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捨て犬男とノラ猫女:Jul.2

森川と別れ帰路につく。頭の中はいつの間にか、三原の言葉ではなく、家族に占領されていた。誰かに言われた事をこなして過ごすのは、ずっと、ずっと昔からの習慣じゃないか。

両親は、ああしろこうしろと、うるさく言う部類の人間ではない。しかし、自分が迷った時、どちらかのアドバイス通りに動くと物事が上手く進んだ。だから、そうするのが正解だと思って生きてきた。

高校一年の時、担任に、お父さんと同じ道に進むんだろう、と言われた。友達にも言われたことがあったが、建築士になりたいと思ったことはなかった。ただ、建物の絵を描くのは好きだった。それも、この世界にはないような建物。渓谷にそびえたつ城や、はるか未来の都市、木々に埋もれた廃墟。

賢太が憧れ、描きたいと思ったのは、ファンタジーの世界に存在する建物だ。想像の世界だから思う存分、好きに描けた。だけど「描く仕事に就く」ことを、賢太は想像できなかった。特別な、ほんの一握りの人だけが辿り着ける場所のように思えたから。

担任から建築学部をすすめられたことを両親に話し、挑戦してみると伝えた。とても喜んでくれた。それが嬉しくて、正しい方向に進んでいると思った。二年から理数系に力を入れるクラスに所属した。しかし授業中【置いて行かれる】感覚を味わった。進む道が正しいのか、わからなくなった。

担任に相談すると、大丈夫時間はある、君ならできると言われた。学年末に試験が散々な結果で終わった時、君には無理だよと、誰かに言って欲しかった。

――教師って励ますだけが役目じゃないよな? はっきり言ってくれたら良かったのに

いや、自分で決められたら良かったのに。父の職業など関係なく、自分がやりたい事を正直に話せば良かった。やりたいけれど自信がないことも。弟のように、自分の意見をはっきりと伝えられる性格なら良かった。

――結局どこにいたって同じだ……何が挑戦中だよ

美弥子に、挑戦中と言ってしまった、あの時の自分を殴りたい。

本当に挑戦してるのか?
実家を出てひとりになって
それで何か変わったか?
進んでないじゃないか何も
起きて働いて寝て
繰り返してるだけだ
なにも描いていない
考えようともしていない
俺は何がしたいんだ?
本当に描きたいのか?
他の何かを目指すのか?
何を?
どこを?
どこを目指してるんだ?
どこに向かえばいいんだよ

自問の渦に巻き込まれそうになる。眩暈に襲われているわけでもないのに、気分が悪い。疲れているし、寝不足も影響しているのかもしれない。意識して足を踏み出す。早く部屋に帰って、風呂で汗を流し、エアコンの温度を低めに設定して横になろう。

足早に住宅街を進み、アパートの手前にあるゴミ集積所の前に差しかかった時、美弥子の後ろ姿が見えた。タイミングが悪い。今日は楽しく話す余裕なんてない。方向転換しようかと足を迷わせた途端、ゴミ集積所から大きなゴキブリが這い出してきた。賢太は、自分でも何と言ったのか判断がつかないような大声を上げてしまった。

――マジで最悪だ

声に驚いたのか、美弥子は振り返り、肩を持ち上げた状態でフリーズしている。賢太が歩き出すと、美弥子も賢太に向かって歩き出した。

「あんな声、出るんだね。どうしたの?」
「あ、いや……ゴキがいきなり出てきたから」
「ケンタくん、ゴキブリ怖いの? やだ、あんなのどこにでもいるじゃん」

美弥子は笑った。美弥子に会いたい、声を聞きたい、笑顔が見たい。そう思っていたはずなのに、賢太の頭の中で何かが弾けた。

「汚いんだよアイツらは! 誰が歩いたのかわかんない地面の上這ってゴミの山にツッコんで、そのまま家の中に入ってくるんだよ? ギラギラしてガサガサ歩いて気持ち悪いんだよ、ほんっとに汚いんだよアイツらは! 大っ嫌いなんだよホントに!」

言い切って、自分の声の大きさに驚いた。思わず周囲を見渡す。すぐそばの住宅の窓が開いた。老婆と目が合う。賢太は、自分が酷くキツイ顔をしているのだろうと思った。しかし頬の筋肉を緩める余裕などなかった。老婆に頭を下げ、頭を下げたまま美弥子の横をすり抜ける。顔を見られたくないと思った。

「ごめん! そんなに嫌いだと思わなかったから」

美弥子の響きが追ってきた。しかし賢太は振り返らず、外階段を上る。元々機嫌が悪かった、八つ当たりだった、ごめんなさい。そんな簡単な言い訳を、上手に言える自信がない。

「ごめんって!」

軽い足音が近づく。金属製の階段が鳴る。賢太は部屋の前で足を止めた。深く息を吸って、吐いて。振り返らず、言葉を振り絞る。

「ちょっと、びっくりして……ごめん、大きな声出して」
「いいよ全然。気にしないで……ケンタくんって、もしかしていいとこのコ? ああいう虫とは無縁な感じ?」

美弥子の声はおどけている。きっと場を和ませようとしてくれている。そうだと理解できるのに、一気に頭に血がのぼる。

――何で今言うんだよ……

賢太は美弥子に背を向けたまま、強く口元を押さえた。美弥子への怒りではない。ずっとずっと溜めていたものがタイミング悪く暴れているだけ。だから何でもいいから大声を出せたら楽なのだろう。しかしそれをしてしまったら、本当に美弥子の顔を見られなくなる。唇を噛みしめる。目頭に熱が集まる感覚。


まだだ
まだ口を開くな
戻れ戻れ戻れ
出てくるな
出てくるなよ


「今日は、疲れてるから……ごめん」
「え、ちょっと! 少しだけ、少しだけだから」

Tシャツが引っ張られる。頭で考えるより先に、賢太の右手は美弥子の手を払いのけていた。

「俺は……お前の話いつも聞いてるよな? 信じられないような話も、どこの誰だかわかんない人間の話も全部。今日は、今日はダメなんだってホントに……楽しい話だろうが何だろうが、聞けるような状況じゃないんだよ!」
「私が! 私が聞くよ! 今日は私がケンタくんの話聞くから!」

何故、どうしてそんな事が言えるのだろう。どんな話なのかもわからないのに。酷く陰鬱で、どうしようもなく情けない話かもしれないのに。

「……聞いてもらうような話じゃないから」

美弥子に話を聞いて貰いたい。そう願っていたはずなのに、真逆の感情に抗えない。

「ごめん……ホントに、ひとりで考えたいから」

賢太は手早く鍵を開け、部屋に入ってドアを閉めた。すぐに鍵をかけ、ドアにもたれかかる。ドアの向こうに、美弥子の気配がある。動かない。

――早く帰ってくれ。頼むから、早く。

美弥子の気配が消えるの待つ時間は、とても長く感じた。足音が遠ざかり、外階段が鳴る。戻ってきませんようにと、しばらくその場で祈る。

もう大丈夫。ズルリと玄関に座り込み、息を吐く。不愛想なコンクリートに汗が落ちた。部屋はムカつくほど暑い。

「何なんだよホントに……みんなバカなんじゃねえの……ほっといてくれよ」

小さく吐き捨てながら歩き、ベランダの窓を開ける。洗濯機の脇に黒い影。またかと肩をびくつかせる。素早く窓を閉めてよく見ると、紡錘形の葉が落ちているだけだった。

「ああっクソ……ふざけんなよ」

乱暴にカーテンを閉める。賢太はエアコンの電源を入れ、設定を最低温度にし、送風口に顔を向けた。


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