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まつりのあと:3_①

 目が覚めて頭痛を自覚したのか、頭痛を自覚して目が覚めたのか。いずれにせよ、爽やかな朝という気分ではない。けれど、まだ眠っているママの顔を見たら、夕べの手のぬくもりが甦って、目元が緩んだ。

 顔を洗い、ママと浩太に手紙を残して家に向かう。七時を回ったところ。国道はがら空きで、二日酔いの頭でも然程気合を入れずに運転できた。

 庭に適当に車を停めて、玄関へ。すりガラスの向こうに、男物の革靴。まさかの予感を持って、私は静かにガラス戸に手をかけた。鍵が、開いている。

 どんなに静かにと思っても、カラカラと音が鳴ってしまう。その気配に気づいた者がひとり、茶の間から顔を覗かせた。


「お帰り」
「ただいま」
「浩太の家?」
「うん……ていうか、お帰り」
「ただいま」


 兄は、お帰り返しをした私に笑みを見せた。祖母の葬儀以来の対面。僅かだけれど緊張する。

 あのこと、言わなきゃいけないよね

 兄が帰国するのは、まだ先のことだと勝手に思っていた。あの女と息子の話を、いつ、どう切り出せばいいのだろう。

 シャワーを済ませて茶の間に行くと、仏壇の前にワインボトルが置かれていた。またか、と思いながら台所へ。水道水で頭痛薬を胃に流し込み、やかんを火にかける。


「何か飲む?」
「紅茶かコーヒー」
「ないよ。あるのは日本茶、ウコン茶、お酒」
「じゃあ日本茶で」
「はいよ」


 叔母が置いていった高級茶葉で、三人分の茶を淹れる。


「持っていくよ」


 白地に蓮の花が描かれた湯呑を持って、兄は茶の間へ。すぐに鈴の音が聞こえた。チラリと目を向けると、目を閉じ手を合わせる兄の横顔があった。

 兄は父の訃報を、どう受け止めたのだろう。泣いたのだろうか。それとも、安心したのだろうか。

 二人分の茶をテーブルに。兄の横顔に問いを投げる。


「朝ご飯は?」
「食べてないけど、いい。時差ボケ中」
「向こうだと夜中?」
「そう。夜中の十一時くらい」
「じゃあ、結構眠いね」


 少しぼうっとした様子で頷き、兄は自分の定位置に向かった。南側の窓に背を向けて座る。テレビが正面に見える西の座椅子は父の席、私と姉の場所は、台所に近い北側。母は、父がいる時は茶の間に居場所がなかった。

 兄は湯呑に手を伸ばさず、テレビのリモコンに触れる。テレビの音量は私が極小に下げたまま。兄が驚いた顔を見せて、私は噴き出してしまった。


「音、上げていいよ」
「びっくりした……父さん、こんな小さい音でテレビ見てたわけじゃないよね?」
「逆。めちゃめちゃ音大きくて、叔母さんに下げろって言われたから、私が下げた」
「やり過ぎだから。相変わらず反抗的だな」
「いいんだよ、あの人の家じゃないんだし」
「そうだけど……叔母さん、いつ帰ったの?」
「知らない。昨日の朝会って、それっきりだから。お兄ちゃんは、いつ帰ってきたの?」
「昨日の夕方。成田に着いて、菜摘のところに顔出して、夜の新幹線でこっち来て、母さんのところに泊まった」
「なかなか詰め込んだね」
「滅多に来られないから……頂きます」
「どうぞ」


 兄は両手で湯呑を包み込み、ゆっくりと口に近づける。男の子なのに丁寧ね、と子供の頃親戚に褒められていた。今も、あの頃と同じ飲み方。三十半ばを過ぎても変わらない姿に、安堵を覚える。声のトーン、話すスピード、仕草。兄のそれらは、全てが優しい。

 旅行代理店の職員としてフランスに渡ったのは、六年前。私が東京に出た時、兄は既に忙しく働いていて、それでも月に一度のペースで食事に連れて行ってくれた。その習慣が途絶えた時、ひどく寂しかった。兄離れできていないと自覚した。今はもう、あの頃の寂しさは感じない。ずっと一緒にいられるわけではないと、数年かけて脳にすり込んだから。

 茶を飲み終え、畳に横になり、兄はニュースを見ている。久しぶりのオール日本語を堪能しているのだろうか。あの話は、まだしないほうが良いだろう。


「……いつまで家にいられるの?」
「明日の昼前かな。夜便で戻るから」
「すぐじゃん。今日、何する?」
「菜摘達が来たらお墓行こうと思って」
「お姉ちゃん来るの!?」
「連絡なかった? 昨日家に寄ったらさ、ちびっこ達が僕も行く私も行くになっちゃって。菜摘の会社、結構融通きくみたいだから、来るんじゃないかな」
「そうなんだ。来るとしたら昼過ぎかな? 駅まで迎えに行ったほうが良さそうだね。メールしてみる」


 すぐに姉にメール。今準備中、と簡素な返信が届く。長男が走り回るようになってから、姉との連絡回数は減った。更に長女がひとり歩きを初め、姉はスマートフォンに触れる時間を失ったようだ。仕方がない。仕事、家事、育児。全てひとりでこなしているのだから。

 大学を出て、大手の化粧品メーカーに就職。三十で結婚、出産。退職せずに仕事を続け、二番目の子を出産。充実した人生を歩んでいると思っていた矢先、夫が進行性の癌に。余命を待たずに他界。葬儀で姉は一滴の涙も零さず、喪主を務め上げた。その姿が脳に焼き付いているから、通夜で泣いてしまった自分を恥ずかしく思う。

 強すぎ。もっと弱くなってよ

 到着の時間がわかったら教えて、と返信し、スマートフォンをテーブルに置く。湯気が去った茶をすすり、長い息を吐いた。


「葬儀、大変だった?」


 唐突に。横になったままの兄から、問いが飛んで来た。


「葬儀屋の指示通り動いただけ……人はいっぱい……最後は、お祭りみたいだった」
「お祭り?」
「加島さんって、知ってる?」
「えーっと確か、土木関係の人だよね。会ったことはないけど写真だけ……結構、強面の人だよね?」
「そう。あの人の会社の人達が大勢、もしかしたら全員なのかも。で、父さんとの約束だとかで、庭で酒盛りした」
「葬儀の後に?」
「うん。大盛り上がり」
「ハルも一緒に?」
「うん」
「本当に親父と仲いい人って、そういう人ばっかりだな。まあ、らしいけど」
「楽しかったよ。後夜祭みたいで」
「なら良かった」


 兄は笑って、目を閉じた。そのまま寝るのかもしれないと思って、私はテレビのボリュームを下げ、自分の部屋へ。

 化粧と、着替え。今日も黒の上下。頭痛がまだ続いているから髪は結ばず、サイドを耳にかけただけ。皆は金髪と呼ぶけれど、美容師はプラチナカラーと言っていた。生え際が黒に染まってきている。東京に戻ったら、美容室に行かないと。

 ベッドに座り、バイト先に電話。日曜の夜に戻るから、来週のシフトに入れて欲しいと伝える。マスターは快諾し、ゆっくりしておいでと、温かい言葉もかけてくれた。

 マスターって確か、父さんと同い年だ

 マスターに初めて会ったのは、アルバイトの面接。マスターは私の髪を見て、尖ってるねえ、と口角を持ち上げた。そしてろくに話もしないうちに、シフトを組んでくれた。

 元々、高校時代の先輩がバイトをしていた店。辞めるから、と私を紹介してくれた。先輩はマスターのもとで良く働き、信頼を得ていたのだろう。そういう人間の紹介だから、上手に笑えなかった私なんかを雇ってくれたのだと思う。

 先輩、元気かな

 半分死んだように生きる私に、いたいだけここにいたら良い、と言ってくれた人とは、あまり連絡を取り合っていない。けれど会えば、きっと昨日あったばかりと思えるほど、話しが弾むのだろう。本当に私は、父親以外の人間に、恵まれたようだ。

 東京での生活を思って、マスターや店の常連さんの顔が浮かんで、早く帰りたいと思った。実家はここなのに、愛着がない。

 本当に、この家はもう、
 いらないのかもね


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