まつりのあと:5_①
自分のベッドで目覚める。背中にぬくもり。姉の寝息が聞こえる。カーペット敷きの床には兄。やはり寝息を立てている。それぞれの部屋で寝るようにと準備をしていたのに、全員で私の部屋で眠った。おやすみ、と口にしてからの記憶がない。すぐに眠りに落ちたのだろう。久しぶりに、頭の中も視界も、すっきりとしている。思いがけず水分を放出したのが、効いたのだろうか。
二人に声をかけず、一階へ降りる。七時を過ぎたばかり。母は起きていて、ひとりで茶をすすっていた。着替えも化粧も済ませていて、昔見た朝の光景を思い出す。
「おはよう。二日酔い、大丈夫?」
「おはよう。うん、大丈夫」
「お茶、飲むでしょう?」
あの頃よりも健康的な声と表情。母は私が頷く前に席を立ち、ポットの前に進んだ。
洗顔を済ませ、台所に戻る。見覚えのある湯呑がテーブルにあって、思わず一歩の幅が大きくなった。
「どこにあったの、これ?」
「食器棚の奥。捨てられたのかと思ってたけど、全員分、しまってあった」
「へえ……意外」
「ねえ」
母は笑った。嬉しかったのだろうか。家族の湯呑を、父が保存していた事実が。
私の湯呑は土色で、表面が少しざらっとしていて、桃色の歪な水玉模様が描かれている。姉のは水玉が黄色、兄のは水色。母が口に運んだ湯呑は、私達のよりも少しだけ大きくて、白い波のような模様がある。父のは更に大きく、白波に勢いがある。
ここに戻って五日になるけれど、食器棚の中を覗く余裕などなかった。余裕があったとしても、覗かなかっただろう。意外な発見があるかもしれない、なんて期待は、微塵ももっていなかったから。母がきてくれなかったら、この湯呑との再会はなかった。
もしかして、気になってたのかな
母は食器を集めるのが好きで、家の食器棚は季節ごとに表情を変えていた。東京で暮らし始めて、それを真似したいと思ったこともあったけれど、入れ替えや保管に案外手間がかかるとわかり、やめた。一人で暮らすなら物は少ないほうが良い。けれどひとつくらい、思い入れのある物を買うのも悪くないかもしれない。
私が湯呑を空にした頃、座敷で音が上がった。羽菜の声だ。泣いている。見慣れない部屋に戸惑いを覚えたのだろうか。母はすぐに席を立った。
我が子の声に反応し、姉が二階から降りてきた。ごめんごめんと言いながら座敷に向かう。羽菜の大きな泣き声がやんで間もなく、翔を抱えた母が台所に顔を出した。翔は、まだ半分眠ったような顔をしている。
「翔、おはよう……起きてる?」
声をかけた私に、翔は薄っすらと目を開けて笑ってくれた。そして母の腕から降り、顔を覆って洗面所へ。寝起きを見られたのが恥ずかしかったのだろうか。
続いて姉と羽菜がやってきた。羽菜の目にはまだ涙の粒があって、声をかけるかかけまいか迷った。けれど姉が、ハルちゃんだよ、と言うと、羽菜は微かに笑顔を見せてくれた。
「羽菜、おはよう。テレビつけようか?」
「……だっこしたままみる」
姉は娘の要望通り、抱っこのまま茶の間へ。テレビをつけると、羽菜は私に手を差し出した。
「リモコン貸してだって。自分でチャンネル変えたいんだよね」
姉が羽菜の心の内を代弁する。
「できるの? 凄いねえ羽菜。はいどうぞ」
「はなのすきなのにするから、みててね」
言って、羽菜は迷いなくチャンネルを変えた。ぬいぐるみのキャラクターが映し出され、一気に笑顔を爆発させる。抱っこのままと言っていたけれど、羽菜は自分から姉の腕を離れ、キャラクターの動きに合わせて体を揺すり始めた。
「凄いね、テレビの力」
零した私に、姉は少し呆れたような笑みを見せた。本当は、あまり見せたくないのかもしれない。
「お茶、淹れようか? お姉ちゃんの湯呑、母さんが発見したよ」
「ホントに?」
驚いた顔の姉と台所へ。姉は自分の湯呑を手にとって、全体を眺めていた。そして静かにテーブルに戻し、冷蔵庫に向かう。
「朝ごはん作るよ。お茶、お願いしていい?」
「了解。お兄ちゃん、起きてた?」
「半分起きてる。起こす?」
「ごはん出来てからでいいよね」
「そうしよう。まだ時差ボケなんじゃない? 夕べ飲んじゃったし」
姉は手際良く朝食の支度をし、私は茶を淹れた後、母と一緒に翔と羽菜の相手。二人は仲が良いし、ぐずりも少ない。叱る要素は見当たらなくて、ただひたすら可愛がりたくなるけれど、姉は普段ひとりで世話をしているから、そうもいかないのだろう。朝食だって、平常運転なら二人が起きる前に支度を終えているに違いない。
お姉ちゃんも、夕べはぐっすり眠れたのかな
誰かにくっつかれて眠ることはあっても、誰かにひっついて眠るのは、稀だろう。私が良く眠れたと感じているのは、姉のぬくもりのおかげかもしれない。東京に戻ったら、姉にひとりの時間をプレゼントしたい。翔と羽菜が、私と一緒にいてくれれば、の話だけれど。
朝食の支度が整い、兄を起こして全員でテーブルにつく。私の普段の朝食は、水分のみ。けれど今朝は、食卓が賑やかなせいか固形物に手が伸びた。
夕べも思ったけれど、賑やかな食卓は良い。子供の頃は喋ると父に叱られたから、私達も母も黙って食事をしていた。毎日が通夜の席のようだった。通夜のほうが、まだマシかもしれない。沈黙の中に潜む悲しみを祓うように、やたらと明るく振る舞う人間がいるから。
加島さんも、そういう部類の人間っぽいな
ふと強面の老人を思い出す。昨日も連絡はなかったけれど、どうするつもりなのだろう。私は、明日までは確実にここにいる。けれど日曜の夕方には、東京に戻らなければならない。
仕事もあるだろうし
こっちからの連絡は迷惑だよね
内容が、内容だし
自分から働きかけるのはやめよう。父の秘密を手放したいのは、私の勝手な感情。加島も、もしかしたら引き取りたくないのかもしれない。
朝食の片づけを済ませ、兄と姉は荷造りを始めた。母は、翔と羽菜を連れて庭へ。今日も穏やかな青空が広がっている。外で遊ぶにはうってつけだ。
私は二階の部屋から順に、掃除機をかけ始めた。開けっ放しの兄の部屋。掃除機を止めて、一応、ドアをノックする。兄が振り返って手招きをしたから、掃除機を廊下に置いて部屋に入った。
「夕べ、家の話とか菜摘にしなかったけど、どうする?」
「帰りの車の中で、と思って。私がお姉ちゃん達乗せるから、お兄ちゃんは、母さんの車で」
「そうするか。でも、子供達の前で?」
「たぶん寝ると思うよ。東京にいる時もそうだもん」
「そっか……じゃあ、任せるよ。母さんには、俺が言うから」
「どこまで?」
「家を譲るなら、相手のことも話さないと」
「大丈夫かな……」
「わかんないけど、運転できない状態になったら、俺が代わるから」
「うん……何か、ごめん。イヤなところ押し付けるみたいな感じで」
「気にするなって。ハルのほうがキツかったろ? 相手と直に話したんだしさ……一応、長男だから任せろ。それとも頼りない?」
「あるある! めっちゃ頼りある。ん? 頼りあるって、変な日本語だね」
「変でもいいよ。良かった、頼りないって言われなくて」
「ベソかきの話は忘れたから大丈夫」
「覚えてるじゃん!」
「午後には忘れる。掃除機、かけてもいい?」
「よろしく」
ポンと私の頭に手を乗せ、兄はトランクを持って部屋を出た。ひとりになると、部屋が妙に広く感じた。
この家にひとりって
広過ぎるよね
父はひとりで全ての部屋の掃除をし、ひとりで食事をし、ひとりで床についていた。とても静かだったろう。だからなのだろうか。テレビのボリュームをあんなに大きくしていたのは。どの部屋にいても、音が届くように。
まさか
静かで良かったはず
普段は静かでも、たまには仲間が訪ねてきて大騒ぎしたに違いない。きっとそう。そうでなければ寂し過ぎる。騒いでいたに決まっている。絶対に。そう思いたいのに、ひとりで食事をする父を想像してしまった。廊下に急ぎ、掃除機をうならせ、目には見えない埃を吸い込んでいく。こんな風に、感傷も全部、吸い込んで捨ててしまえたらいいのに。そうすれば、涙を堪える努力も、しなくて良いのに。