにしても、相手を理解するため、歩み寄るための大事なツールだということを忘れないでほしい。
ほんの小さなところから、争いや諍いが生まれるのだから」
私の下手な中国語ではどうせ伝わらなかっただろう。
日本語を高速連打で打ち込みながら話したが、それも伝わってるかはわからない。
まあ、「パソコン」を「コンピューター」と言っただけで、急に「なんでだよ!」となる先生なんて、わけがわからないもいいところだろう。
でも彼らは三年生だ。
オンラインとはいえ三年間熱く接してきた私の考え方がまったくわからないわけではないだろう。
単に私はお互いを少しでも理解して、民間だけでも仲良くやってほしい。それだけなのだ。
私の大事な中国の卒業生が生んだ娘が平和に過ごせる世界であってほしいと願っているだけなのだ。
日本という隣の小さな国の言語を学ぶ機会になったあなたたちは、誰よりも言語を通してその国のことを理解して、歩み寄れる可能性があるのだと伝えたかっただけなのだ。そのあなたたちが日本人の日本語を無視して「中国ではこうです」と自分たちのやり方を言語で示してきてはダメだろうってことなのだ。
ただ留学してきた中国人が中国人同士固まるしかない理由も知っている。
それは二人ぐらい同じことを言っていたのだが、たいていの日本人は私ほど距離が近くないということだった。まあ簡単にいうと私は熱血おせっかいババアだし、外国人に対しても親身になることが多い。
確かに私も自分を基準にしてしまえば、日本人に冷たさを感じることもある。わりとみんなドライだし、相手が困っていると伝えれば助けるけれど、困っていないかどうかを尋ねる人などほとんどいない。
最近も友人に私は特殊だと言われた。現代人というのはもっとドライだし、社会人は忙しいんだから相手に関心なくても普通だろうと。
でも困っている人を動画撮影する人は多いのに、声をかける人が少ないことが普通なのか?
相手を理解しようと、相手に伝えたいと、一生懸命になることはそんなにHPの無駄な消費か?
まあ、そのうちの何人かでも伝わればいいんだと思う。
もはや私は日本語教師というより、一部の学生には啓蒙先生と言われているが。そもそも大した学歴も経歴もない私がひょんなことから中国で日本語を教えることになったわけだが、色んな国の人との交流を通して学んだことはある。
そしてエスペラント語の師匠の「老人は若者のために生きねばならぬ」という教えを常にモットーとしている。
はっきりいって、日本語の間違いで怒ったことはほとんどない。普段も他人と地雷スイッチがちがうとよく言われている。
文法間違いとか発音で怒ったことはないが、「です・ます体」を使えとはしつこく言う。それもこれも別に私に敬意を払えってことじゃなく、ため口の外国人に礼儀正しい印象はないからだ。
今日本に来ている留学生は、自分は丁寧語を話しているが、他の国の人はみんな先生に対してもため口だと言っていた。けれども先生は学生に敬語を使うから奇妙だと思うと言っていた。おそらく敢えて丁寧に話すことで、同じように話すことを促しているのだろうが、私なら毎回ブチギレ案件である。
授業外の交流や普段のチャットではそこまでうるさく言わないが、宿題や授業の時には必ず「です・ます」を使えとうるさく言う。「おはよう」や「ありがとう」にも「ございます」をつけろと最初から厳しく言っている。
それもこれも彼らが日本人の前で軽く見られないためにだ。
日本に留学している学生は日本に来てそのことがよくわかったと言う。丁寧な言葉を使うことで相手も丁寧な態度になるということが。
それでも日本の先生は「外国人だからしかたないだろう」と思っているから注意しないのだろうと彼は言う。
でもそれを教えるのが先生でしょうがぁ!とやはり私は思ってしまう。
私が教えているのは日本語だが、ただ言語ができるようになることを目的としているわけじゃない。一人の外国人が自分の国の言葉を通して違う国の人と理解しあうこと、お互いの言語の違いを知り、その背景にある文化や習慣、そして民族性にまで触れること、そして何より若者たちが、相互理解の態度を身につけて、平和な国際社会を築いてほしいとそこまで願って教えている。そのためにも相手を尊重する態度、言い方は学んで身につけるべきじゃないのか? だがしかしこれも考えの押し付けか……。
正直なりゆきでなった日本語教師だが、基本どこで働いてもどこの国にいても人情、熱血、がぶりよつで人と関わる私なので、自然とそういう感じになってしまった。
まあ、とりあえず、性分ってことで仕方ない。
こんな自分でも慕ってくれる学生たちが多いのがせめてもの救い。
そもそも中国人が基本身内となると暑苦しいぐらいに世話焼きだったり、親しくなればかなり近く入り込む人が少なくないからなのかもしれない。
何より私はいつでも真剣に学生たちと向き合っている。
そんなわけでがんばって中国語でメッセージ書いた。
『私が言いたいのはつまり「郷に入れば郷に従え」ってこと。大事なのはお互いを理解しようとする態度。中国人同士なら中国人のやり方でいい。でも外国人と交流する時は、相手の国の文化、習慣、考え方などを考慮すべきだ。私は若いあなたたちが平和な国際社会を築くことを願っている。言語は相手のことを知るための一つの方法だ。だから日本語を学ぶあなたたちが日本人を理解して、助け合うことを期待している。これが私の考え方だ。授業中に言いたかったことはまあこんなこと』
これで伝わらないならそれはそれでいい。
大事なのは相手に理解してもらおうと努力することでもある。
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