Transparent cloud – 5③
渋谷駅。
再び訪れたあの場所に、老婦人は勿論いない。コートを脱いで抱っこ紐を外す。迷わず足元のスナップボタンだけを外し、先程と変わらないペースでオムツ交換を済ませる。泣き止まない赤ん坊に、続いてミルクを。
(私、何やってんのかな)
授乳室のソファー。哺乳瓶を傾ける先で、赤ん坊は必死にミルクを飲んでいる。きっと飲む事だけを考えている。
(考えてないか)
哺乳瓶が空になる寸前、赤ん坊の瞼が嘘のように閉じる。何て単純な生き物なんだろう。
ゲップを促したが、既に眠りに落ちている。モモは赤ん坊を抱っこ紐に戻し、コートを羽織った。揺れに反応したのか、赤ん坊の口から泣き声とは異なる音が漏れ出す。真似の出来ない、力の抜けた発音。
可愛い
浮上した感情が口元を緩める。慣れない場所、慣れない行動。ふと訪れたあたたかな感情。それにいざなわれたかのように、根元に眠気が走った。モモは目元を擦り、スマートフォンの電源を入れた。ここまでの状況を箇条書きにし、ミドリにメール送信。
(アオ達は、何ともないのかな)
僕もみんなも無事。
ミドリからのメールにはそうあったが、本人達に確かめたわけではない。
しかし相手の現状を問うなら、自分の身に何が起こったのかを話さなければならない。
大男のエキスパートに羽交い絞めにされ、女エキスパートに何かを注入されたところまでは覚えている。その後、ホームで駅員に声をかけられるまでに、何があったのか。すっぽり抜けた記憶は、果たして取り戻せるのだろうか。
(ずっと寝てたんなら思い出せないよね。あそこに連れていかれた時もそうだったし)
【 ここ 】と呼んでいた場所は【 あそこ 】に変わった。【 あそこ 】がどこに存在しているのかわからない。戻る事も出来ない。
(返信、来ないよね…………)
静寂の塊となったスマートフォン。
モモはミドリからの返信と、アオ達へのメールを諦め、エネルギーが切れかかった体を持ち上げた。
とにかく、静かな場所に行きたい。それが叶いにくい街だと、モモは改めて思った。体と頭を休めて、次に取るべき行動を検討したい。それに適した場所はどこか。
ファーストフード店でチーズバーガーセットをテイクアウトし、古い記憶を辿って歩く。線路沿いに公園があったはず。少し迷って辿り着いた場所は、公園の隅。吹きっ晒しのベンチ。幸い日向で風は穏やか。
冷めかけのチーズバーガーとポテトを完食。ホットコーヒーにガムシロップを2つ投入し、ゆっくりと体に流し込む。
「ごちそうさまでした」
胃も心も少し落ち着いた気がして、モモは宙に長い息を吐き出した。
(さて……)
赤ん坊が寝ている間に、次の動きを決定しなければ。しかし、現状を打破する糸口は見つかっていない。自問の渦に足を浸す寸前、コートのポケットに振動。急いで取り出したスマートフォン。メール着信。
(! ……F?)
アドレス帳にあった、人物特定不可のFとM。着信は、Fからのメール。
FatherとMotherかもね
ミドリはそう言っていた。しかしモモの父親はもう存在しない。もしFがFatherなら、着信がある可能性はゼロ。一体誰が、何を送ってきたのか。モモは、細かく震えた指先で液晶画面をタップした。
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フウちゃん
困ったらお母さんに連絡しなさい。
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フウちゃん。モモではなく、フウちゃん。フウちゃんと呼んでくれるのは、両親だけ。送信相手が父で無い事はわかっている。しかし、敵ではない。モモはそう思いたかった。
アドレス帳を表示し、Mの文字をタップする。呼び出し音。7回鳴って止まる。
《 はい 》
小さい。ごく小さな、くぐもった声。
「お母さん?……私、風歌だけど」
《 ………… 》
「お母さん?! 聞こえてる?? 私ね、どうしたらいいかわかんない……赤ちゃんと一緒に置き去りにされて、どうしたらいいかわかんない!!」
《 ……どこにいるの? 》
電波が繋ぐ声は、やはり小さく、くぐもっている。
「公園……渋谷駅の近くの線路沿いの公園」
《 待ってて。すぐに迎えに行くから 》
モモが返事をする前に、通話は途切れた。
時刻は14時。既に日は傾き始めている。12月の太陽はせっかちだ。景色が夕暮れの暖色に近づき始めると、何故か気持ちが弱くなる。
寂しい
心細い
誰か助けて
お母さん助けて
モモはベンチを離れ、公園内を歩いた。コートの中は暖かいが、顔や手はとっくに冷え切っている。
(帽子と手袋も買えば良かった)
バッグから使い捨てのマスクを出して顔の下半分を覆う。温かい。
しばらく歩き回ってベンチに戻る。腰を下ろして視線を動かすと、紺色の制服姿が視界の隅に入り込んだ。反射で腰が浮く。違う。エキスパートではない。
「ちょっとよろしいですか?」
中年の警察官。その語りかけは、明らかにモモに向かっていた。
にこやかな表情。しかし目の奥には確かな鋭さが宿っている。
「ええっと、ママさん?? 若いね、お散歩かな?」
「あ……はい、そんなところです」
「近所ですか、ご自宅?」
「いえ…………」
「そうで・す・かぁ……うーん、大丈夫かな?」
質問の意図がわからない。何について【 大丈夫 】と問われているのか。
「年末はね、色々ね……ほら季節柄せわしなくて旦那さんにほっとかれたり……ママさんは変な気、起こしたりとかじゃあないよね?」
口元は笑っているのに、視線は攻撃的。どっちを信じて言葉を聞いたらいいのだろう。この人が抱いている感情を知りたい。色が見たい。サーモグラフィで色を確認したい。
「…………わかんない」
「え?」
「わかんない……何色なのかわかんないよ!!」
警察官の目元。明らかに険しさに染まる。
自分の足音
聞きたくない
追ってくる足音
聞きたくない
来ないで
見えないから来ないで
わからないから来ないで
「待って!」
背中にぶつかった声。警察官のものではない。
「探したわ」
母の声でもない。振り返り、声の主を確認。女。中年と老年の間に位置する風貌。白髪交じりの髪を後ろで束ね、ゆったりとしたコートに身を包んでいる。明らかに母ではない。自分が待ち望んだ存在ではない。しかしモモは、女のもとに走り寄った。
モモと女。視線を交え、女は小さな頷きを見せた。そしてブラウンのコートを揺らし、警察官と向かい合った。
「お仕事お疲れ様です。この子、私の知り合いなの。ここで待ち合わせたんだけど、私が遅れちゃって」
「え? いやぁ……でも」
おかしな事を叫んでいた。そう言いたげな口元を結び、警察官は女に向かって敬礼した。
「美雲さんのお知り合いなら結構です。失礼致します」
警察官は一礼し、白い自転車にまたがる。モモに視線を飛ばし、鋭さを見せつけた後、走り去った。改めて、女に向かい合い、モモは深く、深く頭を下げる。顔を正面に戻しても、言葉は出てこなかった。
「貴方よね、電話くれたの? お名前……ごめんなさい、電話が遠くてよく聞こえなかったの」
「……モモ」
「え?」
「モモです」
「モモちゃん? お子さんのお名前は?」
「わかりません」
「わからない?」
「私の子じゃありません……私…………わかんないんです、どうしたらいいのかわかんないんです!」
膝が地面に落ち、両腕は赤ん坊を包む。俯いた顔の下に、眠る赤ん坊の顔。温かい。温かいのに、心細い。
「助けて下さい…………私達を助けて下さい」
モモは赤ん坊を抱えたまま、頭を下げた。土下座。人生初の土下座を、女の手が解除する。
「行きましょう」
モモの肩。触れたぬくもり。しかし、すぐには立ち上がれない。
「日が暮れる前に、お家に帰ろう」
「…………はい」
帰る家は無いのに。
待っている人はいないのに。
お家に帰ろう
その言葉が脚に魔法をかける。
そこに行けば温かい。
そこに行けば安心が手に入る。
右腕にバッグ。
左腕に女の腕が回っている。
ちゃんとした自己紹介もしないまま、されないまま、モモは滲んだ視界を拭って立ち上がった。