見出し画像

ひのき舞台は探偵と一緒に:2.舞台裏#3

 現在彩菜の収入源は、スーパーマーケットでのアルバイト。手取りは、月およそ十六万円。家賃、光熱費、携帯代、食費、年金と健康保険料。それらを引いて手元に残るのは、三万程度。

 舞台公演の度にチケットノルマは発生するし公演中はバイトを休まなければならない。ゆえに貯金してもすぐに口座は空っぽ。正直、彩菜は不安でたまらない。自分の老後が。

 結婚できず、頼る相手もなく、孤独のうちに死に絶える自分を想像してしまう。まだ二十四歳なのに。

 そう、まだ二十四歳なのだ。まだ間に合う。人生を変えよう。その為に顔を変えよう。一円でも多く金を稼ごう。高収入を求める事情は至極単純だ。単純ゆえ、地味顔支持派の桜には打ち明けにくい。

 水羊羹を食べるという理由をつけて、黙り込んだ彩菜。ゼリーを平らげ、ぐいっとテーブルに身を乗り出した桜。

「彩菜さ……もしかして、じっちゃんかばっちゃん調子悪いの?」
「え? いや、二人ともめちゃめちゃ元気。こないだも老人クラブの旅行さ行ってきたって。余裕ある老後を謳歌中。超平和」
「へえ……んでば何で?」
「……ん、まあ単なる貯金? ここも再来年取り壊しだべ? 引越し代も必要だしね」
「んなごど言って! 実は結婚すんでねえの?」
「は?」
「結婚資金稼ごうとしてんじゃねえがって話! もしそうなら嬉しいけど、複雑……」
「複雑? なしてよ?」
「寂しいべ! 彩菜が人のモノになるなんて」
「ねえ! それはマジでねえよ! 仮にあったら、一番最初に桜さ言うし」
「そう? んならいいんだけどさ……」

 桜は疑いを残したままの表情で、風呂に入る、と自分の食器を下げて部屋を出て行った。

 丸テーブルの上には、空き缶と素麺の残った皿、そして麺つゆが残ったお椀が一客。その家の主が皿を洗うのが、二人の間のルール。

(あっ、ラー油。つーかスマホも)

 彩菜はラー油の瓶と、桜のスマートフォンを掴んだ。しかし薄い壁を通り抜けて、シャワーの音が聞こえる。

(……後でいっか)

 彩菜はテレビの電源を入れた。画面に映し出されたのは、ネコに見えないネコ型のロボット。便利な道具をメガネの少年に提供し、たいてい痛い目を見て終わるアニメ。彩菜は大好きだ。

 桜もこのアニメが大好きで、テレビのボリュームをゼロにして、勝手にアテレコをして楽しんでいた。毎週見ていたはずなのに、今、隣の部屋からはシャワーの音が聞こえている。

(もう諦めたのかな……)

 桜は声優志望だった。高校卒業後同じ専門学校に進み、彩菜は舞台演劇科、桜は声優科に所属していた。桜は訛り感じさせない完璧なアクセントで、地方出身の生徒の間で話題となった。少年少女から怪しげな老婆まで幅広い役をこなし、講師の評価も高かった。卒業後は大手事務所の研究生に。すぐにでもデビュー出来るだろうと彩菜は思っていた。

『 顔も実力のうち? って感じ。華がないみたい、残念ながら 』

 オーディションに落ちるたび、桜はそんな言葉を零していた。そしていつの間にか、研究生ではなくなっていた。以来アニメや吹き替えに関する話題は口にしなくなった。

(……私もいつかは諦めるのかな)

ふと訪れたセンチメンタリズムを頭を振って取り払い、彩菜は桜が忘れていったラー油を麺つゆに投入。いきおいよく麺をすすり上げ、案の定むせ込む。

「っっ! ……あーーー! 変などごさ入った!」

 頭を下に向け股間を覗き込むような姿勢で咳を繰り返す。鼻と喉の間に入り込んだ麺が飛び出すと同時に、涙が滲んだ。

(何だコレ……何してんだろうね私……)

 涙の理由は追求せず、彩菜は咽込みながら素麺を完食した。

 アニメの終了とともにテレビを止め、食器を洗う。シンクも綺麗に磨いた後、板の間に置きっぱなしだったバッグから、マナーモードのままのスマートフォンを取り出した。

 メール着信が一件。知らないアドレス。アドレスの始まり、アルファベットの並びは【green】。誰からのメールであるか、簡単に予想できた。

安蔵です。
本日はお暑い中ありがとうございました。
明日、お昼過ぎなら何時でもかまいません。
お待ちしています、
もし何かあったら、このメールに返信下さい。

 緑子からのメール。美人が打った文章だと思うと、何の変哲もない文字の並びがありがたく思えるのは何故だ。意識し過ぎなのだろうか。美形という類の人間達を。

 彩菜はスマートフォンを充電器に繋ぎ台所へ。洗面所がないから洗顔もハミガキも台所のシンクで行う。髪を整えるのも化粧をするのもここだ。

(結婚って……こんな部屋に男呼べねえし。つか寄ってこねーしそもそも! 結婚はマジで、ホントに、悲しいくらいないわー……)

 口に歯ブラシ投入。ミントの香りでラー油の匂いを飛ばす。念入りにうがい。お口がさっぱりしたところで、ゴロリと畳に仰向けに。照明の眩しさに目を閉じる。時刻は二十時に五分足りない。寝るには早いが、何をするわけでもない。

(あー……新しい台本、読みたい……)

 先月の公演以降、出演依頼はゼロ。暗記しているのはバイトのシフト表のみ。

(……長く続けりゃいいってもんでもない、よね)

 所属先となっている小劇団では古参のメンバーに。バイト先でも同様。しかし、長年お世話になったスーパーマーケットは、今月いっぱいで辞める。

(何て言って辞めようか……探偵助手やるんで! なんて言えないよなあ……芝居を本職にして辞めるはずだったのに……未来予想図なんて描けない、ほんっとに描けない……マジで、何やってんだろ、私)

 ため息、ため息、更にため息。ため息の大安売り。

「!? 何?」

 自分が連投したため息に、音が紛れ込んだ気がした。耳鳴り。違う。空耳。違う。

(…………蚊……いや、違うな)

 蚊の羽音に似ているが、微妙に異なる。一体この音は何だ。


いいなと思ったら応援しよう!