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【発達×英語】世間は「seem」で成り立っている

 何年か前に、Twitter(当時)で「ASDには心がない」というツイートを見て「それなら私にも「心」はないんだ。『私にも心はある』と思っているのはただの錯覚だ。少なくとも定型の人たちが考える「心」とは違うんだろう」とひどく落ち込んでいた時期がありました。

 実際子供の頃に従弟から「Luちゃんってロボットみたいで人間っぽくない」と言われたことがあったので、長い間自身の「心」や「人間らしさ」について自信が持てずにいました。
 こちらに「私の心は『ある』」と確固たる確信があっても「それはASDの認知特性からくる『錯覚』では?」と言われてしまうと途端にその確信があっけなく崩壊し混乱してしまうのです。

 最近になって(今更のように)気がついたことは、「この世の中は『~である(be)』でなく『~に見える(seem)』で成り立っているのだな」ということです。
 以前の記事における「いくら脳内で一生懸命考えても、そのことを言葉など明確な形で発信しないと「自分は考えてる」ということ自体相手に伝わらない」というのも、この世の中が「~である」でなく「~に見える」で動いているからなのでしょう。
 「私は実は考えている」が真実かどうかはどうでもよく、他者から見て私が何も考えてないように「見える」のであれば、世の中的には「私は何も考えていない」のです。
 よくよく考えてみれば世の中が「~に見える」で成り立っているからこそ、いわゆるASD当事者の「擬態」や「外モード」が意味を持つと言えるのではないでしょうか。

 とはいえ(言うまでもありませんが)「~に見える」は客観的な事実ではなく見る人の主観でしかありません。
 「ASDには心がない」というのも実際は「(人によっては)ASDには心がない(ように見える)」に過ぎないのだから、そのように言う人がいたら「『あなたには』そう見えるんだね」で話を終わらせていいように思えるのですが、「『心がない』なんてひどい」と傷ついたり「『心がない』というより~」と真実を追求しようとする当事者が少なくないのは、それだけ日頃から言葉の意味を厳密に、真剣にとらえているからこそなのでしょう。かつての私が「ASDの自分には心がない」とひどく落ち込んだのも、「心がない」を話者の主観的な印象ではなくあたかも客観的な事実や普遍的な真実のようにとらえてしまっていたのが原因だと思っています。

 「彼には心がない」と言う場合、大抵はHe is heartless.ではなくHe seems heartless. (心がないように見える) だと思います。lookのような視覚的な観察だけでなく話者の主観による全体的な印象や感覚に基づくニュアンスがseemにはあります。
 ところが実際にはHe is heartless.が使われることも多いです。これは話者がその人物(He)について「心がない」という「確信」を持っている場合です。例えばその人物が話者に対してモラハラやDVなどの冷酷な行動を繰り返している、または感情や共感を一切見せない場合は話者がそのような「確信」を持ってもおかしくはありません。ここでの「is heartless」は強い推測に基づく「must be heartless」よりもさらに確信度が高く、話者にとっては「事実」であると確信しているという意味になります。この場合、関心を向けるべきなのは実際にその人物に心がないか否かではなく、その人物を「心がない」と断定するに至った背景や話者の心情ではないでしょうか。

 「この世の中は『be』ではなくあくまで『seem』なのだ」と割り切ることで、ずいぶん気が楽になった気がします。不特定多数に向かって「私にだって心はある」などと主張する必要などなく、私の友人たちが私の中に「心」を見出してくれているのであればそれで充分なのです。

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