L-TRIPインタビュー企画 #3-1(前編)『肺移植と社会』
L-TRIPでは、「間質性肺炎と肺移植に関する情報不足と不安を解消し、人々の自己実現に貢献する」ことを目標としています。これを達成するために、間質性肺炎や肺移植の経験者、それに関与する医療従事者等にインタビューを行い、生きた経験談や意見を蓄積していく予定です。
このインタビュー企画の第3弾では『肺移植と社会』というテーマで、高校生の頃から間質性肺炎と闘病され、脳死肺移植を経験された nasubi365 さんにお話を伺いました。
(インタビュー実施日:2023年2月18日(土)、オンライン実施)
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ゲスト:nasubi365さん
30代男性。高校生の頃から特発性間質性肺炎に罹患し、30歳で脳死片肺移植を経験して、現在は酸素不要の生活を取り戻している。移植前まではリハビリ関係の仕事をしており、現在は体調に合わせながら在宅でPCを使って働いている。
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1. 患者さんの自己紹介
— 本日はよろしくお願いいたします。簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか?
30代前半のnasubi365と申します。持病としては特発性の間質性肺炎で、高校生の頃に診断されて長年付き合ってきました。2020年には脳死片肺移植を受け、現在は酸素無しで生活することができています。
— 自己紹介をありがとうございます。ちなみに、お仕事は何をやってらっしゃるのでしょうか?
肺移植をする以前はリハビリ関係の仕事をしておりました。現在は体調に合わせながら在宅でPCを用いて働いています。
— 間質性肺炎と肺移植を経て、現在酸素無しで生活されている方のお話は、同じ病気を持つ方にとって非常に大きな力になると考えています。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
2. 間質性肺炎の診断のきっかけ
— 高校生の頃に特発性間質性肺炎と診断されたとのことですが、詳しく伺っても良いでしょうか?
すべての始まりは、高校2年生のときの学校の健診で「肺に影がある」と言われたことでした。要検査となりいくつかの病院に行くことになったのですが、すぐには明確な原因がわかりませんでした。
原因を探している間に、部活の吹奏楽(ちなみにサックス担当でした)の練習中に気胸*を起こしてしまったんです。実は気胸を起こしたことが、間質性肺炎の診断となる手助けとなりました。
— 気胸もご経験があったのですね。当時はすぐに病院に行って気胸と診断されたということでしょうか?
実はその場で気胸だとわかったわけではないんです。確かに胸は痛かったのですが、最初にいった病院では「風邪」と誤診されてしまい、変だなあと思いながらそのまましばらく過ごしていました。
私は当時医療系の大学に興味があり、そのオープンキャンパスに行ったときに脈も取ってもらったら「あれ、脈ちょっとおかしいね」と言われるなど(笑)、やはり当時から肺の問題はあったようです。
最終的には、以前肺の影があったこともあり、念のため健診で行った病院でレントゲンを撮り、肺が破れている、つまり気胸だとわかりました。
— 最終的に診断がついてよかったです。気胸は1度きりでしたか?
最初に気胸の診断がついたときはすぐに入院し、問題なく自然治癒したのですが、その後高校3年生の夏休みまでに合計3回ほど繰り返してしまいました。最終的には再発を防ぐために手術をしようということになりました。
手術に当たって肺の生検*をした結果、肺の組織がどのような状態なのか判明し、特発性間質性肺炎だと診断されました。
— 気胸がきっかけで診断がついたとのことですが、幼い頃から肺が弱かったなどのエピソードはございますか?
それは全く無く、高校2年生頃まで大きな病気もせず健康そのものでした。また、間質性肺炎とわかっても当時は気胸以外に症状がなく、大学生に上がってもあまり病気の自覚はなかったですね。
3. 症状の出現
— 病気が診断された頃についてお話頂きありがとうございました。具体的に病状が進行したのを感じたのはいつ頃でしょうか?
次に変化に気づいたのは、大学を卒業して働きだしていた20代半ばの頃です。当時の仕事は冒頭にお伝えした通り、リハビリ関係の仕事をやっておりました。職員に対して健診があるのですが、呼吸器内科の先生に勧められて肺活量を測定したら値がかなり低かったんです。主治医にも相当驚かれましたね。
— 病院の健診がきっかけだったのですね。その頃は特に症状はなかったのでしょうか?
全然元気でした。リハビリの仕事はバリバリしていましたし、野球をしたりロードバイクに乗ったりなどの運動も全く問題なくこなしていました。しかし症状はゼロかと言うとそうではなく、野球で三塁打を打ってしまうと息が切れて流石にきつかったです。階段や激しい運動をすると少しきついかな、と思う部分はありましたが、日常生活を送る上での問題は小さかったです。
ただ、やはり病状は進行しているとのことで、この頃からオフェブ*と呼ばれる抗線維化薬を服用し始めました。
— 私は薬剤師でもあるため、オフェブを服用されている患者さんからはよく消化器症状(吐き気や下痢)が出ているのを見てきました。nasubi365さんは副作用などいかがでしたか?
吐き気はありませんでしたが、下痢が酷くて大変でした。我慢できずに出てしまうこともあるので、酷いときには紙おむつを使用したこともありました。都内の主要駅のトイレ・近くの百貨店のトイレの位置は大体把握していましたね(笑)。
当時は呼吸の辛さは小さかったので、むしろどこに行くにも下痢を気にしなければならないことのほうが辛かったです。
— 下痢の副作用が相当大変だったのですね…。医療従事者であったということで、オフェブとピレスパのどちらを飲むかについては、先生と相談したのですか?
ピレスパでは光線過敏症の副作用が有名ですよね。下痢は大変でしたが、痛くないし我慢できるかなということでオフェブにした記憶があります。
4. 移植に向けての治療・準備
— 薬の治療以外、将来的な酸素についての話などは医師から受けていましたか?
酸素についてはまだ言われていませんでしたが、私はかなり移植への準備がスムーズだったことが特徴です。生検の結果、私はかなり進行が早い可能性がある類型の間質性肺炎であることが分かっており、また若くして亡くなった親族がいました。そのため、オフェブを飲み始めてから数カ月後には、移植に向けての準備が始まるというかなり特殊な例でした。
先生からも移植についての説明を早い時期から言われており、数ヶ月のうちに入院検査、1年前後で移植待機登録*に至るというスムーズさでした。
— 様々な決定がかなり順調に進んだのですね。
家族歴から考えると予後が悪いと予測されていたこと、6分間歩行などの検査ではサチュレーション(酸素飽和度)*の低下が実際に見られていたこと、呼吸機能検査の結果、CTの所見など様々なことが関係していたのだと思います。
— nasubi365さん自身の、当時の移植に対する思いはどのようなものでしたか。
確かに当時症状はそれほど強くなかったですが、先に述べたように親族が早くに亡くなっていたこと、またリハビリ関係の職業として医療現場にいたことから、自分の状態が悪くなった姿がある意味想像しやすかったです。
だからこそ、将来に備えて今できることをやろうという気持ちで、自分の意志で移植待機登録に臨むことができました。
— 未来を見据えて行動に移すことができたのは、nasubi365さんの強さだと感じました。その後、移植待機登録が完了してからの体調の変化はいかがでしたか。
実際は、想定されていたほど病状の進行が早くなかったです。在宅酸素療法を開始するまでには、移植登録から2、3年間ほど後でした。移植待機登録からも一旦外れたのですが、外れている間に酸素が必要なレベルまで悪化し、再度待機登録に戻される、といった感じでした。
確かに息切れの症状はきつかったのですが、低酸素状態に慣れてしまっていた、というのはありますね。SpO2が90%を切っていても、そんなに動くことが多くなければ案外普通に生活していて、自分で気づかないようなこともありました。
— SpO2が90%以下というと、かなり苦しいのではないかと想像しますが、意外でした。
酸素導入時点では、ただ検査上は相当悪化していたようです。6分間歩行でもSpO2が80%くらいまで低下しており、脈も速くなっていましたからね。
— 元から野球等で運動されており、心肺機能が強かったために、自覚症状が出づらかったのかもしれませんね。
そうかもしれません(笑)。
(中編『5.移植の連絡は突然に』へ続く)
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進行・編集:名倉慎吾
L-TRIP発起人。薬剤師。 2020年に東京大学薬学部を卒業後、2021年に大阪大学医学部へ学士編入学。ALLと間質性肺炎の患者家族であり、医師を目指して勉強に励む。間質性肺炎や肺移植に関する情報格差を少しでも減らしていきたいと考え、L-TRIPを発起。
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