Transparent cloud – 9②
操り人形のような不自然な滑らかさで腰を持ち上げ、モモに背中を向ける。
「行くわよ、早く立って。ほら、望未は置いて。大丈夫、家から出るわけじゃないし、あと何時間かは起きないでしょ」
言われるがまま望未を寝かせ、毛布をかける。
顔の周りに窒息要因となる物が無い事を確かめ、モモは望未の頭にそっと手を置いた。
(大丈夫、大丈夫だから安心して)
望未に、自分に。念じた言葉は双方に。
既に茶の間の引き戸を開けた瞳。背中は静。
その顔を向けられる前に、モモは音を潜め、足を動かした。
階段。モモの体は、瞳に5段遅れて存在。
頭上の照明は消えたままだが、瞳の背中は腕を伸ばせば届く位置に。
それを標に足を進める。
2階の踊り場についても、瞳は電気のスイッチに手を伸ばす気配を見せない。
しかし何ら迷いなく、右方向に足を向ける。
3つ並んだドア。
最初のドアの前を通り過ぎた途端、瞳はくるりとモモを振り返った。
突然の対面に肩をびくつかせたモモ。
その仕草がおかしかったのか、瞳は目元を大きく見開き、口角を持ち上げた。
「そこがママとご主人の部屋。次が息子の部屋で、私達が行くのは一番奥。娘の部屋よ」
「貴方の部屋?」
「違うわ。私の10個上の姉。ママが27歳の時に産んだ子」
「え? ちょっと待って、それじゃ計算が……貴方は愛子先生が23の時の子供って言いませんでした?」
「そうよ」
「じゃあ、4つ下の妹、ですよね?」
「うーん……そうとも言えるわね。まあ、とにかく入りましょうか」
意味がわからない。
濃藍と黒が入り混じった廊下。
ただでさえ周りが見えないのに、更に靄に包まれる。
モモの体は硬直。頭も硬直。
モモをその場に残し、5歩進んだ瞳。
ドアノブに手をかけ、無言のままドアを引く。小さな金属音。
過剰に揺れたモモの鼓膜。鼓動の加速を煽る。
「……久しぶり」
宙を渡った瞳の声。ほんの僅か、憂いを秘めた響き。
瞳は室内に消え、ドアは放たれたまま。
あのドアが閉じてしまったら、そこで真実は途切れる。
ふと湧き上がった焦燥感が、モモの足を動かした。
ドア
瞳の背中
暗い室内
見えない
瞳の背中が邪魔して
見えない
見えない
早く
見せて
「……あの!」
「え……あら失礼」
瞳はモモに道を開け、室内へといざなう。
仰々しく首を傾げる仕草に苛立ちを覚えながら、モモは部屋の中央に進んだ。
ベッド、箪笥、机。
外形の大きな物は認識出来たが、目が暗闇に慣れたとは言え、瞳がこの部屋に自分を招いた理由までは発見出来ない。視線は自然と天井へ。
シーリングライト。紐はぶら下がっていない。
「やっぱり暗いわよね……はい」
瞳の声と同時。室内を満たした蛍光灯の光。
モモは思わず目元を歪め、その表情を携えたまま瞳を振り返った。
開きっぱなしのドアの横。
瞳はだらりと両腕を下ろし、壁にもたれるような格好で立っている。
うっすらと浮かんだ笑み。
本物の操り人形のようで、モモは背筋に怖気を感じた。
「なあに? 私を見る為にここに来たんじゃないでしょ?」
薄い唇から放たれる音は、まるで北風。
その場の空気を冷ややかにし、瞳は顎で一点を示した。
部屋の隅。飾り気の無い平机。
電球がはめ込まれたレトロなデスクライト。
その横に、プラスチック製のフォトスタンドがひとつ。
中に収められた写真。見覚えのある顔が2つ。
「愛子先生と、お母さん!?」
美雲と母。
予想もしなかったツーショット。
モモはフォトスタンドを持ち上げ、シーリングライトの下に移動した。
白っぽい光に照らされた写真。
(若い、2人とも随分若いけど…………)
間違いない。
美雲と母の存在を確実に認識した途端、モモの心臓は一層力強く全身を叩き始めた。
心音が過剰に伝わる鼓膜に、瞳の声が触れる。
「さあ、始めましょうか。貴方の真実を紐解きましょう」
ぐらり。
瞳が壁を離れ、体を縦にした途端、モモの目の前は大きく揺らいだ。
1歩、また1歩。
瞳が間を詰め、モモの肩に触れる。
瞳に両肩を押さえられたまま、モモは焦点を保つ事に専念した。
「大丈夫? 座りましょう……こっちへ。ゆっくりでいいわ」
予想外に柔らかな音を響かせ、瞳はモモをベッドに誘導した。
静かに、ゆっくりとモモを座らせ、その手に握られたフォトスタンドをそっと受け取る。
モモが抵抗を示さない事を確認し、瞳は机の前に移動。
フォトスタンドを元の位置に戻し、机の下に入り込んだ椅子を動かす瞳。
椅子は長く使われていなかったのか、瞳の体重を受けた途端、小さな軋みを上げた。
「話しても大丈夫?」
「……はい」
「見た、わよね。ちょっといきなり過ぎたけど、こうでもしないと、点と点が繋がらないでしょ?」
「点と点?」
「そう。貴方の中にある点を確認してみましょう……今、貴方が一番繋げたい点と点は?」
「…………」
「考え過ぎないで。シンプルに、直感でいいのよ」
「……愛子先生と、お母さん」
「そうね、これ見たばっかりだもんね」
フォトスタンドに視線を送り、瞳は机の引き出しを開けた。
A4のノートとマジック。
画鋲の入ったプラスチックケース。
机の上にそれだけを置き、引き出しを閉じる。
ページを破り、マジックを走らせた後、紙を画鋲で壁に固定する。
美雲愛子
パソコンで打ち込んだような、機械的な文字。
「美雲愛子は子供を2人産みました。それが……この2人」
瞳は新しい2枚を壁に固定した。
美雲秋宏(26)
美雲みなみ(27)
(みなみ! やっぱりお母さんなの? じゃあ、あの時のあれって)
モモの脳内。
甦る、ごく新しい記憶。
『 お母さんのお名前、教えてくれる? 』
『 ミナミ……どんな字を書くの? 』
『 夏生まれ? 』
『 桃木みなみ…………ありがとう 』
確かに昨日、美雲に母の名を尋ねられた。
名を聞き、生まれは夏かと問いを重ね、含みを持たせて話題を切った。
(あれは、あの質問は、自分の娘かどうか確認したって事なの?)
両目にあからさまな疑問を宿したモモ。そのまま、瞳を見据える。
それを受けてなお、瞳はペースを崩さない。
「名前に続く括弧の中は、産んだ時のママの年齢。ママの年はさっき教えたわよね? 覚えてる?」
「73」
「現在の年齢マイナス産んだ年齢、イコール貴方がお母さんだと思っている人の年齢。そうなるでしょ?」
「……なるけど」
「けど?」
「お母さんから、愛子先生の話なんて聞いた事ない」
「ない? 何故? 何故貴方に自分の両親の話をしなかったのかしら? 貴方は聞かなかったの? 知りたいと思わなかった? 自分のおじいちゃん、おばあちゃんの事」
「私は…………」
自分は、何故知らないのか。
それを思い出すには、随分古い記憶を掘り起こさなければならない。
掘り起こせたとしても、鮮明に思い出せる自信はない。
おそらく、故意に封じ込めた記憶だから。
『 フウカには、じいじとばあば、いないの? 』
幼稚園児だった頃、そんな質問を母に投げた。
『 いないと、寂しい? 』
母はそう言った気がする。伏し目がちな横顔で。
言わなかったのもしれない。
あの横顔が、そう言ったと思い込ませたのかもしれない。
「思い出した?」
「……いえ、はっきりとは」
「何故、美雲みなみ、後の桃木みなみは、両親の存在を娘である貴方に伝えなかったのか……私は復讐の為だと思うわ」
「復讐?」
「そう、自分を捨てた母親に対する復讐」
「捨てた? 愛子先生が、お母さんを?」
「正確には、捨てられたと感じていた、かしら?」
「捨てられたと感じていた……」
「美雲愛子と桃木みなみ、2人の歴史を紐解く勇気はある? あるなら……ほら」
瞳は再び机の引き出しを開け、奥からノートを取り出した。
DIARY
その文字列に、モモの好奇心が反応を示す。
お母さんの?
愛子先生の?
読んじゃいけない
読んでみたい
読んでもいい?
「どうぞ」
瞳は腰を持ち上げ、日記帳をモモの手元まで運んだ。
しっかり右手に握らせ、首を傾けて笑顔。くるりと身を翻し、足を動かす。
「コーヒー、入れてくるわ」
モモが返事をする前に、瞳は部屋を出た。
階段を下る音。
間を置いて届いたのは、シンクを叩く水音。
モモは乾いた喉を唾で潤した後、表紙を開いた。
私は何の為に生まれたんだろう。
ママはどうして私を生んだんだろう。
お兄ちゃんだけでよかったのに。
お兄ちゃんにとっても、
ママとパパにとっても、
私の存在は邪魔なんだと思う。
1ページ目。殴り書きされた文章。日付は無い。
黒いボールペンの筆圧が、書いた時の感情を伝えてくる。
(これ、お母さんの字に似てる……)
モモの記憶にある、母の筆跡。
字体は明朝体に近く、文字が少し右下がりになる癖がある。
開いたページの文字はかなり乱れているが、右下がりの特徴は見て取れた。
鼓動の高まりはモモの指先に震えをもたらす。
しかしページを捲りたい衝動は、そんな細かな体の変化を物ともせず、ただその意思を遂行する。
詩のコンクールで金賞をとった。
でもママは喜ばなかった。
ふーんだって。
きっとママは詩なんてだれにでも書けるって思ってる。
私があの詩を書きあげるのにどれだけ悩んだり迷ったりしたのかなんて考えてない。
わかろうとしてない。
あなたの考えてる事がわからないって言ってたもんね。
言われた時の私の気持ちだって考えてないに違いない。
ママは人間の表面しか見てない。
医者って、あんなんでもつとまるんだ。
今日、児童養護施設に連れて行かれた。
ママが休みの日に行っている場所だ。
何で私を連れてったんだろう。
お兄ちゃんを連れてけばよかったのに。
私はあんな所に興味なんてない。
やたらとママに懐いてる子がいた。
ママもひとみちゃんひとみちゃんって笑顔を見せてた。
私の事は呼び捨てなのに。
私も捨てられれば大事にされるのかな?
でもママは捨てたら2度と拾ってくれないと思う。
大学の願書を捨てた。
やっぱり私はお兄ちゃんみたいになれない。
自分のやりたい事を捨てて親の望む道に進むなんて無理。
なんで現実的じゃないって理由だけで夢をあきらめなくちゃいけないの?
医療に携われば現実的なの?
立派なの?
ママもパパも結果論しか言わない。
自分達だって別の職業を夢見てた時代があったはずなのに。
私はここを出て行く。
もうここは私の家じゃない。
元々私の家じゃなかったのかもしれない。
先生には感謝しないと。ギリギリで就職を勧めてくれた。
受かったのは先生の後押しのおかげ。
東京から地方に行く若者ってレアなんだなって改めて思った。
あんなに喜んでくれるんなら安月給だってかまわない。
ここにいるよりずっとマシ。
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