捨て犬男とノラ猫女:Mar.2
呼び鈴が、正常なのか壊れているのかわからない音を響かせたのは、賢太が髪の毛を洗い終えた直後だった。浴室は外通路側で、小さな窓がある。灯りをつけているし、音も漏れているだろうから、風呂に入っているとわかるだろう。
賢太は湯船に戻り、膝を折り曲げた姿勢で長い息を吐いた。何故、湯船に浸かると息が漏れるのだろう。子供の頃は、オッサンのすることだと思っていた。しかし、この頃自分も、やたらとはっきり息を吐くようになった。オッサンになった覚えはないのに。
顔に湯を浴びせると同時、再び呼び鈴が鳴った。
――配達じゃないよな?
宅配されるような物を頼んだ覚えはない。自分ではない誰かが、何かを送り付けてきたのかもしれない。賢太は風呂の小窓を、僅かに開けた。
「すみません、あの、今、風呂なんで……えーっと、何でしょうか?」
「誰? ケンケンじゃないの?」
「え? あ、えっと……どちら様でしょうか?」
窓からスースーと入り込む冷気。温まった身体に直接風が当たり、賢太は瞬く間に鳥肌を纏った。洗いたての髪の毛が毛先から冷えるのを感じた途端、若干の苛立ちが賢太の口を開かせた。
「あのー、今風呂なんで、出られませんから」
外通路に立つ何者かは、反応を示さない。声の質で女だと判断できた。おそらく若い。二十そこそこ、自分と同じくらいではないだろうか。
賢太は窓を閉じ、湯船に戻った。訪問者は家を間違えたのだろう。ケンケンと言っていたのが少し引っかかるが、自分をそんなあだ名で呼ぶ友人はいない。女友達だっていない。勿論、恋人も。
しばらく湯に浸かり、しっかりと全身を温めてから湯船の栓を抜く。下水に繋がる管が古いせいなのか、水を吸い込む音がやたらと大きい。狭い浴室全体が、その音に支配されていると言っても良いくらい。いつまでも聴いていたいとは嘘でも言えないその音に、呼び鈴の音が混ざる。
「マジか……」
先程の女なら、相当しつこい。いや、今度は本当に宅配かもしれない。もしかしたら、真下の住人かもしれない。何度か挨拶に行っているものの毎回不在のため、ポストに手紙とハンドタオルを入れておいたのだ。
「はい……少々、お待ち下さい」
素早く着替え、手ぐしで髪を整えて玄関へ。覗き穴の向こうにいるのは、女。魚眼レンズで顔のカタチは正確にはわからないが、若い女に見えた。
「あ、えっと……さっきの人ですか?」
「そう……開けてくれない?」
「え? あ、いや、あの僕は、違う人ですよ?」
「わかってる。声が全然違うし……でも私、その部屋に大事なもの置いてるから、それ取りにきただけだから」
「いや、えっと……一週間ほど前に越してきたんですけど、部屋には何もなかったですよ」
「そりゃそうだよ隠してあるんだから。ねえ、とにかく中に入れてくれない? ずっとここにいたから……」
賢太はレンズの向こうの女を、じっと見つめた。数秒経つと、ふっと女の姿が視界から消えた。
――は、嘘だろ?
急いでドアチェーンを外し、ドアを開ける。女は通路にうずくまっていた。ほんのわずかだが、本当に【消えた】と思った自分に若干いら立ちながら、賢太は女の表情を覗き見ようとした。しかし顔はすっかり下を向いていて、表情が見えない。
「あの……あの、ちょっと、大丈夫ですか?」
声をかけても女は顔を上げない。賢太はサンダルを履き、女の前に進み出た。女は小刻みに震えている。
こんな時どうしたら良いものか、賢太は知らない。もしも女がこの場で倒れたら、自分は一体、どんな立場になるのだろう。心臓は走りっぱなし。言葉は出てこない。
これは俺のせい?
いいや違う
見ず知らずの人間が訪ねてきた
だから応答しなかった
いや違う
応答はした
したよ、確かに
自分のせいじゃない。女が目の前でうずくまっているのは、自分のせいじゃない。では、誰のせいだ? 賢太が自問に答えを出す前に、女の顔が持ち上がった。
「ごめん……トイレ、貸して」
賢太が了承する前に、女は素早く部屋に上がり、トイレに駆け込んだ。
所々にヒビの入った、コンクリートの玄関。女物の赤いスリップオン。いかにも、余裕がありません、といった様子に脱ぎ飛ばされたそれを、賢太は揃えて置き直した。
立てつけの悪いトイレのドア。その向こうから、女の声が漏れ出す。独り言を言っているわけではない。えずいているのだ。あの音は我慢しようがない。賢太にも覚えがある。美味しいと思って食べた物が、嫌な臭いと一緒に口から溢れ出る。とても不快な時間を、女は狭い空間で過ごしている。
賢太は、つい最近、同じ時間を味わった。引っ越しの前日、一人で居酒屋に行った。特別呑みたいわけではなかったし、自分のアルコール処理能力を過信していたわけでもない。呑まない理由がない、という気持ちだったのかもしれない。閉店まで呑み、家に帰って、つい先程女がしたように、トイレに駆け込んだ。吐き戻すという行為は苦しくて、何故か悲しくて、涙が出た。
流水音が数回続き、女がトイレから出てきた。あまり見ないほうが良いのだろうと思いつつ、賢太の視線は女の顔に向かう。目が充血している。鼻の頭も赤い。何か声をかけたほうが良いのだろうか。
賢太が玄関から動けずにいると、女は迷いなく台所のシンクに向かい、手を洗い始めた。トイレの中には手を洗う場所がないから、そうする他ない。
女は時間をかけて手を洗った後、両手をコップ代わりにして、うがいをした。一回一回丁寧に、五回繰り返し、水を止める。自分のバッグからハンカチを取り出して、手や口の周りを拭くと、女は賢太に顔を向けた。
「ありがとう……ごめんなさい、いきなり」
「あ、いや……えっと……大丈夫ですか?」
「うん」
「そうですか……それは、良かった、です」
他に何と言えば良いのだろう。模範解答なんてあるのだろうか。
女の顔色が悪いのは、台所が薄暗いせいではないだろう。まだ具合が悪いのかもしれない。しかし、休んで行って下さい、というのはおかしな気がする。出て行って下さい、とは言いにくい。女は、大事な物を置いていると言っていた。ならば、それを確認してもらうのが良いだろう。
賢太は、サンダルを脱いで部屋に上がった。ドアは開けたまま。風は当然入ってくる。寒いが、閉めた途端に悲鳴を上げられたら、何もないと言っても何かあったと疑われるに違いない。
「あ、えっと……大事なものって、どこにあるんですか? 引っ越す前に掃除の人が入ったはずだから、僕の荷物以外は、ないと思うんですけど」
「押入れの中なんだけど」
「押入れ? いや、何もなかったですよ」
「正確に言うと天袋の中、あ、違うな。天袋の上」
女は、押入れのほうを見ながら、僅かに笑顔を作った。しかしそれがあまりに頼りなくて、賢太は、今にも女が死ぬのではないかと恐ろしくなった。
台所に立つ女。まくり上げたデニムジャケットの袖から覗く腕は、非常に細い。履いているのはスリムなジーンズのように見えた。ジーンズを履いてこれなのか、と感じるほど細かった。
女は、若いというよりも、幼いといった風貌。覗き窓の向こうにいた時にはわからなかったが、髪の毛は後頭部の中央あたりでひとつに括られていた。マフラーやストールのない首元も細く、妙に寒々しく見える。
見ないように、と心がけたはずなのに、賢太は数秒、女を見つめてしまった。見つめていると気づいたのは、女が賢太に向かって新しい笑みを作ったから。
「あ、すみません。えっと……どうします? 見て見ますか、その、天袋の、上?」
「脚立、なんてないよね?」
「あ、はい……高いところにのぼりたいってことですよね? えっと、そういうのは……何もないです。あ、でも、押し入れの荷物全部だせば、足場はできますけど」
「けっこう迷惑かけちゃうね。って、もうかけてるか……ごめんなさい。今日はいいや! また今度にするね」
女は足を動かし始めた。賢太の前で立ち止まり、頭を下げ、戻す。顔には笑み。
「本当に、ありがとう。お風呂邪魔しちゃってごめんなさい。今度は昼間にきます」
賢太が言葉を発する前に、女は開きっぱなしのドアから外へ。金属製の外階段の音は、13で消えた。
今のは、何だったのだろう。見知らぬ女が、いきなり部屋に上がり込んで、トイレで嘔吐して、笑って、帰って行った。また今度くる、といったような言葉を残して。
――ここ、俺の部屋だよな?
外廊下に出て、辺りを見渡す。目に映る範囲の、ほとんどが住宅。その隙間を埋めるように作られた小さな畑。遠くに見える高層マンション。一週間前から見始めた、まだ馴染みのない、かといって、見間違えようのない景色。その景色の中に、女は見つけられなかった。
玄関に入り、ドアを閉める。サンダルを脱いで板の間を踏む。ひやりとした感触が、足の裏から全身に伝わった。頭皮からじわじわと、冷感が下りて来る。風呂の湯を抜いてしまった自分に舌打ちをし、賢太は乾いたタオルを頭から被った。