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脆い笑顔(忘れられない)~阪神淡路の大地震から30年~/加筆あり


応急危険度判定に行く時にいつも持参するもの。
リュックは神戸に行く時に調達して
今でも使っています。
道具袋にはコンベックス(メジャー)や
下げ振り、チョークなど。
黄緑色のものは簡易な水準器(傾斜の有無を調べる)
銀色のものは危険を知らせるための笛です。

隣家は倒壊していたが、そのお宅は一見被害がないように思われた。
家の人は不安だったに違いない。それでも気丈に明るく振る舞い、笑顔も。
むしろ私たちのことをしきりに心配してくださる。
同じ関西人同士、気さくでその点とても救われた気がした。
被災建築物応急危険度判定作業を終えて先輩建築士が
「基礎から土台が外れてずれている。余震を考えれば早めに対応が必要だ」
という説明をなさった途端、その人はわっと声をあげ泣き顔になった。
脆い笑顔。張りつめた心。何かあれば一瞬で涙がこぼれる。
倒壊した隣家の上の空がやけに青く美しく、それが憎らしく思えた。
青空を見てそのような心境になるのは初めてではなかったにせよ、
その時のことだけはつよく記憶に刻まれてしまったらしい。
あまり多くを覚えていない中でこのことは忘れられない。
人は笑っていても穏やかに振る舞っていても心中は決してそうではない。
当たり前だと思う。
その後の災害時活動の心持ちというか、常に留意すべきことというか、
そういうものがこの時、自分の中で明確になった気がする。

阪神大震災から30年。
言葉にすることがむずかしく、1月17日はただ黙とうしました。
(・・・)
応急危険度判定作業など何度かボランティアで、あるいは仕事で
兵庫県内(被害があったのは神戸だけではないのです)に行ったけど、
なぜかあまりよく覚えていない。
特にご同業や判定士の方たちの中で当時現地活動した人も現役世代から相当減っている。
そこで思い出せること、覚えていることを記しておこうと思います。
(伝聞などを裏付け確認なく記している場合があります)

当時私は大阪の兵庫県寄りの町にいた。
前日は休日だったけど担当業務の打合せがあり、翌日からいよいよ実施設計を始めることになった。
その翌日早朝。
地中でマンションの基礎を下から大きな金槌で叩き上げるような衝撃がガツンガツンと何度かあった。
鉄筋コンクリートの建築が壊れそうな強烈で硬質な衝撃だった。
これが縦揺れだったのだろう。
30年前の私は一度眠るとなかなか目覚めなかったが一発で覚醒した。
続いて大きく横方向にかなりの振幅で揺れ始めた。
揺れが大きいばかりでなく時間的にも長かった。
その間に家の中で物が落ちたりして、外から何かが割れるような音も聞こえてきた。
それまで経験のなかった揺れに初めは恐ろしさを感じたが、
あまりのしつこさに腹が立ってきた。
確か揺れの最中に停電したと思う。
地震だということはわかる。
ようやくおさまってもテレビをつけて報道などを確認することはできない。
今みたいにスマホもネットもない。
ラジオをつけるのに電池がなかったかもしれない。
しばらく状況をつかめぬまま過ごした。

ただ窓から外は見える。向いのお屋敷の大屋根から瓦が大量にずり落ちていた。
倒壊した建物などはなさそうだ。
同じマンションに声をかけ合う相手がいないことに気付いて、
せめて隣近所の人とは知り合いになっておくべきだったと思う。
外から管理人さんと誰かが話す声が聞こえる。どうやらみなさん無事なのだろう。
その程度の推測しかできない。
どこが震源で最も揺れてどこでどんな被害が出ているのかとかまったくわからない。
なにがどうなっているのかがわからなかった。
ただ自分の家も今までに経験のない地震で揺れた、建物が倒れるのではと思うほど。
そしてなんとか無事だったということしかわからない。

しばらくして停電が解消。テレビをつける。
しかしまだ報道も追い付いていない。状況を把握するまでには時間がかかる。
大阪市内のビルの外壁が破損した映像などが流れていた気がする。

やがて震源や震度、兵庫県内の被害状況が映像と共に伝えられ始めた。
驚愕。
言葉を失ってそれを見ていた。

年末で仕事を辞めていた。
それまで何年も無茶な働き方を続けてきたために身体をこわした。
次が決まっていないならバイトで来てくれということで
元の職場に通い続けてはいた、そんな状況だった。
担当していたのが兵庫県西宮市内の建築設計だったが、
もはやそれどころではないということで事業が凍結、
バイトも急に打ち切られて完全に無職になった。

この大変な時に何かお役に立てないだろうか。
当時多くの人がそう思い続けていたはずで、私もその一人だった。
ボランティアの情報などあったら教えてほしいと言っていたら、
2週間ほど経って15年先輩の建築士から電話があり、
神戸で応急危険度判定のボランティアを募っているから行かないかとのこと。
ぜひにということで二人で出かけた。

地震の当日からJR神戸線は大阪駅を出ると次の塚本駅までで折り返し運転だった。
そこから西、神戸方面へは行けない。
塚本は大阪駅から淀川を渡ってすぐ、淀川区の町だ。
次の駅は尼崎でもう兵庫県。
兵庫県内を目指す人たちはこの塚本まで電車で来て、
コンビニなどで飲料水などを調達して西へ向かって歩く。
リュックを背負ってレジ袋を両手に。
それまではスーツ姿にリュックというのはあまり記憶になく、
この頃以降、平常時でも増えて行った気がする。

当時、記録を殆ど残していなかった。
応急危険度判定作業参加のために集合した神戸市東灘区役所。
そこで配布されていたであろう「こうべ地震災害対策広報」(神戸市発行)
その裏に少しメモがある。
ここからはそれを転記してみます。

(当時のメモより)
2/8水 →JR塚本→芦屋→ 
 こわれた町の中を息をひそめるように電車は走る。
 住吉へ、9:10(今日から住吉まで開通)
 ●かべがないとこわれる すじかいかCONパネを入れる 
 クラックはコーキングする 土台がくさるので
 深江本町6件 本庄町2件 森南3件 本山中町2件
(補足説明:
 ・電車は順次開通範囲を伸ばしていきますが、この時、住吉駅まで
  伸びたようです。
 ・●の部分は判定作業前に簡単な説明があり、それをメモしたものと
  思います。
  まだ若い?建築士の卵としてこういうメモをしたのでしょう。
  *これは30年経った今でも建築基準法による木造耐震の基本です。
   ただし伝統構法による古い木造住宅などについてはまた違った
   趣も出てきますが。(クラック=ひび割れ)
   組織設計事務所では比較的大型で鉄筋コンクリート造の建築設計
   ばかりであったため、私にとって木造耐震は未知の世界でした。
   木造建築については独立後腕を磨くことになります。
 ・そのあとの町名と件数は判定作業を行った場所と件数です。
  この時はすべて木造住宅だったように思います)

(当時のメモより)
2/10(金)2回目 小雪舞
 ・魚崎北町6、7丁目(4軒) 魚崎中町3(1軒) 甲南町3、4(3軒)
 4丁目ハイツ tel借用 お礼にみる S造2F キソ4スミ クラック 
 アンカー1ヶ処露出
 旧谷崎潤一郎邸は無事 神戸市がちゃんとすじかいなど補強したらしい。
 古い土かべの家でもすじかいを入れるなどしていればもっている.
(補足説明:
  当時は携帯電話がなく、何か緊急連絡のために集合住宅で電話をお借り
  したようです)
(以上 当時のメモより)

区役所には大勢の建築士が集まっていました。
応急危険度判定にはこの時始めて参加しましたが、すでに判定の目的、内容、手法は確立されていたようです。
なお、大阪府内で応急危険度判定士が制度化されたのはこの地震の後だったはずです。
この地震を契機に大阪だけではなく全国的に普及したものと思われます。
当時の私は前年の建築士試験に合格して免許交付を待っている状態でした。
大先輩建築士の助手として付いて回ったという感じです。

区役所から判定対象までは自転車で移動。
確か全国から寄せられた中古だった気がします(不確か)
現地までの移動は当然スムースではありません。
倒壊した高速道路や建物に道が塞がれて、迂回を繰り返しながらの移動です。
報道で見た光景。
それをわざわざ写真に撮ろうとは思わなかった。
もちろんデジカメもスマホもなく、写ルンです(レンズ付フィルム)を持参していましたが。
そういう写真は報道に任せればいい。こっちはこっちの役目を果たす。
現在なら判定作業の報告に添えるための調査写真は必須で、
後日写真を整理して役所に提出しますが、
当時は何といってもデジタルデータがない。

昼食は近くの小学校へ。
大勢の人たちが避難して寝泊まりしています。
寒空の下、運動場にもたくさん人がいてはって、焚火もしていたように思います。
なんといっても冬で寒い。みなさん大変に違いない。
人気のない校舎の廊下でコンビニのおにぎりを立ち食いした記憶。
(今ちょうど朝のドラマで「おむすび」の話をしていますね)
窓の外、冬空に小雪が舞っていました。

この大変な状況でこんなに大勢の人たちがご苦労なさっている。
自分たちは限られた日数通うだけ。
胸に重苦しいものが降り積もる感覚。
じわりじわり。
後の東北(岩手県釜石市、大槌町)でも大阪北部(高槻市、茨木市)でも
降り積もった感覚、この神戸東灘が最初でした。

後に東北で一緒に活動した相棒とはこの頃まだ出会っていない。
彼はずっと神戸に留まって倒壊した建物の下に埋もれたままの人たちをさがす作業を続けていたという。
私には想像できない経験をしたはず。
岩手でも心強く支えてくれたけれど、彼の強さと優しさにはこの時の経験が大きな意味を持ったのだろう。
岩手でお世話になった釜石の親分さん(建築士)も神戸に応援に来てくださったということなので、
もしかしたら役所とかどこかですれ違っていたかもしれない。

その後、しばらくして就職先候補のコンサルから連絡があり、とりあえずバイトさせていただきました。
兵庫県内某市の震災復興計画策定を支援していて、こういうところで大手コンサルが動いているのだなと知る。
計画策定の作業面をお手伝いさせていただいたに過ぎないけれど、
避難してきた人たちが寝泊まりしている役所に何度も通い、打合せにも参加させていただきました。
復興計画もいつまでに策定して市民に知らせなければならないという期限があって、
そのぎりぎりまで必死で作業を続けたように思う。
ほかには倒壊した複数の木造家屋の敷地をまとめて一敷地とし、そこに集合住宅を建てた場合の配置検討などもありました。
人々の生活再建のあり様をさぐっていたと思います。それがまちの復興とか再生につながることを願いながら。
そういう検討の中に尊敬する建築家自邸の敷地も含まれており無念でした。
多くの建築が損壊する様子を目にしながら、また新たに建築を建てようとすることに多少複雑な思いを抱えながらの作業でした。

翌年の春。
コンサルではなく設計事務所に転職しました。
この時はまだ建築単体のデザインを自分で決めたいという思いが強かったためですが、
元々敷地内だけではなく敷地の外、周辺地域やまち全体を見て仕事がしたかった。
建築基準法に単体規定と集団規定があるように、単体か集団か、というのは
建築関係者にとってひとつのテーマであり続けます。
私の場合、実務的には前者寄りから後者寄りへと年を経るにつれ変わっていったように思います。
独立後、設計事務所を名乗るわりには小ぶりのコンサルみたいな感じになっているのは、
この頃の経験も影響しているのかもしれません。

同じ春。
彼女は就職先が神戸だったので近くに住居を求めたが物件がない。
仕方なく大阪の中でも兵庫寄りのわが町にやって来た。
無類の猫好きだけどめちゃ犬がこわい彼女(ひとつ前の投稿マンガのモデル)です。

以前も書いた気がしますが、こうした災害などは
あまりに多くの人たちの生活や人生に広く大きく様々に影響しています。
そして影響は終わることなく続いています。
私もそうですし、これを読んでくださっているあなたもそうかもしれません。
どうかみんな平穏に無事に過ごせますように。
そう願いつつもいつか必ず起きる次の災害に備えるしかないのでしょう。

昨今、地震に加えて豪雨や台風などが折り重なって被害を拡大することが多いです。
これに人口集中や逆に過疎、そして高齢化などの問題が絡みます。
備えや対応のむずかしさを感じます。
答は出ないでしょう。問い続け対応を続けるしかないのかと思います。
とりあえず自分にやれることから。

長くとりとめのない話になりました。
お付き合いいただきありがとうございました。

それでは、また


「こうべ地震災害対策広報 第7号」神戸市発行
「産経新聞 阪神大震災特別版1」
東灘区役所で配布されていたと思われます。
生活に直結した支援情報が中心。


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