捨て犬男とノラ猫女:May 4
二人ともビビンバを完食し、テーブルにはジョッキとおしぼりだけが乗っている状態となった。あと十分で午後九時。賢太ひとりなら食事は十分とかからず終了する。店に入って一時間半。とても贅沢な時間の使い方だ、と賢太は思った。
美弥子は、お手洗い、と言って席を立った。賢太はひとり、デザートのシャーベットを待っている。自分のものではない。美弥子のものだ。
あの細い体の、どこに入るのだろう。骨は必ずあるとして、自分と同じ数の臓器が収まっているとは思えない。ひとつひとつの臓器が小さいのだろうか。オーバーオールを着ているからわからないだけで、胃の辺りは大きく膨らんでいるのかもしれない。
――俺とおんなじくらい食べたよな? 大丈夫かよ。あんなに食べたら
気持ちが悪くなる、と思って、賢太の心臓は大きく拍を打った。
もしかしたらトイレで嘔吐しているのでは。そう考えて腰が持ち上がる。しかしすぐに動きが止まった。女子トイレに入るわけにはいかない。店員に確認してもらえば良いのだろか。
――待て、落ち着け。そこまで俺が考えることじゃない
ドスンと腰を下ろし、長く、細く、息を吐く。あの日、台所で力なく笑った美弥子を思い出す。きちんと顔を覚えていなかったはずなのに、今は、美弥子の表情の細部まで思い浮かべることができる。
二回目と、今日。集まった美弥子のデザインが、それを創り出している。だから【あの日の美弥子】ではない。そう理解できているのに振り払えない。美弥子の表情がひどく寂しげで、救いを求めているように見えたから。
――そんなワケない。全くの他人だろ? 会ったのだって今日で三回目だし
たいして踏み込んだ話しもしていない。否、ケンケンの話は、案外踏み込んだ、大切な話なのではないだろうか。
――何で話した? 別に俺は聞きたいなんて言ってないのに
聞いて欲しい。そう願っているのだろうか。美弥子は、自分のアイデンティティーにまつわる話を、聞いて欲しいと願っているのだろうか。
――まさか……俺なんて、なんの役にも立たないのに
ドクンドクンドクン。自分の鼓動が耳につく。とっくに冷えたおしぼりを顔に。強く擦って乱暴におしぼりを取り払うと、目の前に美弥子がいた。
「どうしたの? おしぼり、新しいのもらおうか?」
「あ、いや……大丈夫です」
美弥子が席につくと同時に、シャーベットが到着。
美弥子は嬉しそうに、華奢なスプーンを口に運ぶ。賢太は満腹にも関わらず、メニューに書かれた筆文字を眺め続けた。
店を出て、駅前のロータリーに向かって歩く。美弥子は少し頬を赤らめて、上機嫌と言った様子。
「私ね、ケンケンを探そうとは思ってないんだ。たぶん、あの部屋は死に場所に相応しくないって思ったんじゃないかな。きっと」
「死に場所? どういう意味ですか?」
賢太はうっかり質問してしまった。しかし自分の部屋を死に場所などと表現されたら、誰だってその理由を知りたくなる。
「そのまんまだよ。ケンケンは死ぬために生きてるんだって言ってた。あ、自殺したいとかじゃないよ。そうじゃなくて、早くその日がくるといいなって意味」
「……よくわからないんだけど」
「ケンケンね、何度も小説を書くのやめようって思ったんだって。でもやめられないんだって。明日締切だ、早く書ききらないとっていう夢にうなされたりするんだってさ、仕事で書いてるわけじゃないのに。これからの人生なんて何年も残ってないのに、やっぱり先のことを考える、だから不安でそんな夢を見るんだって。過去のトラウマじゃなく将来への不安が悪夢を見せるんだって言ってた」
過去のトラウマではなく将来への不安。その響きは賢太の心臓を叩いた。美弥子は言葉を紡ぎ続ける。
「死ぬ前の日、誰かがそれを教えてくれたらいいのにって。そしたら明日のことを考えずにぐっすり眠れる。本当の意味で安眠できるのはその日だけ。だから満足のいく場所でその日を迎えたいって……私、それはわかる気がする。明日のことなんて考えたくないじゃない? 然程楽しいわけじゃないもの」
言って、美弥子は笑った。完全な作り笑いだと賢太は感じた。同時に苛立ちが込み上げた。
「俺だって毎日しんどいですよ。笑いたくなくても笑わなきゃなんないし理不尽に怒られても頭下げなきゃなんないし仕事できないヤツに大きな顔されたり……朝から晩まで馬鹿みたいに機械にカネつっこんで、どいつもコイツもくだらねえことして」
「うん」
頷いた美弥子。穏やかな笑み。賢太は右手で口元を隠した。やってしまった。こんなこと言うつもりはなかったのに。
沈黙した美弥子。小さな頷き。賢太は口から手を離した。
みんなバカでくだらない
お前だって好き勝手に行動してんだろ?
なのに然程楽しくないなんて言うからさ
だから俺のほうがよっぽどつまんないんだって
言いたくなるよな?
なあ? 何だよダメか?
男は愚痴零したらダメなのか?
八つ当たりとわかっていても、言ってしまえばすっきりするかもしれない。しかし言えなかった。
自戒のため息。賢太は両手で顔を擦り、目を閉じて美弥子に頭を下げた。膝に鼻がぶつかるのではと思うほど、深く。
「頭下げる必要なんてないよ。いいんだよ言ってくれて。そういうの当たり前の感情じゃん。ヤなことばっかり腹立つことばっかり。でも我慢して笑ってさ。グチのひとつやふたつ言いたくなるよ。一生懸命生きてる証拠!」
「でも……」
「でも?」
「俺、ダメなんです。言葉にするとめちゃくちゃ実感するっていうか、ダメなやつだなって改めて思うから」
「そう思うのって、ダメじゃない人間になろうって頑張ってるってことでしょ? それってダメじゃないよ全然」
賢太は目を開きながら頭を持ち上げた。美弥子と目が合って、涙が零れそうになった。言って欲しい言葉を言ってもらえた気がして。
「あれ? なんか変だった今の?」
「あ、いや……」
「安心した」
「え?」
「結構喋れるじゃん。さては猫かぶってたな!」
言って、笑顔。賢太は初めて、美弥子を素敵だと思った。
一緒に過ごした時間が楽しかったわけでもないし、美弥子の良い面をたくさん見たというわけでもない。それなのに、目の前にいる美弥子が、とても稀有な存在に見えた。
触れたい、抱き寄せたい。そういった感情ではない。大切に扱わなければいけない。その表現が適当だと賢太は思った。
美弥子が歩き出す。当然、駅の方向だ。
「私ね」
小さな声のはずなのに、賢太の耳にはとてもクリアに、確実に届いた。
「いつかは死ぬんだから、それまでの辛抱だって思えば生きていられると思うんだよね。笑っていられる時間って一日の中でほとんどないんだけど、一日一回でもお腹から笑えたら、その日はいい日なんだって思うようにしてる。前向きでしょ?」
「一日一回……前向き、なのかな」
「そうだよ。一日に一回も笑えないなんてさ、悲しいよ」
「それは、そうかも」
「あーあ、本当はずっと笑ってたいんだよ。明るく楽しく自分の思うように生きたいよね。縛られずに自由にさ」
「難しいです、思ったように生きるって」
「挑戦してるの?」
「……挑戦中」
「じゃあ、お互い頑張ろう。無理しない程度にさ」
賢太は、しっかりと頷いた。また涙腺に刺激が走って、唇をぐっと噛みしめる。
改札の前で、またねー、と大きく手を振って、美弥子は賢太に背を向けた。自動改札は混み合っていて、美弥子の姿は、すぐに人の波に飲み込まれた。連絡先は交換していない。しかし、美弥子はまたくる、と賢太は思った。新しい脚立が部屋にあるのだから。
部屋に戻り、開けっ放しだったカーテンを閉じた後、灯りを点す。美弥子がいる時は、灯りをつけていなくても部屋は明るかったように思う。室温も、もっと温かかったように思う。
――なワケないし……
自分の想像力が楽しいほうに使われている。そう実感しながら、賢太は脚立の上段に腰を下ろした。