見出し画像

#03 ”否定”について考えてみる|”違う”と言われたときあなたはどのように感じますか?


”違う”という言葉に強く反応してしまうことに気づいたきっかけ

私は、否定されることに対して極度に拒絶反応を示すタイプで、相手は意見を言っているだけなのに、私はいつの間にか否定をされている気持ちに陥ってしまう。(その原因考察は本記事の最後の方に改めて記載する。)

とくに、最近気づいたのは”違う”という言葉に対して強く反応してしまうということ。

つい先日のことだが、上司と何気ない会話をしていたときに、以下のようなやりとりが起こった。

私:私は○○についてはこう考えていて、こうなったら良いのにと思っているんですよね。
上司:それは違う。俺は○○がこうでこうで~~~~~(しばらく話し続けられた)

その後は険悪な感じになり最悪な雰囲気に。

”違う”という言葉の定義

”違う”という言葉は、ある意味で抽象的で人によって捉え方が異なると思うが、一般的には、”違う”とは、何かを基準としたときに異なることを指すようで…。

(上司は、私の言っていることを否定しているのではなく、意見が違うと言いたかっただけであった、、)

でも、私が人から”違う”と言われたときに感じるのは、「あなたは間違っている(正しくない)」というニュアンスだ。

ちなみに”間違う”とは、正しい状態から外れていることを指すとのこと。

さらに、以下のような興味深い記事があった。

「違うんじゃないですか」と、相手を正面から否定しないで:職場で好かれる言いかえ : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

上記の記事では、”違う”という言葉に対して否定のニュアンスを込めて使っており、私が感じている “違う”のニュアンスと同じだ!と思ったので引用させていただいた。

私たちは、”違う”という言葉を使うときに、あまり区別せずにその時に思っている自分の感情によってニュアンスを使い分けてしまっている気がする。”違う”と言われた側は、何が”違う”のかをその時の前後の会話内容や相手の表情を鑑みて無意識に判断しているのではないだろうか。

”違う=間違っている”という意味で捉えてしまう背景とは?

”違う”は、子どもの頃から周りの大人(親や学校の先生など)から何度も言われ続けてきた言葉の一つなのではないかと思う。

しかも、”違う”は”間違っている”というニュアンスが込められており、さらに言うと”間違っている=ダメなこと”という否定的意味合いで言われてきたことが多いように感じている。

少なくとも、私の記憶の中で子どもの頃に”間違っても良いんだよ”と言う大人に出会ったことはない。

親や学校の先生を否定するつもりは全くないのだが…。

でも、子どもの頃から”間違っても良いんだよ””間違っても良いから思った通りにしてごらん”みたいなフレーズを言われていたら、私の人生はどれだけ違っていただろうか、とつい思ってしまう。。

正しい/間違いの二元論的考え方の弊害

話が少し脱線するが、日本の教育では、正しい/間違いの二元論的な考え方で教えていることが多く、日本人はみんなそうやって育ってきたのではないかと思う。


ただ、少しだけ蛇足を…私の持論となるが、典型的な授業(板書しながら先生の話を聞く)ことは、例え、正しい/間違いのような二元論的なものがあろうとも、それはそれで必要なことであったと思うし、そういう忍耐力をつけることも一つの勉強なんだな、という視点で捉えていた。

社会に出るときにおいては、全く意味がない数学の公式や化学の元素記号を覚えるのだって、今となっては忘れてしまったが、必死に努力して覚えてテストを受けてそれで良い点を取れたそのプロセス(小さな成功体験とでもいうのだろうか)がなぜだか良い記憶として残っている。

また、純粋に、今まで知りもしなかった難しい何かを知った学びの喜びみたいなものがあったのかもしれない。


さらにまた蛇足的な話をすると…
思い返すと、私が(確か)小学校4年生頃から始まった総合的な学習が楽しかった記憶がある。

自分が興味を持った好きなテーマで調べて発表するみたいなやつ。

今の教育がどのようになっているのか、しっかり調べていないので分からないが、今は子どもたちに考えさせる授業がどれくらいあるのだろうか。(機会があれば、調べてみようと思う)


話を元に戻す。

正しい/間違いのどちらかの”答え”を教えられて育ってきた私(たち)は、自分で答えを作ることに苦手意識があるように思う。

しかも、”間違っている=ダメなこと”という基準があるので、正しい答えを探そうとしてしまう。

学校でそのように刷り込まれてきた私(たち)は、社会に出た途端にこれまで教えられてきた基準が通用しないということを突き付けられる。

私は、前職では良くも悪くも放置されていたので、ある程度自分で考えて行動していた自負はあるが、なぜそれができたかと言えば、すでに出来上がっているサービス体系を提供し有形商材を売っていたから。

恐らく、考える必要性がある範囲が私のキャパの範囲内に収まっていたのだと思う。(ある程度失敗を回避できる答えを比較的容易に考えることができた。)

しかし、無形商材だとワケが違う。

答えは探してもどこにもない。自分で作らないといけない。しかも正しい/間違いもない。

今まさに私は自分で答えを作れるようになれるように精進している最中なのだが…。

答えに正しい/間違っているもない、それは分かっていても、間違い=ダメなことという基準が頭のどこかに残っているから、”違う”という言葉に強く反応してしまうのだな、というのが私なりの結論。

そもそも、間違い=ダメなことという基準が頭の中になければ、”違う”と言われてもダメなことではないから、恐がることもないし、傷つくこともないはずだ。

でも、そう思ってしまう性格は直せないし、仕方がない。受け容れる。

だから、”違う”と言われたら何が違うのか?

正しくない、間違っているという意味で言っているのか?

意見が異なるという意味で言っているのか?

今度は必ずその確認をする行動を起こそうと決めている。

”みんな違ってみんないい”というフレーズが、この先の日本において本質的な意味が理解されて広まっていくことを切に願う…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?