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特大勘違い×特大勘違い×特大勘違い=予測不能
『ババンババンバンバンパイア』をアニメで初めて観た。マンガはまだ読めていないのだが、どうやらそろそろ最終巻が出るそうだ!! この作品を見ていて、やはり恋愛は、自分本位になれるからいいなあと思う。そんな恋愛作品の根幹は、「一途さ」と「純粋さ」ではないか、という話。
悲劇と喜劇は、「自分本位」の罠で始まる
人間には、どうしても破れない業がある。それは、自分と言う存在の檻に閉じ込められていることだ。それは精神的にも、肉体的にも、である。
恋人が死んだと思い込んで毒薬を飲んでしまった『ロミオとジュリエット』の例を出すまでもなく、勘違いは人間がその人の目線起点でしかものを考えられないし、ものを見ることができない、というところに由来する。
更に、恋愛感情である。片思いで、相手を落とすことを狙っている時期の恋愛感情というのは、基本的に「下心」である。自分のことを良いと感じてほしい、あの子の方が好きなのではないか、そんな感情に振り回されて、現実を客観的に認識するのが困難になる。それが、傍目に見ているとオモシロイ。
言ってしまえば、恋愛(の、特に駆け引き)をしているときの気持ちというのは、「自分本位が許される」ということではないか。なぜなら、好きだと思う気持ちはもちろん自分本位でしかないのだし、それが叶ったにせよ叶わないにせよ、それが誰かのためになることはない。翻ってそれは、純粋に自分のためだけに行動できる、それが恋愛とも言えるだろう。
単純な勘違いが重なり合って、物語は予測不能に
奥嶋ひろまさ原作、GAINAがアニメーション化を担当した『ババンババンバンバンパイア』という作品は、そんな自己本位の勘違いの連鎖が妙味である。
吸血鬼である主人公、森蘭丸は、「18歳の童貞の血」という極上の食物を手に入れるため、銭湯のひとり息子である立野李仁に目を付け、銭湯で住み込みのバイトをしている。しかし、その立野李仁は、高校入学とともに篠塚葵という女子学生に恋をしてしまう! 両思いだと勘違いした森蘭丸は、立野李仁の童貞喪失を阻止するため、篠塚葵を牽制しに行く。しかし、そこで篠塚葵は森蘭丸に恋をしてしまう。更に、牽制しに行ったことがバレると、立野李仁は森蘭丸が篠塚葵に恋をしている、と勘違いを起こす……。
一つ一つの勘違いは全く単純なのだが、その勘違いが掛け合わさることで、物語は予測不能の体になる。一体どうなっていくのか…? 誰がどうなればいいのか…? コミカルでどの登場人物も魅力的なだけに、オチの想像がつかない。
鍵は登場人物の純粋さか
では、こんな話だったらどうだろう? 森蘭丸が、篠塚葵に本当に恋愛感情を抱いてしまい、二人は結ばれる。ちゃんちゃん。
あるいは、篠塚葵が、本クールの終わりで森蘭丸から立野李仁に乗り換え、二人は結ばれる。ちゃんちゃん。
なんという興冷め。こんな簡単に変わるような恋愛感情を見せられていたのか、と落胆する気持にならないだろうか。
先述した通り、恋愛と言うのは究極の自己本位で、つまり自分の気持ち次第で何でもありということになる。しかし、何でもありではやはり面白くない。その物語を面白くする中心は、「自分の心がままならない」と言う枷ではないか。つまり、登場人物の一途で純粋な気持ちが強いほど、それは登場人物を悩ませ、現実を客観的に認識が出来なくなり、そこに物語が生まれると言えるのではないか。
『ババンババンバンバンパイア』は、立野李仁を始めとする「童貞」にそれを仮託しているのではないだろうか。そして、森蘭丸の童貞を守り切るという強い信念は、彼の食欲そのものである点で、やはり純粋で、一途と言えるだろう。