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捨て犬男とノラ猫女:Apr.1
四月半ば。
金土日、三日連続の遅番が終わり、休日。目覚めた時、太陽の光はカーテンの隙間から遠慮なく入り込んでいた。カーテンを全開にしたら絶対に眩しい。賢太は薄暗い部屋の中で顔を洗い、着替えを済ませ、ある程度の覚悟を決めた後、カーテンを開けた。俯き加減にしていたが、日差しの攻撃をよけ切れず、顔をしかめる。
目が痛い。光のせいか、それとも、環境がいいとは言えない職場のせいか。このところ雨が降っていないから、空気が乾燥しているせいもあるのだろう。涙で潤そうとしたが、そう都合よく大量に涙が出る体質ではない。
――心身ともに、合ってるとは言えないよな、あの環境
バイト初日から二週間は、早番でシフトを固めていた。遅番デビューではドル箱を派手にひっくり返すという失態を見せ、客の怒りを買い、他のメンバーのフォローを受け、初めて本心で、ありがとうございます、とインカムを入れた。
幼い頃から、どちらかと言えば器用で、教わったことを教わった通りにこなす能力はある。今回のバイト先でも、仕事覚えが早いね、と笑顔を向けられることが多かった。このままいけば三か月で赤い蝶ネクタイから解放され、緑の蝶ネクタイとなって時給が五十円上がるだろう。なんて油断が、心のどこかにあったのかもしれない。
床の上を小さな銀色の玉が勢いよく転がり散らばって行く。その光景は賢太の心に強く残り、ドル箱が重なる遅番のフロアに、憂鬱を覚えるようになっていた。
「あー……マジで目えいてえ」
水道水で目を洗っても、痛みはとれない。賢太はスマートフォンと鍵をジーンズのポケットに入れ、ドラッグストアに向かった。
太陽は空のほぼ頂点。長袖のスウェットでは、若干暑いと感じる。つい最近までホットコーヒーを好んでいたが、今はアイスカフェオレが飲みたい。
途中のコンビニでアイスカフェオレを買い、歩きながら飲む。ハウスキーパーが淹れたコーヒーに比べると味は劣るが、嫌いな味ではない。連日タバコの匂いを嗅いでいるせいか、嗅覚が鈍ったのかもしれない。
――元々味なんてわかってなかったのかもな。特別な人間なんかじゃないんだから
アルバイトを始めてほどなく、賢太の中にある世間に対する基準など、全くあてにはならないことを学んだ。バイト先で自分は【使えない】。自分から見て【変なヤツ】がエース級に【できるヤツ】だったりもする。
アルバイトのメンバーは誰もかれもが個性的で、自己主張が強く、はっきりとものを言う。誰にでもタメ口の女子大生、オレ自慢の激しい有名大学出身のフリーター、自称若手芸人、インディーズミュージシャン、その他、色々。篠田いわく、ここに残るのは、はっきり物を言う人間か、はっきり言われたことをうまく流せる人間なのだとか。
賢太は、自分はどちらにもあてはまらないとわかっている。しかし、辞めます、と簡単に言える立場でもない。それに何より、喫煙者用の休憩室での時間は刺激的で楽しい。それを味わうためにバイトに勤しんでいると言ってもよい状態。聞こえてくるみんなの私生活はドラマのようで、本当にそんなことあるのか、と疑問を持つことも。
比べて自分の生活は、平凡以下でつまらない。誰かを笑わせるような話題のひとつも持っていないし、驚かせるような武勇伝だってない。みんなの話を聞いている間は、自分も面白い人間の仲間入りをしたようで、心地が良いのだ。非喫煙者である自分が、煙の攻撃に耐えてまでそこにいたいと思うなんて、とても不思議だと賢太は感じていた。
――なんなんだろうな、あの感じ……
体が辛くて辞めたい、という思いよりも、ドラマに近いリアルを耳にしたい、という思いが、賢太の【結構しんどい】生活を支えている状態だ。以前なら、友人の話を聞きながらも、どこか別の世界を彷徨っているような時間が多かったが、バイト先には不運であったり辛い話を意気揚々と語る人間もいるから、つい心を持っていかれる。人の不幸は蜜の味というが、どうも本当らしい。実家に暮らしていた時の環境にはなかった類の刺激がたまらない。
――そういうの楽しみにするって不謹慎だよな
思いにふけりながらブラブラと歩き、目的地に到着。目薬とのど飴、特売の菓子パン、冷凍食品を買い、アパートに戻る。外階段を上ると、部屋の前に女が立っていた。
ひとつに括られた黒い髪の毛。デニムシャツにスリムなチノパン。足元の赤いスリップオンは、あの夜の女のものと同じ。
「え? マジで?」
思わず零してしまった声に、女が反応を示す。
「いた!」
女は飛び上がるような仕草を見せた。
「やっと、やっと会えたよ!」
賢太の前に走り寄る女。肩にかけた赤いポシェットが派手に揺れる。
あの日から一か月が過ぎている。賢太は、あの女はもうこない、天袋に大切な物があるというのは嘘だ、と決めつけていた。だからなのか、女を目の前にして賢太の心臓は大げさに拍を打ち出した。
「先日は、ご迷惑をおかけしました。すみませんでした」
「あ、いや……」
女は賢太の前に立ち、丁寧に頭を下げた。賢太は思いもよらない事態に対応不能。数秒経過し、頭を戻した女の顔には、警戒を感じさせない笑みがあった。
「何回かきたんだけど、いっつもいなくって……ポストに手紙入れられても気持ち悪いでしょ? ほら、あの時こんな感じだったし」
女は眉間に皺を寄せ、口を手で覆い、嘔吐を我慢するようなジェスチャーを見せる。そしてすぐに明るい表情を取り戻し、賢太に向かってファストフード店の紙袋を掲げて見せた。
「お昼ご飯、食べた?」
「え? あ、いや。まだです」
「じゃあ一緒に食べよ」
女の手には紙袋。中身を聞かなくても、匂いと袋に書かれた大きなロゴで、メニューはわかった。
「え、あ、それ、買ってきてくれたんですか?」
「そう。あ、もしかして、これから出かけるとか?」
「あ、いや、今日は何にも」
「ホント? じゃあ、いいかな?」
女はドアを指さす。開けろという意味だろう、と理解したが、賢太は判断に迷った。この女を部屋に上げる義理はない。しかし女が大切な物とやらを持ち帰れば、二度とこんなふうに鼓動を走らせなくて済む。あの夜のできごとは何だったのだろう、と考えずに済む。
「えっと……どうぞ」
「ありがとう。おっじゃましまーす!」