L-TRIPインタビュー企画 #1-2(中編)『肺移植経験者に聞く間質性肺炎』
本記事は前編・中編・後編の3部構成の中の「中編」となります。
▼前編▼
▼後編▼
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ゲスト:Y. Y. さん
職業はITエンジニア。1児の父。特発性間質性肺炎と診断され、在宅酸素療法が必要になる。 2017年に脳死肺移植により、酸素不要の生活を取り戻す。現在は、社内SEとして、フルタイムで働いている。
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5. 急性増悪
— 大学病院で検査を行って以降、体調に変化はありましたか?
検査を行ってから何年か経った後に、1回目の急性増悪が起きてしまいました。急性増悪というのは間質性肺炎の症状が急激に悪くなってしまう事を言います。これによって近くの病院に入院となり、ステロイドパルス療法*による治療を受けました。治療のおかげで一旦は落ち着いたのですが、間質性肺炎は進行してしまい、ついに酸素療法を導入することになりました。
—当初導入された酸素の量はどれくらいでしたか?また生活にはどのような変化がありましたか?
安静時には0.5-1L/分、労作時には2L/分くらいの量でした。安静時にも必要でしたね。
このときは生活よりも仕事への影響が大きかったです。当時は仕事もバリバリやっていたので、酸素ボンベをカートに載せ、それを引きずって移動しながら仕事をしなければなりませんでした。ITエンジニアは仕事柄、客先での勤務もあり、これを引きずっていてはお客さんからの印象も良くないだろうと考えました。そのため、当時発売し始めたばかりの、バッテリー式酸素濃縮器を用いることにしました。これであれば肩に背負って持ち運ぶことができますからね。かなり重いですが。
—酸素療法のボンベというとやはり発電機のような大きさのものをイメージしますが、小型のものでも酸素量としては十分だったのですか?
そうですね。ただ、当時の濃縮型のボンベはやはり多くの酸素を流すことができませんでした。私のような比較的軽微な症状であれば、仕事がなんとかこなせるくらいの酸素を得ることが出来ました。
この一連の急性増悪の件は、以前移植の相談をしたK病院(前編(https://note.com/lung_trip/n/ncfc40f5cabad):移植待機登録は見送られています)に伝え、再受診して審査してもらったところ、無事に移植登録できるということになりました。生活に酸素が必要になったことも大きいと思います。肺移植の兆しが見えて、少し安心したことを覚えています。
6. 2度目の急性増悪
—移植待機になった後、次の転機はどのようなものでしたか?
ついに2回目の急性増悪が起きてしまったのです。その時も風邪をこじらせてしまい、咳が止まらず、夜中に意識が混濁するぐらい悪くなってしまったため、救急車で運ばれました。救急隊がおぶって救急車まで運んでくれたようでしたが、私はほとんど意識がありませんでした。
—非常に危ない状態だったのですね。
私は意識がなかったので全くわかりませんでしたが、即ICU行きだったのでかなり危険だったようです。妻は医師に「覚悟してくださいね」と言われたらしいです。
ステロイドパルス治療を行った後、意識が少し改善した後にベッドの上でレントゲンを取ってもらったら、先生に「肺が真っ白だよ、ステロイドパルス効いていないかもしれない」と言われ、私自身も「これは本当にやばいかもしれない」と覚悟を決めました。当時はそれが死刑宣告みたいなもので、もうこのまま死ぬしか無いのかなと考えていました。
結局、それはベッドの上のためレントゲンがうまく撮れていなかったという落ちでしたが・・・笑
実際にはステロイドパルスはよく効いていたようで、なんとか退院することが出来ました。
—急性増悪の恐ろしさを感じますね。先生のその発言も心臓に悪くて困りますが・・・笑。ちなみに、退院後の生活はどのようなものでしたか?
なんとか生き残ったとはいえ、急性増悪を経験すると急激に呼吸状態が悪化してしまいました。今まで使用していた携帯式の肩掛け酸素ボンベでは足りず、自宅に大きな酸素濃縮器を造設し、家の中では長いケーブルを鼻に入れて過ごすような状態でした。酸素は安静時に5L/分、動く時には7L/分は必要で、少し動くだけでゼーゼーハーハー言っている感じでしたね。トイレに行くだけでも非常に辛いですし、外出する時には、車に大きな酸素ボンベと予備を積んで移動する、という形でした。
—相当進行してしまったのですね。その状態で、お仕事はどうされていましたか?
当然外で仕事をすることは出来ないと判断し、在宅ワークができないか会社と交渉しました。辞めてしまうとお金がなくなってしまうので・・・。仕事がITエンジニアだったため、リモートワークへの理解があり、引き続き雇って貰うことが出来ました。コロナ禍よりもかなり早い段階でリモートワークを実現して、今思えば時代の先を行っていましたね笑。
—前回の急性増悪のときと同様に、K病院には連絡をしたのですか?
今回も連絡をしました。ただ、この急性増悪を受けて、もう関西にある病院には通院することはできないのではないか?と考え始めました。当時は関西でしか肺移植ができなかったのですが、なんとそのタイミングで関東でも肺移植を実施できる医療機関が生まれ始めたのです。しかも、ちょうどK病院でお世話になっている先生が関東の病院(T病院)に招聘されてくるとのこと。まさに渡りに船だと思い、移植コーディネーターさんに連絡し、私も転院させてもらうことにしました。
—ある意味、タイミングが良かったんですね。
私は、なんだか節目節目で運がいいんですよ。2回の急性増悪で死の淵を彷徨ったものの、なんとか生き残ったし、肺移植が実施できる病院が近くにやって来てくれるしで。全ての流れが上手くはまったのは、本当に運が良かったなあと思っています。
7. 移植待機期間
—肺移植は、登録から移植まで2年以上待つことが多いと聞いていましたが、Y. Y. さんの場合はいかがでしたか?
結果として、私の場合はちょうど2年半でした。私は片肺移植なので比較的移植期間は短いはずですが、それでも2年半待つことになりました。これ以上急性増悪を起こさないように気をつけながらの日々ですね。
ただ、ここでまた別の問題が生じてしまったのです。きっかけは会社の健康診断で、血便が出ていると言われたために精密検査になりました。大腸内視鏡検査の結果ポリープが見つかったため、取って生検*してもらったところ、癌だったのです。
—移植の要件*として、悪性腫瘍がないこと、がありますよね。
そうなんですよ。悪性腫瘍を持っていると肺移植の適応になりません。今度こそもうだめかなと思いましたが、がんはStage 0*であり、ポリープ内で完結していたため、移植の待機から外されることはありませんでした。あと少しでも進行していたら、StageIだとしても移植待機から外されていたので、これもギリギリセーフでした。ここでも私は運が良かったです。
8. 肺移植の日は、一本の電話から突然やって来た
—それではいよいよ、移植の日のことも教えていただけますか?
移植待機から2年半後、今から4年前のことです。仕事のお昼休みに突然病院から連絡が来て、「今から病院に来られますか?」と言われました。
—相当急ですね・・・。心の準備、生活面での準備などをする時間はあったのでしょうか?
急ではあるのですが、実はその1ヶ月ほど前から、「そろそろ移植のタイミングかもよ…?」とやんわり予告はされていました。そのため、事前に入院の準備はできていました。必要なものなどは伝えられていたので、入院セットをキャリーケースに詰めて用意しており、それを持ってタクシーで病院に向かいました。
病院に到着すると、簡単な健康状態の検査の後、病棟で「仮眠を取ってください」と言われました。どうやら、脳死の患者さんから肺を取り出し、持ってくるまでの時間を考えると夜中になるからとのことでした。そのために睡眠薬も貰ったのですが、緊張もありほとんど眠れませんでした・・・。
肺が到着したのか、手術室に運ばれ、全身麻酔をかけられたところまでは覚えています。
9. 脳死肺移植、術後の経過
—脳死肺移植の手術時間がどれくらいなのか想像もつきませんが、手術直後はどのような感じだったのでしょうか?
気づいたときには、手術の日から2日経っていました。あとから聞いた話によると、術後1日目で手術部位からの出血があったらしいのですが、当然のことながら覚えていません。気づけば全身管だらけで寝ている状態で、純粋に「終わったんだなあ」という気持ちでした。身体が動かせないので、周りの状態のことはよく分かりませんでした。
—術後は痛みなども強かったのでしょうか?また、呼吸の具合はどうでしたか?
痛みに関しては、おそらくモルヒネなどの大量の痛み止めを投与されていたので、あまり覚えていません。術後の呼吸に関しては、かなり苦しい方もいるそうなのですが、私はそれほどでもなかったです。ぼんやりとしていたので曖昧な記憶ですが。
その翌日に先生がやってきて、「無事手術は終わりました」と告げてもらえました。「起き上がってみましょう、隣のベッドまで自力で動けますか?」と言われたので、なんとか立ち上がって自力で動くことが出来ました。あとから聞いた話によると、これができるかできないかが体力低下の指標、入院期間の指標になるとのことです。不思議なもので、人間は数日寝ているだけで筋力が大幅に落ちるのですね。
—Y. Y. さんの場合は体力の低下が小さかったのですね。大きな術後ということもあり、しばらくはICUだったのですか?
最初の1週間は、看護師さんがつきっきりのICUに入院し、徐々に投与酸素量が減っていきました。ある程度落ち着いてきたところで、一段階レベルが低いICUに移り、1週間程度経つ頃には、酸素量も2L/分程度まで減っていきました。手術直後は30L/分というとんでもない量を流していたそうなので、その頃に比べると相当減りましたね。
一段階に低いICUに移動して2週間弱経った頃、先生が私のところまでやって来て、突然酸素のチューブを抜いたときには驚きました。「大丈夫そうだね、もう良いよ」とのことです。当初は困惑こそしたものの、徐々に慣れてくると、自分で酸素を吸えていることに気づきました。そのまま個室の一般病棟に移ることになりました。
—急ですね・・・笑。呼吸の感覚は、以前自分の肺でしっかり呼吸できていた時のものに近いのですか?
その時点ではまだ多少の息苦しさがありましたが、自分の肺で呼吸ができている事自体は嬉しかったです。この苦しさを解消するためにも、そこからリハビリテーションが始まりました。同時に、移植による拒絶反応*を防ぐための免疫抑制剤の調整も始まりましたね。
—リハビリテーションはどのようなものでしたか?
理学療法士さんが来てくれて、専ら歩いていましたね。その範囲が広がっていく感じです。最初は部屋の中を歩き回り、慣れてくると病棟の同じ階を歩き、さらに状態が改善してくると階段を上り下りもしました。最終的には、病院の敷地外に出て、少し散歩をすることもできるようになりました。これがちょうどリハビリテーションを始めて5週目くらいでしたね。この頃になると免疫抑制剤の血中濃度も安定してきていたようで、晴れて退院することができました。
(後編『10.退院後の生活』へ続く)
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ゲスト:Y. Y. さん
職業はITエンジニア。1児の父。特発性間質性肺炎と診断され、在宅酸素療法が必要になる。 2017年に脳死肺移植により、酸素不要の生活を取り戻す。現在は、社内SEとして、フルタイムで働いている。
ブログ → https://ameblo.jp/gungnir1818/
進行・編集:名倉慎吾
L-TRIP代表。患医ねっとスタッフ。医学生・薬剤師。 2020年に東京大学薬学部を卒業後、2021年に大阪大学医学部へ学士編入学。ALLと間質性肺炎の患者家族であり、医師を目指して勉強に励む。間質性肺炎や肺移植に関する情報格差を少しでも減らしていきたいと考え、L-TRIPを発起。
開催支援:患医ねっと
「患者と医療者をつなぎ、日本のより良い医療環境を実現させる」ことを理念に、医療者と患者が立場を超えて学ぶことのできるイベント等を企画している。(団体Webサイト:https://kan-i.net/)