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捨て犬男とノラ猫女:Mar.1

薄いグレーの雲にペタリと蓋をされた、三月の午後。東京西部、多摩川に臨む住宅街。

一条賢太は、目的なく、自分の「新しい街」を歩いていた。不動産屋は「散歩がしやすい環境ですよ。コンビニやスーパーも結構ありますし、住みやすいと思います」と言っていた。荷解きも終わっているし、他にやらなければいけないこともない。じゃあ、と、とりあえず周辺を見て回ることにした。誰かに言われた通りに動く癖は、一人暮らしを始めたぐらいでは治らないようだ。

風は、春風とは言い難い冷たさ。あと十日もすれば新年度なのに、それらしい雰囲気は、風にも空にもない。賢太の目には、咲き始めた花が「もう少し待てば良かった」と言っているように見えた。

コンビニでホットコーヒーを買い、手を温めながら歩く。羽織っているのは冬用よりもダウンの量が少ないショートジャケット。中はスウェット地のトレーナ。マフラーがあれば良かったと思ったが、戻るのは面倒だし、どこかの店にふらりと入って新しい物を買う余裕もない。

――まあ、芯まで冷える前に帰ればいいよな

行先を決めているわけではないから、帰りたくなったら帰れば良い。立ち止まってるよりは、歩いたほうが身体が温まるだろう。

急いでいないから、赤信号を煩わしいとは思わない。青が瞬いているほうに進めば良い。曲がり角がきたら、前にいる人間が曲がった方に進もう。賢太はそんな風に、見知らぬ誰かを頼りにしながら、何となく街並みを見つめて、すれ違う人を視界に入れながら、多摩川沿いの遊歩道に辿り着いた。

対岸は神奈川県。実家から遠く離れたつもりでも、県でくくれば目の前は【地元】になる。自覚していないだけで、実は独り暮らしに不安があるのだろうか。だから、この地域を選んでしまったのだろうか。

――考えるな。そんなこと

賢太は堤防の階段を昇り、川を見下ろした。ついでに対岸も。特別な感動はない。水面は曇り空同様に陰鬱。坂を下って河川敷に下りようという気持ちも湧かない。対岸の幹線道路は、途切れなく自動車が走っている。風向きによっては排気ガスの匂いがきつそうだ。

ごく普通の、どこにでもあるような景色。つまらない。上流からドラゴンでも流れてきてくれないだろうか。しかも見つけられるのは自分だけ。周りの誰もドラゴンの存在になど気づかない。ドラゴンはこちらを認知して、我の背に乗れと言って、ともに旅に出る。

「……バッカじゃねぇの……そういうの、もういいんだって」

呟いて、賢太は周囲を見回した。そばには誰もいない。風が冷たいせいか、それとも平日の午後だからか、人影はまばら。川下に向かって歩き、コンクリート製の階段を見つけて腰を下ろす。ホットコーヒーの栓を開け、喉に流し込む。ぬるい。甘い。マズイ。

「案外、好きな味だけど」

失笑とともに声が漏れて、賢太は思わず周囲を見渡した。そして再び失笑。構わないじゃないか、誰かに聞かれたって。ここには、自分を知る人間などいないのだから。

賢太は一週間前まで、家族とともに暮らしていた。瀟洒な三階建て。庭付き。バーベキューパーティーができて、風向きによっては潮の香りが流れ込んでくる、それなりの庭だ。友人に【セレブな空間】と表現されたことを、賢太は覚えている。

庭では何かと理由をつけてホームパーティーが開催された。両親の友人知人を招き、賑やかな時を過ごすのだ。賢太はその時間を楽しみにしていた。小学校低学年までは。パーティーにやってくる面々といると酷く心地が悪い。もやっとした違和感から始まり、ここにいたくない、を確信するまで、そう時間はかからなかった。

両親と弟。血統賞つきのダルメシアン。毎日通ってくるハウスキーパー。パーティーにやってくる人間達も皆、優秀なのだ。あれもこれも器用にこなす。

――器用貧乏って嫉妬から生まれた言葉だよな、多分。器用なほうがいいに決まってる

小二の時、苦手な理科で百点をとり、喜んで家に帰った。年中だった弟は、カッコイイと言ってくれた。ハウスキーパーは、やっぱりこのお宅の子は優秀ですねと、笑顔を見せてくれた。両親は、頑張ったと声をかけてくれた。ただ単純に嬉しかった。あの頃の気持ちが、ずっと続けば良かったのに。

「あの」

唐突に鼓膜を突いた声に肩をびくつかせ振り返ると、小型犬を連れた老女が立っていた。

「びっくりさせちゃった? ごめんなさいね。ここ、通らせてもらっていいかしら?」
「あ、はい」
「私もこの子も年寄りだから、横をすり抜けるような真似はできなくて。この階段、幅が狭いでしょう? ごめんなさいね、立たせてしまって……はい、ゆっくり行きましょう」

賢太は立ち上がり、道を開けた。老女は犬に声をかけながら、一段一段慎重に足を運ぶ。少し足を引きずっているようにも見えた。連れている小型犬も、毛は綺麗に整えられているものの、足の進みが不安定に見えた。

キツイ思いをしてまで、わざわざ階段を下る事もないだろうに、と思いながら、賢太は二人が河川敷に到着するまで見つめていた。どちらかが足を踏み外すような事態になったら恐ろしい。しかし、手を貸しましょうかなんて言える性分ではない。老女と犬にとって、あれは日々の大切な運動かもしれない、と自分を納得させ、賢太はジーンズの尻を軽く払い、再び川下に向かって歩き始めた。

しばらく歩くも、たった一本の缶コーヒーでは体に熱を蓄えられるわけもなく、賢太はきた道を引き返した。

木造のアパートの部屋に着いてすぐ、ジャケットを脱ぎ、ハンガーに纏わせる。玄関の壁にめり込んだL字フックが、ハンガーラックの代わり。前の入居者が取り付けたものだろう。

古いアパートだから画鋲や釘の使用は禁止されていない、と不動産屋は言っていた。実際に、部屋の壁の至るところに画鋲の痕がある。

――良いって言われても、って感じ

壁に直接フックをグリグリねじ込むなんて発想を、賢太は持ち合わせていない。規則性のない穴の数々に嫌悪感すら抱いてしまう。しかし、そんな環境をあえて選んだのには理由がある。だから、多少のストレスは我慢できる。

洗面所はないから、台所のシンクで手を洗う。ハンドルは握って捻るタイプ。学校によくある、青いビスのついた、銀色のやつだ。

賢太の実家の水道は、全てレバーハンドルだった。向かって右にスライドすると水が出る、レトロなデザイン。全て特注品だと聞いている。

――あれのどこがそんなに魅力的なんだ? オシャレってだけだろ?

コピーペーストしたものは嫌い、と言っていた父を思い出して、ムカついて、にやける。さすが唯一無二を目指して仕事に取り組む建築家。まさか自分の子供が、平成初期に作られた、テンプレ通りのカタチのアパートに住むとは、思っていなかっただろう。これで外観がツタに覆われていたら最高だった。

――ざまあみろ

音にした事のない言葉を脳内で呟き、適当に手を拭う。

時刻は午後三時四十五分。およそ二時間半外にいたことになる。想像以上に身体は冷えている。部屋の温度は、外とそう変わらないのではないか。古い上に木造だから、気密性が低いのだろう。紹介された中で一番安い物件を選んだが、冷暖房にかかる費用を考えれば、ワンランク上の鉄筋コンクリートのワンルームでも良かったかもしれない。

――貧乏で寒さに凍えて死ぬって、自殺じゃないよな?

くだらない、と失笑しながら、エアコンのスイッチを入れ、畳に寝転ぶ。い草の香りが、ほんの僅か鼻腔に進入した。天井は人工的な木目。人工的に木の温もりを再現しようなんて、何とも滑稽だ。無地のベニヤだったら好き勝手に絵が描けた。蛍光塗料を使えば星空を創り出せるじゃないか。

――それも人工か。そんな考えぐらいしか出てこないんだよな、俺の頭じゃ

賢太は舌打ちをしながら寝返りをうち、テレビのリモコンに手を伸ばした。電源を入れる。ドラマの再放送。推理力抜群の刑事とバディが難事件を解決する、人気ドラマ。一度見た内容だ。しかし、チャンネルを変える理由はない。

ドラマもアニメも、子供の頃から大好きだ。見る時間を制限されていたから、好きなだけ楽しめた記憶はない。これからは、自分の都合で好きなだけ見られる。これぞ、独り暮らしの特権。

ドラマが終わり、夕方のニュースが始まる。日本は平和だと言うが、毎日何かしらの事件が起こる。それならば、日本以外の国では、一体どれだけの事件が起こっているのだろう。ニュースで世界を知る状況すらない国があるのだと思うと、ちっぽけなプライドを守るためだけに生きている自分に、後ろめたさを覚える。ひどく憂鬱になる。自分がとんでもなく愚かで、救いようのない馬鹿で、生きている価値など微塵もないのだと考えてしまう。

命を粗末にしてはいけない。幼い頃から、そう教わってきた。しかし、人生を粗末に過ごすくらいなら、いないほうがマシなのではないだろうか。

――でも死にたいとは思わないんだよな……

首吊り、服毒死、迫りくる電車への飛び込み。どれも苦しいに決まっている。自殺するまで自分を追い込むほど、何かに一生懸命でもない。

――何なんだろうな、一生懸命って

明日からアルバイトが始まる。合格の連絡を貰った時、一生懸命頑張ります、と言ったが、それもテンプレだ。言わなきゃいけないから言っただけ。一生懸命になれる自信なんて微塵もない。

自分が垂れ流した憂鬱な気配が部屋に満ちても、腹は減る。生きているとは面倒だ。賢太はレトルトパウチの白飯を、温める機能だけが搭載された電子レンジに放り込んだ。

リサイクルショップで購入した電子レンジには、ターンテーブルがある。珍しくて、温め終わりを知らせるメロディーが流れるまで、オレンジ色に照らされながら回転する白飯を見つめてしまう。その短い時間は、考えたくなくても考えてしまうあれやこれやを、忘れている気がする。不思議だ。ターンテーブルとオレンジ色の光には、忘却効果があるのかもしれない。

今夜のメニューは、白飯に野菜ふりかけ。非常にシンプル。テーブルはないから、そのくらいがちょうど良い。テレビの前に座り、右手に箸、左手に蓋をはがした白飯。紙パック入りの麦茶は、畳の上ではなく、シンクの横に置いてある。

畳は足に優しいが、液体が零れたら散々な事になる。湿って布団が敷けないのでは、座って眠るしかない。体に相当負担がかかりそうだ。疲れをとるための睡眠が、苦行に代わってしまうだろう。

――あ、台所で寝ればいいのか

思って、すぐに【ない】と訂正。台所と言っても、流しの前に立つ場所があるだけ。不動産屋で見た間取り図には、フローリングではなく【板の間】と書かれていた。長年使い込まれた床には、何が原因なのかわからない染みがたくさん残っている。ゴキブリが這っていても不思議ではない。むしろそれは、場に似合う光景だ。

――マジであれはダメだ

自分よりも、はるかに小さな昆虫の姿を思い出し、恐怖する。素早く食べ終え、洗い物を済ませ、水気を拭き取る。ヤツらは、水と髪の毛があれば余裕で生きられると聞いた。その生命力に、とても勝てる気がしない。

部屋の隅々をくまなく見渡し、漆黒の悪魔たる存在がいない事を確かめた後、賢太は小さな湯船に湯を落とし始めた。時刻は七時にまだ届かない。エアコンを動かしているが、イマイチ身体が温まらない。ゆっくりと湯に浸かって、明日に備えよう。偽物だろうが何だろうが、とにかく笑顔で、人当たり良くいなければいけないのだから、身体を芯から温めておかないと。

寒さというのは心にも影響するのだと、賢太は蛇口から落ちる湯を見つめながら思った。浴室は北側。室温が低いから、湯気は目に映り易く、もくもくと、煙のように広がる。

――視覚効果、抜群だな

賢太は、自分の表情が緩むのを感じた。温かな空間を創造しているような感覚。それが何故か、嬉しかった。このまま温かな靄に包まれて、消えてしまいたいと思った。


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