承認欲求について考えてみる

もう4大欲求でいいんじゃないでしょうか
現代の「承認欲求」は時にとてつもなく大きな力を持ってる気がします
じゃあ承認欲求は悪いものでしょうか?
ちょっと自分の経験から振り返ってみる。

僕は中学時代に不登校して「マイクラ建築勢界隈」っていう小さな世界に篭ってました。
創作系界隈に居た経験がある方は分かると思いますが、こういう界隈はたいてい承認欲求が渦巻く世界です、まじで。
Twitterなんかが分かりやすい例で、初めは自分の作りたいものを作って投稿していたのが、いつしか「より伸びる」投稿を目指すようになっていた__なんてよく聞く話。

創作の動機が変わり始めるのが僕的には怖い体験でした。
建築勢界隈においては、「見ていて楽しい建築」と「Twitterで伸びる建築」がはっきりと区別されています。
前者は、気の赴くように作って、その世界を楽しみながら作る建築。
後者は、写真映えするようにハリボテに作った建築。
おそらく人の目を気にするかどうかの違いでしょうか。
純粋に楽しんで作る建築は必然的に写真映えせず伸びないことがほとんどなので、Twitterの写真の構図や出来栄えからその人の動機が伺えるなんとも皮肉な界隈でした。

いつの間にか僕もまた写真映えする建築を作るようになって、ハリボテを作って。そして嫌になってやめちゃいました。

承認欲求によって「動機の上書き」が起こるのは、承認欲求を悪いものとして見てしまう理由の一つになりそう。
趣味を仕事にするとその趣味を趣味として楽しめなくなるって言葉はよく聞きますが、まさにそれと近しいものを感じます。

自分もまたその被害者であることから、承認欲求というものはとても興味深いとは思うものの、まだ好きにはなれないようです。
個人的には、悪いものという認識なのかもしれない。

さて、ところでいいところってあるんでしょうか。
少なくとも生物学的には人間は進化してきたはずだから何かあるはず。

しかし実際のところ、いろいろ考えてみたもののあまり思い浮かびませんでした。話題が展開できず悔しい。
承認欲求がプラスに働く場面、何か意見があれば聞きたいです。

承認欲求によって上書きされる前の本来の動機を辿ってみると、純粋にそのものを追求する熱意がありそうです。
しかし全員がそうして何かに対して熱意を100%注いでいると人間間のコミュニケーションって生まれないし、人間が人間として人間社会を築くために、いつのまにか生まれた本能なんじゃないでしょうかね。個人的な考察です。

人の目に対する熱意と捉えれば、ある意味では好奇心なのかも?
動機が上書きされたのではなく、そう見えるだけの別の追求心なのかも?
その場その場で発生するのではなく、人の目に関わる度に連続的に姿を見せているのかもしれない。

承認欲求
お荷物として抱えながら生きていくべきなのか、
それともまだ理解度が低いだけなのか
いったいなぜ存在するのか、そもそもどうやって存在するのか
善なのか悪なのか

うーん深い
人間レベルが上がったらまた書きます


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