出生前診断と母性本能
以下のニュースを目にした。
県内という物理的な親近感と共に、小さい子供の母親として胸が苦しくなった。
この記事からは、こちらのご家庭の事情や事の背景はわからない。
ただ、子供の障がいという事実と向き合う時、どうしようもない無力感に苛まれる。
妊娠経験のある女性であれば、短期間であっても、「子の障がいの可能性」と向き合った人は少なくないはずだ。
今年、私は二人目の子を出産した。
高齢出産となる為、産科で出生前診断の案内を受けた。
現在の出生前診断は大きく2種類ある。
①胎児精密エコー
その名の通り、胎児の首の後ろの浮腫(NT)や心臓の血液の逆流などをエコーで見る。
妊婦の年齢などのデータと掛け合わせ、各種ダウン症になる確率を算出する。
注意点として、結果はあくまで確率として出る点があげられる。
確定診断ではないので、必要であれば、羊水検査に進む事となる。
費用は5万円程度。
②NIPT
新型の血液検査。
検査精度(感度、特異度)は約99%と高い。
しかし、こちらも確定診断ではないので、陽性となった場合は、一般的に羊水検査に進むこととなる。
尚、NIPTの陽性的中率は若いほど低く、35歳妊婦で約93.58%と言われている。
費用は20万円前後。
いずれの検査も確定診断の為には、羊水検査に進む事となるが、羊水検査のリスクとして、検査に関連する流産が起こる可能性が0.1〜0.3%ある。
もし陽性ならどうするの?
出生前診断を受ける前提として、もし陽性だったらどうするか?を考える事となる。
出生前診断、確定診断の羊水検査で陽性となった場合、約80%以上が人工中絶を選ぶとも言われている。
したがって、出生前診断で陽性であっても人工中絶はしないという考えであれば、出生前診断自体が必要ないと考える人も多い。
しかし、早いうちに障がいの可能性を知る事で精神的、また病院設備など物理的にも準備ができるという考え方もある。
尚、日本では胎児の疾患や障がいを理由とする人工中絶は認められていない。
しかしながら、母体保護法の
「妊娠の継続や分娩が、妊婦の身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがある場合」
の解釈により、事実上、出生前診断の結果を受けての人工中絶が行われている。
(ここでは人工中絶の是非を論じるつもりはない。当事者の判断が最大限尊重されるべきだと思う。)
私はというと、
NIPTを受けようと思っていたが、夫に躊躇なく
「陽性なら妊娠継続を諦めよう。上の子に迷惑をかけるから。」と言われ、考えが変わった。
重度のつわりで朦朧とした頭の中で、
お腹にいる子がどんな子でも、私が守らなくてはと強く思った。
高精度の出生前診断をしてしまったら、この子を守れない可能性があると感じた。
夫には「出生前診断は受けない」と伝えた。
母の本能?
この妊娠の半年前、私は流産を経験していた。
そして、この妊娠でも切迫流産の状態であった。
妊娠の継続だけを祈って、初期を過ごしていた。
そこへ、出生前診断の案内。
万が一、陽性なら、妊娠の継続を諦めないといけない事になるかもしれない。
「科学技術の進歩は、人間の本能と反対向きに進むものなのか?」 ぼんやりと思った。
そして、次の2点について考え続けた。
・人間は先天的、後天的に、あらゆる疾病や障がいの可能性を持っている。それなのに、3種のダウン症だけを検出して、排除しようとすることに対する違和感
・そもそも疾病や障がいがあるからといって、生きている胎児に対して人工中絶を行う事が動物的には不自然ではないか?
やはり、明確な答えは出なかったが、お腹の中の子を失いたくないという思いは変わらなかった。
誰もが受け入れるしかないこと
仏教の世界でも、人間が逃れられない運命として生老病死があげられている。
現代の技術では、出生前診断により妊娠初期からダウン症について知ることができる。
しかし、どのような道を選択しようと、受け入れるしかない。
人工中絶を選んでも、精神的・身体的負担は壮絶なものだ。
妊娠継続を選んでも、その後の苦労は計り知れない。
命を育むという事は、受け入れるしかないものとの出会いだ。
幸か不幸かという次元ではなく、ただそこにあるものを受け入れるのが母になる事なのだと学んだ。
夫に「出生前診断は受けない」と言った私だったが、密かに①胎児精密エコーを受けた。
結果は、ごく普通のものだったので(とは言え、確率なので障がいの有無は断定できないと医師には言われたが)確定診断には進まなかった。
人工中絶を選択肢に入れずに、何か明らかな障がいがあるのであれば、私だけは先に知っておきたいと思った。
当たり前ではない
子を授かる事、無事出産できる事、不自由なく子育てできる事、「当たり前」なんて一つもない。
時代が違えば、状況が違えば、何かが少し違っていたら、子を普通に育てる事さえ困難だったかもしれない。
だからこそ、前述のようなニュースに胸が痛む。
どうしても他人事とは思えないから。
これも母性本能の一部なのだろう。