「変わってる」ことが才能となる場所
最近X(Twitter)の治安?があまり良くないように感じてnoteに軸足を移しつつありますが、幸いnoteをフォローしてくださる方が増えてありがたいと感じています。記事の更新頻度があまり高くないにもかかわらず900人を超えるフォローをいただけるのは驚きでもありうれしくもあります。
特にフォロワー数を稼ごうとも思ってないのですが、これだけ多くの方に注目してもらえるのも、良くも悪くも私が「変わってる」からなんだろうなと思っています。
実際、小中高~大学~会社などどこのコミュニティでも周りからは「何かすごく変わってるね~」と言われてきました。顔立ちも黒髪に小さい目、低い鼻と全く地味なのに「個性が強い」とか「存在感が濃すぎる」などと言われ「そんな奇をてらってるつもりはないんだけど…」ととまどったものです。今から思うと会話のテンポの不自然な遅さや周りの会話とズレた反応、マニアックな知識の一方的な披露やTPOを無視した思い付きの発言など、「そりゃ変わってると言われても仕方がないな」と思い当たることばかりなのですが、学生時代の私は「どうしたら『変わってる』と言われずにすむんだろう」と悩むことが多かったように思います(そのように悩むこと自体がすでに「変わってる」のかもしれませんが…)。
私自身は「変わってる」ことを「個性的」という意味だと前向きに受け止めたいのですが、残念ながら巷では「変わってる」は「常識がない」「自己主張が強すぎる」「協調性がない」とネガティブな文脈で使われがちです。
特に協調性を重んじ共感ベースの会話を多用する女性コミュニティにおいては「普通の人」が「常識的でバランスの取れている人」と好意的にみられる一方で「変わってる人」は悪目立ちしかしません。
実生活の中でも私が素直に感じた意見は周りから「それそれ!わかる~」という反応よりも「へえ~そんな考え方もあるんだ、なるほど…」という反応が返ってくることのほうが多いです。
私は後者の反応も長年「感心してもらえてるんだな」と好意的に受け止めていたのですが、後にそれは「場の空気を白けさせている」ということに気づき、複雑な気持ちになったものです。
巷が望む「個性的な人」とは「普段は常識的にふるまいつつ周りから求められる状況やタイミングで『(一般的にウケのよい)個性』を発揮できる人」なのでしょう。果たしてそれが本当に「個性的な人」といえるのかは疑問ですが…
高校時代に同級生の一人に「誰もがそれぞれに個性的でどこかしら変わってるものじゃないの?」と尋ねたことがあります。
なぜ私だけが「変わり者」と言われてしまうのか納得がいかなかったからですが、その時彼女から言われたのは、「確かにみんなどこか個性はあるんだけど、あなたの場合は一般的に『個性』として受け入れられる範疇を逸脱しているんだよね。それはさすがに直したほうがいいと思う」というものでした。
こちらは生まれた時からこの性格でこの思考パターンなので、どこをどう直したらいいのかわからず当時は途方にくれたものですが、成人してずいぶん経ってから発達障害の概念を知り、「私が『変わってる』と言われていたのはこれだったのか」と目から鱗が落ちるようでした。
多くの当事者と同様、私も「発達障害者は特別な才能がある」という言葉があまり好きではありません。まるで特別な才能がなければ発達障害者の存在価値はないと言わんばかりです。メディアでは「特別な才能」を生かして成功している発達当事者のエピソードばかり取り上げられますが、特別な才能もなければ高学歴高IQでもない単に「変わってる」だけの私には残念ながらあまり共感できるものではありません。自分にあるかどうかわからない「特別な才能」を求めて延々と「自分探し」の沼にはまるよりは自分にあるとハッキリわかっている「多数派と違う独自の感覚や思考プロセス」そのものを「強み」にできる場所を探したほうがはるかに現実的です。
「変わってるけど才能がある」ではなくて「変わってること自体が才能」となる場所が私の究極の居場所なのです。
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